「天闊先輩、キスしてもいい?」
その言葉はまるで雷のようで、九条天闊の体を一瞬で凍りつかせた。
頭の中が真っ白になった。
硬直したまま動かない天闊に、篠宮初音はそっと近寄り、つま先立ちで天闊の首に両手を回した。
初音の唇が、少し乾いた天闊の唇に触れた瞬間、天闊の手からスーツの上着が静かに道に落ちた。
体はさらに硬直し、思考は完全に停止した。
これは篠宮初音にとって初めての自発的なキスだった。
動きは不慣れでぎこちなかった。
天闊がキスする時の様子を真似て、彼の唇を軽く咥え、吸い込む。
微かな水音が静寂の中に響き、薄暗い光の中ですでに真っ赤になった彼女の小さな耳が浮かび上がっていた。
どれくらい経っただろう。
九条天闊が突然目を見開き、右手で 初音のしなやかな腰を強く抱き寄せ、くるりと回転させて冷たい車体に押し付けた。
たちまち主導権を握り、攻め立てるように激しく、そして貪欲にキスを返した。
長い間抑えていた渇望が爆発したのだ。
九条天闊は夢を見ているのかと思った。
しかし唇に伝わる確かな感触、初音の温もりは、これが現実だと告げていた。
これほどまでに激しくキスされて、篠宮初音は今までの九条天闊がいかに自制していたかを悟った。
初音の不器用な積極性は、導火線に火をつけるようなものだった。
天闊の抑えていた感情の嵐を一瞬で爆発させた。
キスがどれほど続いたか、篠宮初音にはわからなかった。
終わった時、舌は痺れ、唇はヒリヒリと痛んだ。
鏡を見なくても、唇が腫れ上がっているのは明らかだった。
天闊の胸にぐったりと寄りかかり、軽く息を弾ませながら、篠宮初音は依存の混じった眼差しを向けた。
九条天闊は左手で初音をしっかり抱き、右手で優しく頭を撫でると、額に深くキスをした。
「初音、何かあったのか?」今の初音の脆さは尋常ではなく、心配でたまらなかった。
篠宮初音は答えず、ただ両腕で天闊の腰をさらに強く抱きしめ、顔を彼の温かい胸に埋めた。
まるで自分を天闊の体に溶け込ませようとするかのように。
初音が話したくないのなら、九条天闊はそれ以上追及しなかった。
今天闊にできることは、初音が必要とした時に、静かに傍にいてあげることだけだった。
初秋の夜風はすでに冷たさを帯びていた。
九条天闊はこのまま永遠に初音を抱きしめていたいと思ったが、初音が風邪を引くと大変だからと思って、「初音、外は寒い。車の中で話そう、いいか?」と聞いた。
「うん」と返事が聞こえて、ようやく九条天闊は初音を離し、ドアを開けてあげた。
地面に落ちた上着を拾い、自分も運転席に座ると、近くの公園の駐車場に車を走らせた。
この時間なら、ここは静かだった。
九条天闊にキスをしたのは、篠宮初音の気持ちをもうこれ以上抑えられない瞬間の衝動だった。
冷静になった今、恥ずかしさが込み上げてきた。
初音はもう長い間、こんな衝動的な行動を取っていなかった。
「ごめんね」と初音は小さな声で言った。
「なぜ謝る?」九条天闊は初音の手を握り、分厚い掌でその細い手を包み込んだ。
「初音は僕に謝る必要なんてない。初音は僕に何をしてもいい。初音がこんなに近づいてきてくれて...本当に嬉しい」天闊は初音の心の壁が厚いことを知っていた。
今初音が自ら一歩を踏み出してくれたことは、天闊にとってこの上ない喜びだった。
初音は天闊ことを「馬鹿」と言った。
おそらく愛する人を前に、誰もが進んで馬鹿になりたがるものなのだろう。
篠宮初音はいつ眠ったのか覚えていなかった。
ただ天闊のそばにいると、久しぶりに安心感を覚え、たとえ天が崩れ落ちても、天闊さえいれば恐れることはないような気がしたのを覚えている。
