浴室には湯気が立ち込めていた。
東雲たくまは鍛え上げた上半身を露わにし、蜂蜜色の肌には車が坂を転落した際の擦り傷とアザが点在していた。
彼は不機嫌そうな顔で、東雲明海の「世話」を受けていた。
「いつ帰るんだ?」
東雲たくまはぶっきらぼうに聞いた。
東雲明海は大きなタオルで彼の背中をゴシゴシと拭いていた。
かつて仲が良かった頃、よく一緒に風呂に入り背中を流し合ったものだ。
「へえ?」東雲明海はわざと声を伸ばし、東雲たくまの背筋が瞬間的に緊張するのを楽しむように、口元に笑みを浮かべた。
「初音が帰る時までだよ。二人きりにして、旧情までもたれるわけにはいかないからな」
東雲たくまは拳を固く握りしめた。
今が「負傷者」でなければ、すぐにでも殴りかかるところだった。
「そんなに暇なのか?」
東雲明海はもちろん暇ではなかった。
東雲財閥のいくつかの会社を任されていたが、どんなに忙しくても篠宮初音には及ばない。
仕事は後回しでも、妻を追いかけるのが優先だ。
「えー」と再び長く伸ばした声に、東雲たくまは跳びかからんばかりに怒りを爆発させそうになった。
東雲明海の到着は篠宮初音にとって安堵でもあり、同時に二人の衝突を心配させるものだった。
彼女は浴室の物音に耳を澄ませていたが、幸い何事もなかった。
背中を拭き終えると、東雲たくまは振り返り、明らかに不機嫌な表情を浮かべた。
「どうした、下半分も拭いてほしいのか?」
東雲明海はからかった。
東雲たくまの顔はさらに険しくなった。
「出て行け!」
「じゃあ、すぐに出るよ」
「待て!一緒に出ろ!」
東雲たくまは即座に制止した。
東雲明海が警戒するように、彼もまた東雲明海を警戒していた。
初音と二人きりになんてさせない!
東雲明海は出ていかなかった。
東雲たくまのギプスをはめた手足を見つめ、突然真剣な表情になった。
「車の故障は調べたか?」
東雲たくまも表情を硬くした。
幸い坂が緩やかだったが、もし崖から転落していたら命はなかった。
これは明らかな殺意だ。
「佐藤秘書が調べている。すぐに結果が出る」
佐藤秘書の効率は高く、一晩で原因を突き止めた。
土地問題で東雲財閥に恨みを持つ地元住民が、洗車店の従業員を買収しブレーキに細工をしていたのだ。
報告を聞く東雲たくまの顔は青ざめていた。
「社長、どうしますか?」
「警察に通報だ。証拠を渡せ!」
「はい!」
佐藤秘書が去り、病室には再び東雲たくま、東雲明海、篠宮初音の三人だけが残された。
気まずい空気が流れた。
篠宮初音は東雲明海が来たことで、自分が帰るべきだと感じた。
「東雲さん、お休みなさい。明海さんがいるので、私は帰ります」と、礼儀正しくも距離を置いた口調で言った。
「初音、送るよ」東雲明海はすぐに追いかけた。
東雲たくまは歯ぎしりした。
やっと引き留めたのに、東雲明海のせいで台無しだ!
「初音、私も南の街に戻るから、送っていくよ」
「結構です。自分でタクシーで帰ります」
篠宮初音は即座に拒否した。
東雲明海の目が暗くなり、寂しげな表情を浮かべた。
「初音、そんなに怖いのかい?たとえ…俺のことが好きじゃなくても、友達ではあるだろう?」
彼は副駕駛席のドアを開け、拒絶を許さぬ口調で言った。
「乗って!」
普段は穏やかな東雲明海だったが、この瞬間ばかりは東雲家の男らしい強引さが表れていた。
篠宮初音はこれ以上拒むと却って不自然に思われそうだと感じた。
結局、彼女は車に乗り込んだ。
篠宮初音が東雲明海の車で去ったことを知ると、東雲たくまは病室をめちゃくちゃに破壊して暴れた!
手足の骨折は同情を引くための偽装だったが、もう意味がない!
東雲社長はその場でギプスを外し、即時退院を要求した。
急いで用事を済ませ、南の街に戻らなければならない!
北の街から南の街まで車で4、5時間かかる。
篠宮初音は昨夜眠れなかったため、すぐに睡魔に襲われた。
彼女は目を閉じ、すぐに眠りに落ちた。
東雲明海は彼女が眠ったことに気づき、路肩に車を停めた。
シートを倒し、自分の上着をそっと掛けてやる。
篠宮初音は深く眠っていた。
東雲明海は初めてこんなに近くで彼女を見つめた。
長いまつげ、陶器のように滑らかな肌、微かに開いた唇から覗く湿った舌先。
思わず吸い込みたくなるような甘い誘惑だった。
彼は知らず知らずのうちに近づき、優美なあご先を徐々に下げ、その柔らかい唇に触れそうになった…
しかし、最後の瞬間に我に返り、すぐに身を引いた。
好きな人に触れたいのは自然なことだ。
だが、彼が望むのは、彼女が寝ているうちに奪うような行為ではない。
いつか、彼女が意識的に、自らの意思で彼の腕に抱かれ、激しく口づけする日が来ると信じていた。
東雲明海も徹夜で車を走らせてきたため、疲れを感じていた。
疲労運転は危険だ。
二人の安全のために、彼もシートを倒して目を閉じた。
篠宮初音は長い間眠った。
目が覚めると、外は真っ暗で、東雲明海の上着が掛けられていた。
上着には淡い杉の香りが残っていた。
しばらくして東雲明海も目を覚ました。
彼は反射的に助手席を見た。
上着だけが残され、初音の姿がない。
心臓が冷たく沈む!
しかし、すぐに彼女が少し離れた場所に立っているのを見つけた。
彼は上着を持って車を降り、一歩一歩彼女に近づいていった。
夜空には星が瞬いていた。
篠宮初音が星空を仰ぐと、突然肩に上着がかけられた。
振り向くと、東雲明海が同じように星空を見上げ、薄笑いを浮かべていた。