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第47話

篠宮初音の頬が東雲天闊の胸に密着し、生地の下から伝わる温もりと、男性特有の清冽な香りをはっきりと感じ取った。


彼の腕に抱きしめられた瞬間、再び錯覚に襲われる。


まるで自分が彼の世界の中心であるかのような。


「申し訳ありません、九条様! 急に野良犬が飛び出してきまして……お二人とも大丈夫でしょうか?」


運転手の声が前方から響き、バックミラーに映った後部座席の様子を一目見て、自分が何かを邪魔したことに気づいたらしく、声が小さくなった。


天闊の視線が鋭く前方に向けられ、遮られた不快感が一瞬浮かぶ。


運転手はすぐに口を閉じ、集中してハンドルを握り直した。


運転手の言葉で我に返った初音は、そっと天闊の腕から離れ、頬にかかった髪を耳にかき上げた。


「さっきは……ありがとう、先輩」


かすかに震える声。


天闊も少し落ち着きを失い、低く「ああ」と応じる。


ふと、かすかな血の匂いが鼻を掠めた。


天闊の視線が初音の左腕に釘付けになる。


白い包帯の端から、鮮やかな赤が滲み出ていた。


「篠宮さん、傷口が裂けた」


天闊の声が沈み、揺るぎない心配が込められる。


「病院に戻ろう」


自分が咄嗟に抱き締めたせいで傷を悪化させた。


その事実が彼の胸を強烈な自責と心痛で満たした。


初音自身はさほど痛みを感じていなかったが、指摘されて気づく。


「病院まで行かなくても大丈夫。家に救急箱があるから、自分で処置すれば……」


天闊は何も言わず、運転手にスピードを上げるよう目配せした。


楓ヶ丘アパートに到着し、初音が鍵を取り出した瞬間、背後から天闊の声が響いた。


「僕の部屋に来てくれ。包帯を替えよう」


「いえ、先輩、そんな……」


反射的に断ろうとする彼女に、天闊は再び言った。


「僕が包帯を替える」


穏やかな口調ながら、今まで感じたことのない、反論を許さない強さが込められていた。


これは初音が初めて目にする、天闊の優しさの裏に潜む強さだった。


東雲たくまのような窒息しそうな圧迫感とは違い、彼の強さは彼女に不快感を与えなかった。


天闊のアパートに再び足を踏み入れると、相変わらず整然とした空間が広がっていた。


入院中でも家政婦が毎日掃除に来ており、冷蔵庫には新鮮な食材が詰まっている。


「少し待って。救急箱を持ってくる」


天闊は車椅子で寝室へ向かい、すぐに救急箱を持って戻ってきた。


初音の前に来ると、意外にも車椅子のアームレストに手をかけ、ゆっくりと立ち上がり、彼女の隣のソファに腰を下ろした。


そして、極めて繊細な動きで彼女の包帯を解き始める。


一つ一つの動作に、彼女を痛めつけないようにという配慮が滲んでいた。


初音の視線が、傷を処置する彼の手に注がれる。


その手は骨ばって長く、白く、まるでピアノを弾くために生まれたかのようだった。


「九条先輩、ピアノを弾けるの?」


思わず口をついて出た質問。


天闊の手が一瞬止まり、彼女を見上げる。


「弾ける。聴きたい?」


初音は迷わず頷いた。


彼女の気づかない瞬間、天闊の唇に一抹の、ほとんど溺愛とも言える微笑が浮かんだ。


包帯が完全に解かれ、縫合された醜い傷が光に晒された。


天闊の目が一瞬冷たくなり、抑えきれない殺意が奥底で渦巻く。


彼女を傷つけた者が……


彼の長い指が傷の上で静止し、触れたい衝動を必死に抑える。


「痛いか?」


声にわずかな緊張が混じり、まるでその痛みが自分にも及んでいるかのようだった。


「平気」


初音の声は冷静だった。


生死の境を彷徨った痛みに比べれば、この程度の傷など何でもない。


痛くないはずがない。


ただ、彼女は耐えることに慣れているだけだ。


天闊の胸が目に見えない手で締め付けられる。


「もう二度と、こんな思いをさせない」


重い誓いを込めたような低い声。


初音は彼の澄んだ瞳を見つめ、唇の端を緩めた。


「うん」と答えた。


傷口は実際には裂けておらず、少し血が滲んだだけだった。


天闊は消毒綿で丁寧に血を拭き取り、新しい包帯を巻いた。


「ピアノを聴きたいと言ったよね? こっちへ」


彼はそう言って案内する。


初音が天闊についてピアノルームに来た。


天闊は鍵盤の蓋を開け、ベンチに座った。


長い指が黒白の鍵盤を軽く撫でる。


初音は少し離れた椅子に腰かけ、静かに彼を見つめた。


難曲の『Croatian Rhapsody』が流れ出した。天闊の演奏は水が流れるように滑らかで、一つ一つの音符が完璧に制御され、その技術の高さに驚嘆せざるを得ない。


初音は心から感服し、自分も指を動かしたくなった。


腕に傷がなければ、彼と連弾したいほどだ。


午後の金色の陽光が窓から差し込み、床に斑な影を落とす。


ピアノルームは明るく温かかった。


初音はピアノに向かう姿を一心に見つめ、柔らかな光が彼女の穏やかな横顔を縁取った。


天闊が時折目を上げると、彼女が完全に音楽と自分に没頭している様子が見えた。


その認識が彼の瞳の奥の笑みをさらに深くし、内から溢れる満足感に包まれる。


ピアノの音は午後中続き、初音もその間ずっと静かに聴き入っていた。


陽の光に暖められ、あまりの安らぎに、いつの間にか椅子の上で眠りに落ちていた。


目を覚ますと、見知らぬ部屋のベッドの上だった。


シンプルで冷たいグレーと白を基調とした室内。


ベッドサイドには学生時代の天闊の写真――彼の寝室だ。


布団を蹴り、スリッパを履いて部屋を出ると、ちょうどキッチンからエプロンをした天闊が出てきたところだった。


車椅子の昇降機能を使えば、料理も問題なくこなせる。


「篠宮さん、起きた? ちょうど食事ができたところだ」


「どうして寝てたんだろう……それに、先輩のベッドで」


初音は少し恥ずかしそうだ。


「僕の演奏が眠気を誘うほど退屈だったのかも」


天闊は冗談めかして言った。


「先輩のピアノが退屈なら、この世に良い音楽はありませんよ」


これは最高の賛辞だった。


「褒めすぎだ」


天闊の視線が彼女の首筋を一瞬掠め、かすかに硬くなる。


初音はその視線に気づき、不思議そうに尋ねた。


「先輩、何か見てました?」


「部屋に蚊がいたのかも」


天闊は平静を装い指さした。


「首に……赤い痕が二つついている」


初音は洗面所へ向かい、鏡に映った自分の首を確認する。


確かに白い肌に二つの不自然な赤い痕。


まるでキスマークのようだが、すぐにその考えを否定した。


九条先輩の目がそんなに澄んでいるのだから、彼の仕業であるはずがない。


きっと蚊に刺されたに違いない。


彼女が見ていない背後で、天闊の指が自分の唇に触れ、漆黒の瞳に狂気じみた執着と満足が渦巻いているのを、彼女は知る由もなかった。


まるで吸血鬼が最も甘い獲物を眺めるように。

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