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第50話

篠宮初音の心の湖には、無数の小石が投げ込まれたように、波紋が広がり、なかなか静まらなかった。


天闊先輩が…私にキスをした。


だから、私の直感は正しかったのか?


天闊先輩は私のことが好きなのか?


あの「深く愛していた人」とは…私のことだったのか?!


だとすれば、あの火事で命がけで救おうとしたのも…私だったのか?


心は完全に乱れていた。


このまま眠ったふりを続けるべきか、それとも目を覚ましたふりをするべきか?


九条天闊の深い愛情に胸が熱くなる一方で、同時に不安がこみ上げてきた。


私はもう誰かを愛する力を失ってしまったと思っていた。


同じ気持ちで応えることができないのは、天闊先輩に対して不公平だ。


それに、私は離婚歴があり、そして…もう子供を産むこともできないのだ…


結局、初音女は目を閉じたまま、何も知らないふりを選んだ。


お互いの本心を悟られぬままの距離を保つことが、最善の選択なのかもしれない。


……


マネージャーの松本玲子は、篠宮初音を見捨てたわけではなかった。


初音の動向を常に注視していた。


初音が投稿した新曲『愛を失った者』は、以前の『雨の夜』『晴れの日』とは全く異なるスタイルながら、同じく心を打つ作品だった。


こうした多様なスタイルを自在に操る才能に、松本はますますスカウトを決意した。


久しぶりにこんなに興奮していた。


「篠宮さん、もう少しだけお話しさせてくださいませんか?」松本玲子は再び初音の前に現れた。


その執拗な姿を見て、篠宮初音は軽く眉をひそめ、明らかな不快感を表に出した。


何度も明確に断ったのに、またやってくるとは思わなかった。


以前は礼儀として直接的な拒否は避けていたが、これ以上付き合う必要はなさそうだ。


「松本さん」初音の声は冷たく、「前回までの話で十分伝えたと思います。すみませんが、用事がありますので」彼女は松本をよけようとした。


「篠宮さん、本当にこれが最後です!少しだけ座って話しませんか?」と松本は再び彼女を遮り、低姿勢で懇願した。


「いいでしょう。ここで話します」と一瞬の沈黙の後、初音は答えた。


「篠宮さん、会社に縛られたくないお気持ちは分かります。でも、もっと多くの人に音楽を届け、愛されてほしいと思いませんか?」と松本は安堵の息をつき、すぐに切り出した。


音楽を愛する初音の心に、この言葉は確かに響いた。


初音は黙ったまま、松本の続きを待った。


松本は勢いを増して提案した。


「夢を諦めたくないけど束縛も嫌なら、ご自身のスタジオを立ち上げてはいかがですか?私たちのチームごと、あなたのスタジオに加えてください」と。


この提案に、初音は驚きと共に心が動いた。


スタジオ設立は彼女一人では不可能な話だ。


人てもなければ、業界の知識もない。


だが松本のような経験豊富なマネージャーがチームごと加わるなら話は別だ。


ただ…なぜそこまでするのか?


「スターグロウメディアと契約中でしたよね?どうやってチームごと移るんですか?」初音は核心を突いた。


「既に解約済みです。チームも契約トラブルは一切ありません。ご安心ください」と松本は涼しい笑顔で答えた。


解約?まだ何の約束もしていない段階で?この覚悟と誠意に、初音は心を動かされざるを得なかった。


「篠宮さん、ここまでの誠意を見せたんです。一度考えてみてくれませんか?すぐに断らないで」松本はタイミングよく柔らかな口調に変えた。


「分かりました。3日考えさせてください。承諾するにしろ断るにしろ、返事します」初音は確かに興味を抱いた。


「ではお答えをお待ちしています。そうそう、前に渡した名刺、捨ててませんよね?」と松本の顔に安堵の笑みが浮かんだ。


「捨ててたらショックです」と松本は冗談めかして続けた。


「捨ててません」初音は答えた。


「良かった!ではこれで失礼します。ご連絡お待ちしています」


……


その後数日、九条天闊は異常なほど忙しくなっていた。


政府の大型入札プロジェクトに全力を注いでおり、東雲財閥が最大のライバルだった。


恋でも仕事でも、東雲たくまには負けたくなかった。


東雲たくまもこのプロジェクトに全力を尽くしており、しばらくは初音に執着する余裕がなかった。


同じ楓ヶ丘アパートに住んでいても、わざとでなければ顔を合わせることは稀だった。


東雲たくまは深夜の仕事が終わると、よく初音の部屋の前に立ち、1時間でも2時間でも、時にはそれ以上、ただ佇んでいた。


冷たい扉一枚隔ててでも、初音の近くにいたかった。


腕の傷が癒えた後、篠宮初音はすぐには聖心医科大学付属病院に東雲宗一郎を見舞いに行かなかった。


傷跡がもう少し薄くなり、ファンデーションで隠せるようになってから行こうと思った。


爺様を心配させたくないからだ。


だが毎日執事の中村に電話を入れ、爺様の回復が日増しに良くなっていると聞くと、心から安堵した。


篠宮初音には朝のジョギングが習慣だった。


怪我が治ると、彼女はこの習慣を再開し、毎朝5時に起きて出かけた。


ある日、彼女がスポーツウェアに着替え、玄関のドアを開けると、ドアにもたれかかっていた人影が不意に倒れ込んできて、彼女はびっくりした!


「誰?!」


昨夜、東雲たくまは彼女のドアの前で座り込んでいたうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。


この転倒でたくまは少し混乱し、篠宮初音の顔を見ると、慌てて起き上がった。


「初音、俺は…」東雲たくまはきまり悪そうに彼女を見つめ、悪戯を見つかった子供のようだった。


少し座るつもりが、眠ってしまったらしい。


「東雲たくま、また何の用?」篠宮初音の声には隠しようもない嫌悪感がにじんでいた。


今ではたくまを見るのも話すのも、心底嫌だと感じていた。


東雲たくまには、それがよく分かっていた。


全てが自分のせいだと自覚していた。


「初音」彼は突然態度を軟化させ、まるで飼い主にすり寄る大型犬のように、しおらしい声で言った。


「もう怒らないでくれないか?全部俺が悪かった。これからは絶対に怒鳴ったりしない、お前の言うこと全部聞くから…頼むから、もう怒らないでくれないか?」

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