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第51話

目の前の東雲たくまには、以前の陰鬱で狂気じみた面影は微塵もなく、まるでしっぽを振って懇願する子犬のようだった。


しかし、彼が狂った悪狼であろうと、良い子ぶる子犬であろうと、篠宮初音の目には何ら変わりなく、すでに心の扉の外に追いやられていた。


彼女は容赦なく彼の手を振り払い、通り過ぎようとした。


ところが東雲たくまは体を傾け、ぐったりと彼女に倒れかかる。


「東雲たくま! 放して!」篠宮初音は鋭く叱りつけ、力いっぱい押しのけようとしたが、逆に抱き締められた。


「初音、苦しい…熱があるみたいだ…」鼻声がかった声で彼は訴えた。


そう言われて初めて、篠宮初音は彼の体が焼けつくように熱いことに気づいた。赤く焼けた鏝のようだった。


政府の入札プロジェクトに寝食を忘れて取り組み、昨夜は階段で座ったまま眠り込んだため、ついに体が持ちこたえられなくなったのだ。


「まず放しなさい! 救急車を呼ぶわ」篠宮初音は冷静に言った。


しかしこれは東雲たくまの望む結果ではなかった。


この発熱を利用して篠宮初音に看病させ、ひょっとしたら彼女の憐れみを引き出せるかもしれないと画策していた。


たくみは命の綱のように初音にしがみつき、久しぶりの抱っこがもたらす「自分がまだ生きている」という実感に浸っていた。


絶対に放さない!


私に看病させる?


あり得ない。


だが今のたくまの力は驚くほど強く、篠宮初音はどうにもできなかった。


困り果てたその時、向かいのドアが開いた。


九条天闊が車椅子で現れ、シートを上げると、東雲たくまの後ろ襟を掴み、ぐいっと篠宮初音から引き離した!


普段ならこれほど乱暴に扱われれば、東雲たくまは激怒していただろう。


だが過去の痛い教訓から、たくま社長は猫かぶることが分かった。


怒るどころか、篠宮初音に向かって「初音、苦しいよ…この悪い人が私をいじめるんだ…」と甘えた声で訴えた。


「……」


初音はこの急なキャラ変に鳥肌が立った。


九条天闊は一方の手でまだ東雲たくまの襟を掴んで反撃を防ぎつつ、もう一方の手は車椅子のアームを握りしめ、掌に冷たい汗がにじんでいた。


東雲たくまの突然の変貌に、強い危機感を覚えた。


こんな弱みを見せて、篠宮初音は心を動かすだろうか?


篠宮初音はもちろん心を動かさず、彼の演技に見向きもしなかった。


すぐに携帯を取り出し、救急車を要請した。


20分も経たないうちに救急隊が到着し、非協力的な「患者」を強制的に連れ去った。


篠宮初音は安堵の息をついた。


「九条先輩、ありがとうございました。私は朝のジョギングに行きます」礼儀正しく、しかし距離を置いた口調だった。


九条天闊は初音が走り去る後ろ姿を見つめ、琥珀色の瞳に溶けきらない憂いが広がっていた。


この数日間忙しかったが、会うたびに初音女が意図的に距離を取っているのをはっきり感じていた。


あのこっそりしたキスの後から始まったような…もしかして気づかれたのか?


三日は瞬く間に過ぎた。


篠宮初音は引き出しから名刺を取り出し、松本玲子に電話をかけた。


「篠宮さん、決心がつきましたか?」松本玲子は待ち構えていたようにすぐに出た。


篠宮初音は少し驚いた。


「どうして私だとわかったのですか?」


まだ何も言っていないのに。


「とっくに篠宮さんの番号を保存して、トップに置いてありますよ」電話の向こうで松本玲子が軽く笑った。


篠宮初音は一瞬たじろいだが、すぐに納得した。


松本玲子が「スイートハート」の正体を突き止められたなら、電話番号を知っているのも不思議ではない。


「では、篠宮さんの答えは?」


「提案を受けます」


スタジオ設立の第一歩は場所の確保だった。


松本玲子の効率は驚異的で、九条グループ本社の向かいにある文山クリエイティブスクエアの2棟フロア全体を確保した。


立地は最高なのに、賃料は異常に安く、明らかに松本玲子の顔が利いた結果だった。


芸能界で20年近く働いてきた松本玲子のコネと資源は幅広い。


場所が決まると、篠宮初音は手続きを行い、営業許可が下りるのを待つだけになった。


松本玲子はチームを連れて事前に篠宮初音と面会した。


「こちらが篠宮さん、私たちのこれからのボスです」


背後にいた4人が揃って「ボス、よろしくお願いします」


「名前で呼んでください」篠宮初音はこの呼び名に慣れていなかった。


松本玲子以外は、やはり恭しく「初音さん」と呼んだ。


「初音、紹介するわ」松本玲子は4人を指差した。


「田中順、田中風、田中満、田中帆です」


一順風満帆?


篠宮初音の目に疑問が浮かんだ。


「異卵性の四つ子なんです」

松本玲子は笑って説明した。


異卵とはいえ、4人の眉間にはいくらか似たところがあり、兄弟だとすぐわかった。


篠宮初音は1人ずつ握手を交わした。


昼には一行で江南に食事に行き、篠宮初音がボスとしておごった。


席の雰囲気は和やかで、松本玲子も4兄弟も気さくだった。


篠宮初音は良い気分で、珍しく酒も少し飲んだ。


食事の後、一同はまだ気分が乗っており、カラオケボックスに移動して歌った。


最近ネットで爆発的人気の歌手「スイートハート」が篠宮初音だと皆知っており、本物の「歌の神」が歌うのを聴くこの機会を逃すはずがなかった。


松本玲子はいくつも違うジャンルの歌をリクエストし、篠宮初音はすべて余裕でこなし、プロの歌手を超えるほどだった。


田中四兄弟はうっとりと聞き入り、たちまち「スイートハート」の熱烈なファンになった!


隣の個室では、騒ぎが続いていた。


南城に商談に来ていた時目快晴は、トイレに行くと称して息抜きに出ていた。


このような接待の場が嫌いで、周りが彼の禁忌をわきまえて変な人を入れないようにしていても、やはり息苦しかった。


個室を出た途端、見慣れた人影が目に飛び込んできた。


探し回っていたあの人だ!


あの子だ! こんなところで会えるなんて!


時雨快晴の顔にたちまち喜びが溢れ、迷わず後を追った…


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