初音が眠ったのを確認すると、九条天闊は車内の温度を上げ、初音のシートをゆっくり倒し、自分の上着を丁寧に掛けた。
自分もシートを倒し、横を向いて、初音の寝顔を一瞬も見逃すまいと見つめた。
いくら見ても飽きず、ただ時がこの瞬間で止まればと願った。
この夜、九条天闊は一睡もせず、ただ初音を見つめ続けた。
翌朝、篠宮初音が目を覚ますと、自分がまだ車の中にいることに少し混乱した。
そしてすぐに、優しい笑みを浮かべた九条天闊の整った顔が視界に入った。
「初音、おはよう」
「天闊先輩?おはよう...どうして...」と初音はまだぼんやりしていた
「昨夜のことを忘れたのか?」九条天闊の声にはかすかな緊張が混じっていた。
もし初音がいま、実際に目の前にいなければ、昨夜のすべてが美しい夢だったと思いそうだった。
確認するように、天闊は身を乗り出して初音の滑らかな額に深くキスをした。
額に感じた温もりが、昨夜の記憶を一気によみがえらせた。
私が自ら会いたいと言い、キスを求めたのだと初音が思い出した。
後悔の念が込み上げてきた。
考える時間が必要だと言っておきながら、一方で自ら天闊を誘惑するなんて、自分でもひどいと思った。
実際、今の初音と九条天闊の間で起きていることは、熱愛中のカップルとほとんど変わらず、ただ初音の正式な承諾だけがない状態だった。
九条天闊は二人の関係について詰問しなかった。
初音が自ら言う前に、天闊は決して追及しない。
初音に時間が必要なら、たっぷりと時間を与えるつもりだった。
松本玲子は珍しく早起きしたばかりだったが、階段を下りると篠宮初音がドアを開けて入ってくるのを見かけた。
朝のジョギングかと思ったが、パジャマ姿を見てすぐに理解した。
昨夜こっそり出て行き、一晩中帰ってこなかったのだ!
「初音、動かないで!」松本玲子は近寄り、初音の腕をつかんでじっくり観察した。
なるほど、唇は少し腫れ、首筋にはかすかな痕が...全体的に輝いて見え、明らかに深く愛された後の様子だった。
「初音!昨夜九条社長と..あれ...したの?!」玲子は驚きの声を上げた。
「...してない!」篠宮初音は呆れた。
「ただ車で少し話していただけ」初音は松本玲子の手を払いのけ、通り過ぎようとした。
「まさか!初音、まさか車の中で九条社長とあんな激しいことを...」松本玲子の目はさらに大きく見開かれた、
篠宮初音の足が止まり、もうこの話題には付き合いたくないと思った!
簡単に身支度を済ませると、篠宮初音は聖心医科大学付属病院へ東雲宗一郎を見舞いに行った。
しばらく訪れていなかった。
病室では、中村さんが東雲宗一郎の手足を丁寧にマッサージしていた。
篠宮初音を見て、東雲宗一郎も中村さんも大喜びだった。
「篠宮さん、ようやく来てくださいました!ご老人はここずっとあなたのことをおっしゃっていましたよ!」中村さんは笑顔で言った。
「すみません、宗一郎おじいちゃん、最近ちょっと忙しくて、なかなか来られなくて...」以前は篠宮初音がほぼ毎日中村さんに電話で老爺の様子を聞いていたが、番組収録の数日間は中断していた。
篠宮初音の心は申し訳なさでいっぱいだった。
「初...初音...ちゃん...」東雲宗一郎は懸命に、言葉は不明瞭ながらも篠宮初音にははっきりと聞こえた。
「こ...こっ...ち...」
「宗一郎おじいちゃん!お話しできるようになったんですね!」
篠宮初音は驚喜し、急いで近寄って宗一郎の差し出した手をしっかり握り、涙ぐんだ。