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第48話

食卓には色とりどりで香り高く、味わい深い料理が並んでいた。


九条天闊は取り箸で清蒸し魚を一塊取り、篠宮初音の椀に載せた。


「食べてみて」


「先輩、ありがとうございます。自分でいただきます」


初音が一口食べると、魚の身は柔らかく味が染み込み、火加減も絶妙だった。


彼女は九条の料理の腕がプロ並みであることに驚いた。


二人は静かに食事を進め、「食事をする時に話をしない」の礼儀を守っていた。


ただ、九条の視線が時折、彼女の首筋にある二つの痕へと忍びやかに滑り、密やかな愉悦を帯びていた。


食後、初音が自ら食器を片付けようとすると、九条は制止した。


「手が不自由なのだから、私がやる」


「腕だけですから、大丈夫です」


「私がやる」彼の声は穏やかながら、議論の余地がないほどに決然としていた。


初音はそれ以上主張せず、ソファに座ってガラス越しにキッチンで食器を洗う九条の背中を見つめた。


初音の指は無意識に首筋の赤い痕を撫でた。


そこは痛くも痒くもなく、流石に蚊に刺されたような痕には見えなかった……


夜更け、九条は仕事を終え、浴室に入った。


温かい水流が体を流れ、彼はベッドに横たわった。


午後、篠宮初音が眠っていたベッドだ。


彼は初音を客室に案内することもできる。


だが、わがままを言えば、初音の気配をこの場所に留めておきたかった。


今、布団にはまだ彼女の微かな香りが漂い、九条を包み込んでいた。


それは彼にこれまで感じたことのない安らぎと満足感をもたらした。


その夜、彼は久しぶりに深く眠った。


夢の中で、彼は初音を思い切り抱き締め、自らが刻んだ首筋の痕にキスをしていた……


腕の怪我のため、篠宮初音は聖心医科大学付属病院で東雲宗一郎のリハビリに付き添うことができなくなった。


ここ数日、初音は家で新曲の制作に没頭し、配信を休止していた。


時折、生活用品を買いに出かける程度だ。


不思議なことに、彼女が出かけたり帰宅したりするたび、廊下や団地内で「偶然」九条天闊と出くわした。


天闊はちょうど出かけるところか、散歩から帰ってきたばかりのようだった。


初音は不思議に思った。


どうして最近、天闊は病院でリハビリをしないのだろう?


九条が入院していたのは、彼女に会うためが大きな理由だった。


今、彼女が家にいるので、彼も仕事とリハビリをマンションに移し、ほとんど外出しなくなったのだ。


ある午後、初音がゴミを捨てに下りていくと、再び車椅子で「散歩」から帰る九条と出会った。彼女は笑顔で挨拶した。


九条の視線は彼女のすべすべとした首筋に注がれた。


あの二つの赤い痕はすっかり消えていた。


強い喪失感が彼を襲った。


彼は初音の体に、決して消えない、自分だけの痕を残したいと強く願った。


初音は九条が自分の首を見つめているのを見て、また蚊に刺されたのかと思い、無意識に掻いてしまった。


彼女の肌は白くてデリケートで、数回掻いただけで赤い痕がくっきりと残った。


「掻かないで」九条はほぼ瞬時に車椅子から身を起こし、彼女の手首を掴んだ。


初音は驚き、まだ手を引っ込める間もなく、横から大きな力が襲ってきた!


東雲たくまは初音に近づくため、楓ヶ丘アパートに引っ越してきており、初音の真上に住んでいた。


階段を下りてきたたくまは、この親密そうな一幕を目撃し、理性を失った!


彼は一歩踏み出し、片腕で初音を強引に自分の胸に押し込んだ。


その力は彼女を窒息させるほどだった。


「初音!こんな役立たずを好きになるな!」彼は九条の方に向かって怒鳴った。


九条はその不意の力でバランスを失い、惨めに地面に転がった。


あの天国のようなメロディー を奏でた手は、今は無力に冷たい床を押さえつけているだけだった。


篠宮初音の心中で、九条天闊は最も高貴で優雅な存在だった。


塵一つも浴びるべきではないのに、ましてやこんな惨めな姿を見せるべきではなかった。


この光景を見て、彼女は東雲たくまに対する怒りと、九条に対する心痛で胸がいっぱいになった。


「見ろ!」東雲は地上の九条を悪意たっぷりに嘲笑い、耳障りな声で言った。


「立ち上がることすらできない役立たずが、お前のそばにいる資格なんてあるのか?」


「東雲たくま!もうたくさん!」初音は鋭く叱責し、肘を後ろに突き出し、全力で東雲の腹を打った!


「ぐっ!」東雲は痛みにうなり、腕の力を緩めた。


初音はその隙に逃れ、振り向くと、ためらうことなく手を振り上げた。


「パン!」一発の響く平手打ちが東雲の頬を打った!


世界は一瞬、静まり返ったようだった。


東雲は頬を押さえ、驚き、怒り、悔しさ、そして一抹の屈辱が目の中を行き交った。


最終的に、彼は絶望的な野獣のように咆哮した。


「俺を殴った?篠宮初音!お前、この障害者のために俺を殴ったのか?!言え!こいつが好きなのか?足が動かないくせに、あれはまだ使えるのか?お前を満足させられるのか?!」


彼は再び彼女の手首を掴み、目には嵐が渦巻いていた。


「俺が一番好きじゃなかったのか?俺と寝るのが一番好きじゃなかったのか?俺なら三日もベッドから起きれなくしてやれるのに、この体の不自由な奴にそれができるのか?!」


九条は地面に突いた手を強く握り、爪が掌に食い込むほどだった。


彼の目には今まで見たことのないほどの強い殺意が渦巻いていた。


東雲たくまの言葉一つ一つが毒を塗った刃のようで、篠宮初音の心臓を容赦なく刺した。


初音はもう飽きていると思っていたが、今は四肢から鋭い痛みが走るのを感じた。


彼女もあくまでも人間で、痛みを感じる普通の人間だったのだ。


たくまは言葉を発した瞬間、後悔した。


初音の急に青ざめた唇と震える体を見て、大きな恐怖に襲われた。


「いや…初音、ごめん!今のは怒りのせいだ!本当じゃない!許して!絶対に許してくれ!」


たくまは慌てて初音の手首を離し、代わりに彼女の腕を掴んで、初音の手で自分自身の頬を力いっぱい叩き始め、自傷行為で許しいを乞おうとした。


初音は一言も発せず、彼を一瞥することさえなかった。


たくまの手を振り払い、きっぱりと背を向け、地面に倒れた九条に向かった。


「天闊先輩、ごめんなさい」初音の声には深い後悔と痛みがにじんでいた。


自分のせいで、天闊が理不尽な災難とこんな屈辱を味わわなければならなかった。


初音は慎重に天闊を起こし、車椅子に戻し、東雲たくまの視界から消えるまで、後ろを振り返らずに押していった。


東雲たくまはその場に凍りつき、赤くなった自分の手のひらを見つめた。


後悔という毒の蔓が心臓に絡みついた。


初音に近づきたかっただけなのに、どうしていつも、彼女を遠ざけてしまうのか?


たくまはさらに強く自分の頬を叩き、「パン!」と乾いた音が、空っぽの廊下に響き渡った。

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