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第53話

篠ノ宮初音の車はまだクラブの地下駐車場に停まったままだった。


彼女が車庫に入り運転席に座り、キーを回した瞬間、昨夜突然松本さんからの連絡を拒否したことを思い出した。


松本玲子たちはきっと慌てているに違いない。


携帯を取り出すと、予想通り多くの着信履歴だった。


一つは九条天闊から、残りは全て松本玲子からのものだった。


九条天闊のをスキップし、まず松本玲子に折り返し電話した。


「お嬢様!やっと出たわ!もう少しで失踪届け出すところだったわよ!」


電話は即座に繋がり、受話器から松本玲子の焦燥した声が聞こえた。


「ごめん玲子姉、昨夜飲み過ぎて...友達に会って、彼に送ってもらったの」


松本玲子の声に込められた心配が、篠宮初音の胸に後悔をよぎらせた。


「男?女?あんなに酔って無事だった?」

電話の向こうで一瞬黙り込んでいた、玲子はさらに問い詰めた。


「男だけど、何もされなかったわ。玲子姉安心して」


「今どこ?家に?」


「駐車場に着いたばかり。これから帰る」


「すぐ帰って!着いたら連絡ちょうだい!」


電話を切り、篠宮初音は九条天闊に返信すべきか躊躇ったが、結局携帯の画面を消してバッグに押し込んだ。


初音は知らないままだった。


自分が一晩帰らなかった間、九条天闊は向かいの部屋で一晩中座り続けていたことを。


車椅子が窓際に止まったまま、漆黒の夜から薄明けの空まで、彼の瞳も最初の暗闇から、血走った赤へと変貌していた。


篠宮初音は早く家に着いてシャワーを浴び、眠りたかった。


だが鍵を鍵穴に差し込み、まだパスワードを入力していない時、向かいのドアが「カチッ」と開いた。


「篠宮さん...」

九条天闊の、言葉にできないほど切なさを込めた声が襲ってきた。


篠宮初音の胸がぎゅっと締め付けられ、振り返ると彼の真っ赤な目があった。


明らかに徹夜の面影だ。


「九条先輩、何か用ですか?」

天闊の熱い視線を受け止めながら、初音の声は冷静そのものだった。


冷たい距離感は、依然として薄い氷のように二人の間に横たわっていた。


九条天闊の視線は初音の服に落ちた。


これは初音の普段着でも、昨夜着ていた服でもない。


一晩帰らず、見知らぬ服に着替えて...ただそれを想像するだけで、天闊の胸は窒息するように痛み、心臓が引き裂かれるようだった。


もし初音が他の人の恋人となったら、自分はどうすればいいのか?


その考えが彼の全身を冷やした。


篠宮初音は天闊の唇が一瞬で血の気を失い、両手が車椅子のアームを死ぬほど握りしめ、苦悶に満ちた様子に気づいた。


唇まで出かかった心配の言葉は、結局飲み込んだことにした。


すでに天闊の気持ちに気づいている以上、返事ができない以上、これ以上希望を持たせるべきではない。


それが天闊に対する最も責任ある対応だ。


「用がなければ、失礼します」

九条天闊がただ自分を見つめるだけで何も言わないのを見て、篠宮初音は言った。


「一晩中帰ってこなくて...心配した」

初音が礼儀正しく会釈して振り返ると、天闊の心配しそうな声に引き止められた。


その声に込められた苦悩、無念さ、さらにはかすかな卑屈さが、篠宮初音の足を止めさせた。


この世にはどうしても避けられないことがある。


「九条先輩、私のことが好きなんでしょう」

疑問文ではなく、断定文だった。


九条天闊は苦笑した。


やはり気づかれていた。


おそらくあのキスから、もう何も隠せなかったのだ。


もはやどんな言い訳も嘘のように思われるだけだ。


天闊は我慢しすぎた。


疲れ果てていた。


「いや、好きだけではなく、愛しているんだ」


天闊は突然車椅子から立ち上がり、初音に手を伸ばした。


すぐ目の前なのに、指先は万水千山を隔てたように、どうしても初音の衣の端に触れられない。


指が拳に丸まり、無力感が全身を駆け巡った。


そう。それは「好き」という浅い気持ちではない。


全てを焼き尽くすほどの熱い愛だった。


死んでも変わらない執念だった。


篠宮初音はこの激しい愛に包まれ、溶岩に囲まれたように逃げ場がなく、また山のように圧し掛かられ、呼吸さえも痛みを伴った。


熱すぎた。

重すぎた。


「ごめんなさい天闊先輩、私はあなたを愛してないから、どうか...」


「私を愛さないで」という言葉がまだ口を出ていないうちに、手首が乾いた温かい大きな手に握られ、次の瞬間彼女は熱い胸の中に引き寄せられた。


「初音が僕を愛していないのは分かっている。返事を求めるつもりはない。ただ初音を愛する権利を奪わないでくれないか?」九条天闊は全身の力で初音を抱きしめ、声を震わせながら言った


初音を愛する資格さえなくなったら、僕は死ぬ...本当に死んでしまう...


初音、そんな残酷なことをしないで。


その悲痛な懇願に、篠宮初音の心は刺されるように痛み、指が自然と強く握られた。


「ごめんなさい、天闊先輩、私...」


九条天闊は初音が何を言おうとしているか分かっていた。


最後の希望まで断たれるのは耐えられなかった。


天闊は突然初音を真っ白な壁に押し付け、彼女の顔を両手で包み込み、激しく唇を奪った。


前回の偶然の接触とは違い、今回は破滅的な勢いでの略奪だった。


初音の息、言葉、魂までも全て飲み込もうとするかのように。


彼のキスは暴力的でありながら未熟で、血の味がするような嚙みつきに近く、ただひたすらに攻め入り、長く抑えていた絶望をぶつけるだけだった。


篠宮初音が強く天闊を押しのけ、よろめいて倒れそうになった時、彼女は本能的に天闊を引き止めた。


しかし次の瞬間、天闊は再び初音を壁に押し付けた。


「初音、お願いだ...何も言わないで...僕を愛さなくていい、ただ愛させてくれれば、それでいい」

今度はキスはせず、ただ頭を彼女の胸に埋め、全ての力を使い果たしたかのように、風前の灯火のような弱々しい声で呟いた。


薄暗い廊下は静まり返り、遠くから見れば、ただひとりの背の高い男が女性にもたれかかっている姿しか見えなかった。その姿勢に滲む無力感、切なさ、悲しみは、影の中で無限に広がっていく...

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