篠宮初音は松本玲子の家に引っ越した。
引っ越しの理由は二つ。
一つは便利さのため。
そして何より——九条天闊に告白され、強引にキスされて以来、どう接すればいいのかわからなくなったからだ。
もちろん、東雲たくまから距離を置着たいこともあった。
松本玲子のマンションは広くて、二層構造の合計600平方メートル。
ジムやホームシアターを備えた豪華な内装だった。
「初音、あなたはこの寝室を使うわ。問題ない?」
南向きの部屋は日光がたっぷり差し込む。
「素敵です。でも……」階段を下りながら、篠宮初音は躊躇いがちに尋ねた。「私がここにいると、玲子姉の彼氏さんが来た時に迷惑じゃ……」
「心配いらないわ。私は独身主義だよ。そんな悩みはないわ」
松本玲子は笑いながら手を振った。
篠宮初音は本当に驚いた。
結婚していないことは知っていたが、恋人がいないとは思わなかった。
38歳の松本玲子には、もちろん恋愛経験が全くないわけではない。
18歳の時に一度、純愛を経験した。
ただ手を繋いだだけの関係で、相手の留学がきっかけで別れた。
その後は仕事一筋だった。
「今日は気分がいいから、私が昼ごはんを作るわ」
「玲子姉、料理もできるんですか?」
「どうしたの? お嬢様育ちだと思った?」エプロンを結びながらキッチンへ向かう。
「腕は確かよ。ただ面倒くさがりなだけ。今日はあなたが運がいいわ」
「光栄です。手伝いましょうか?」
「いいえ、座って待ってて」
ソファに押し倒されながら、篠宮初音は思った。
ここ数日の付き合いで、松本玲子への印象はすっかり変わった。
優しいお姉さんだと思うようになった。
篠宮初音の引っ越したことは、瞬く間に九条天闊・東雲たくま・東雲明海の耳に入った。
九条天闊は悟っていた。
おそらく初音は自分から逃げたかったのだと。
だが後悔はしていない。
気持ちを打ち明けたこと、ましてやあのキスを。
ただ、眉間に刻まれた苦悩は隠しようもなく、震える指で顔を覆った。
秘書がドアをノックした時、ちょうどその姿を目撃してしまった。
社長がこれほど絶望に沈んだ姿を見るのは初めてだった。
まるで全世界に見捨てられたかのような、死の匂いさえ漂う佇まい。
秘書は一瞬呆然としたが、九条天闊が顔を上げたのを見て慌てて口を開いた。
「社長、会議の時間です。皆、第一会議室でお待ちです」
「わかった。あと10分待たせろ」
秘書が退出する際、社長は失恋したのだろうか? でもこれまで恋愛話など聞いたことがないのにと疑問が頭をよぎった。
九条天闊の断腸の思いとは対照的に、東雲たくまは比較的に落ち着く。
篠宮初音が自分を避けて引っ越したとしても、それで初音と九条天闊と付き合う機会が減るなら悪くない。
最大のライバルである九条天闊は、まさに目の上のたんこぶだった。
この棘を抜かなければ、眠ることもできない。
そして最も喜んだのは東雲明海だった。
二人の恋敵から一気に遠ざかったとは、神の助けだ。
三人の喜怒哀楽とは無関係に、篠宮初音は松本玲子と楽しい昼食をとっていた。
松本玲子の作った三品一汁は、見た目も味も文句のつけようがなかった。
「どう? 私の腕は?」
「美味しいです。でも私にはちょっと及ばないかな」
松本玲子は自分の妹のように初音女の頬をつねった。
「はいはい、初音ちゃんが一番上手ね。今度あなたの料理も食べさせて?」
「今度じゃなくて、今夜作りましょうか」
スタジオの設立が目前に迫っていた。
松本玲子は「スイートハート」としてのデビューを計画している。
この名前は既に配信プラットフォームで数百万人のファンを抱え、十分な注目を集められる。
「これからはバラエティ番組やイベントでも特徴的なマスクを着用して、ミステリアスなイメージを保つのよ。面倒なことも避けられるし」
松本玲子のプランは、篠宮初音の考えとぴったり一致した。
正体を知る者がほとんどいない。
「スイートハート」として活動すれば、多くのトラブルを回避できる。
ただ東雲たくまのことを考えると、眉をひそめざるを得なかった。
あの男だけは真実を知っている。
また狂ったように騒ぎ立てなければいいが。
「今はまだ知名度が足りない。まずはバラエティ番組で顔を売って、人気を積んでから歌を出すわ」
「はい、玲子姉にお任せします」
篠宮初音はこれらの事情に疎く、松本玲子の指示に従うしかなかった。
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一方、時雨快晴は二通りの親子鑑定報告書を手に、指先を震わせていた。
一つは篠宮初音と父親、もう一つは母親とのもの——どちらも「親子関係成立」という結果だった。
初音は本当に自分の実の妹だった!
しかし喜びの後に湧き上がったのは、更なる疑問だった。
初音が実妹なら、桜は何者なのか?
母は一人しか娘がいないと言っていたのに。
いったい何が起きたのか? なぜ初音は孤児院に?
彼は急いで北城に戻り、両親に報告しなければならない。
だがその前に、もう一度初音に会いたい。
携帯を取り出し、先日交換した番号にダイヤルした。
篠宮初音にとって時雨快晴からの電話は予想外で、ましてや食事に誘われるとは思ってもみなかった。
彼には何故か懐かしさを感じ、少し躊躇ったもの了承した。
「玲子姉、友達に会いに行きます。夕飯は待たなくていいです」
「どんな友達? 彼氏?」
松本玲子は即座に眉を吊り上げた。
「違います。この前ホテルまで送ってくれた方です。悪い人じゃないから、心配しないで」
松本玲子は心の中で咂舌した。
ホテルまで連れて行って、悪い人じゃないだって? この子は本当に世間知らずだわ!