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第77話

この声は篠宮初音にとって耳にたこができるほど聞き覚えがあり、香澄はまさに初音の大学時代の悪夢そのものだった。


東雲たくまは白石香澄のために、幾度となく篠宮初音のプライドを踏みにじってきたのだ。


松本玲子は経験豊富で、背後から話しかけてきたこの女が悪意を持っていると一瞬で見抜いた。


「初音、相手にするな」と玲子は篠宮初音の手首をつかんで言った。


しかし篠宮初音は足を止め、振り向いて白石香澄を静かに見つめて、「何が言いたいの?」と聞いた。


白石香澄の口調から、たくまが初音を火事から救い出した件に何か裏があるらしいと鋭く察知したのだ。


初音の直感は正しかった。


白石香澄は嘲笑を浮かて、「知ってる?あの時、たくまが命がけで火の中に飛び込んだのは、本当は私を助けるためだったのよ!あなたのためじゃなかった!」と言った。


篠宮初音の苦しい顔を期待して、じっと見つめた。


しかし篠宮初音の表情は相変わらず落ち着いて、自分と関係ない噂話を聞いたかのようだった。


これは決して白石香澄が望んだ反応ではない!


香澄は歯を食いしばり、真相を切り裂くように続けた。 


「その時、あなたは一人の男に必死で抱きかかえられて、二人とも気を失っていたの。たくまはたまたまあなたたちに出くわして、ついでに引きずり出しただけ!あなたを命がけで守った男は、とっくに火災で死んでるはずよ!面白いね、あなたがずっと知らずにいたなんて!」


初音の心臓は無形の手でぎゅっと握りつぶされるような、細やかな痛みが一瞬で広がった。


今度こそ、白石香澄は篠宮初音の顔にはっきりとした苦しさを捉えることができた。


白石香澄がさらに油を注ごうとした時、篠宮初音は突然振り向いて走り去った!


「初音!どこへ行くの?」


松本玲子が急いで追いかけ、初音を引き止めようとした。


「初音、いったいどうしたの?」


「玲子姉、天闊に会いに行く……天闊に会いに行かなきゃ……」篠宮初音は泣きじゃくっていた。


子供を失って以来、初めてこれほど感情が昂ぶったのだ。


実はもっと早く気付くべきだった!


九条天闊がずっと密かに自分を想い続けていたと知った時、あの火災で命がけで自分を救おうとしたのが彼だと!


自分に嘘をついて、現実に向き合おうとしなかったのだ。


白石香澄の言葉で、初音はもう自分を騙すことはできない。


自分のせいで天闊は2年間も昏睡状態に陥り、両足が不自由になったのだ!


「命を懸けてあなたを守った人は……九条社長なの?」

松本玲子は胸が痛むように初音を強く抱きしめ、背中を軽くたたいた。


「そうだよ!天闊だよ!玲子姉、会いに行く!今すぐ!」篠宮初音の声は引き裂かれるようだった。


松本玲子は心を打たれた。


命を懸けてくれる人に出会えるのはどれほど幸せなことか。


「初音、今は気持ちをコントロールできな状態で運転は危ないわ。どこへ行くの?私が送る!」


【申し訳ありませんが、おかけになった電話は現在通話できません……】


篠宮初音は何度も九条天闊の電話をかけたが、返ってくるのは冷たいアナウンスだけだった。


「初音、焦らないで、もうすぐ着くわ!」松本玲子は慰めながら、さらにアクセルを踏み込んだ。


車が九条財閥本社ビルの駐車場に止まると同時に、篠宮初音はドアを開け、ロビーに駆け込み、フロントへ直行した。


「九条社長にお会いしたいのですが」


「社長は会議中ですが、ご予約はお持ちですか?」


「予約はしていません。でも友達なので、通融していただけませんか?」


「申し訳ありませんが、予約なしでは……」


「わかりました」篠宮初音は落胆して振り向いた。


「あの……篠宮様ですか?」


すると受付係が何かに気付いたように急いで聞いた。


篠宮初音がばっと振り向いた。


「はい、私です!」


「篠宮様!社長から特別に、篠宮様は予約なしでお通しするよう指示されております!社長専用エレベーターでどうぞ!」

と受付の態度が一転して、笑顔で言った。


「ありがとう」篠宮初音の胸に温かいものがこみ上げた。


これが九条天闊だ。


いつも初音を第一に考える九条天闊だった。


、受付係は胸を撫で下ろした。


危なかった!社長の大切な人を門前払いするところだった!


社長室の秘書も篠宮初音の顔を覚えていた。社長の机にこの篠宮さんの写真が飾ってあるのを誰が知らないだろう?「篠宮さんが来たら、丁寧に応対し、すぐに知らせよ」と再三言い渡されているのだ!


「篠宮様、何かお飲み物を?コーヒー?それとも……」


「牛乳はありますか?牛乳で結構です」

「はい、ございます!少々お待ちください!」秘書は素早く温かい牛乳と、いくつかのお菓子を出した。「篠宮様、おかけになってお待ちください。すぐ社長にお知らせします!」


「待って!」篠宮初音は慌てて止めた。「会議中でしょう?邪魔しないで、ここで待つから」


「かしこまりました。では失礼します。何かありましたらお呼びください」秘書は恭しく退出した。


篠宮初音は九条天闊の広い執務椅子に座り、机の写真立てに目をやった。写っているのは大学時代の服を着た、初々しい笑顔の彼女だった。写真は少しぼやけており、角度も不自然で、明らかに盗み撮りされたものだ。


その写真を見て、篠宮初音は笑った。笑っているうちに、涙が静かにこぼれた。もしも……もしも東雲たくまと出会う前に、九条天闊と知り合っていて、もっと早く彼を愛せていたら、どんなによかっただろう……


会議室のドアが勢いよく開いた。


九条天闊は秘書からの連絡を受け、ほぼ駆け足で戻ってきた。


「初音?どうしたんだ?」彼女の赤い目と涙の跡を見て、胸が締め付けられた。


「何かあったのか?」


九条天闊を見た瞬間、篠宮初音の堪えていた涙が再び溢れた。


「天闊、動かないで。私から行くから」初音は立ち上がり、天闊を止めた。


今までずっと、天闊が初音のもとに走り寄ってくれた。


今回は初音が歩み寄る番だ。


初音は一歩一歩、確固として天闊に向かって歩いた。


「天闊、あの時あなたが命がけで火の中に飛び込んだのは、私を助けるためだったんでしょう?私を助けたから、あなたは2年間昏睡状態で、足が不自由になったんだよね?」


声は震えていた。


「初音……全部知ったのか?」九条天闊の目には複雑な感情がよぎった。


「ええ!全部知ったわ!どうして言わなかったの?なぜ教えてくれなかったの!」篠宮初音は泣きじゃくった。


九条天闊はもう我慢できず、一歩前に出て初音を強く抱きしめ、髪にキスをしながら、低く優しく囁いた。


「ただ初音に負担をかけたくなかったんだ。初音を助けるのは、僕の意思だった。それを悔やんでほしくなかった」と。


天闊はいつもそうだった。


全てを自分で背負い、初音を傷つけまいとした。


篠宮初音は片手で天闊の服を強く握りしめ、もう一方の手で無力に天闊の胸を叩きながら、泣き叫んだ。


「バカ!九条天闊って本当にバカ!どうしてそんなに馬鹿なの……」


世の中にこれほど馬鹿な男がいるだろうか。


馬鹿すぎて、初音は抗うことさえできず、愛さずにはいられない。


「天闊、私と付き合ってください」


初音は涙に曇った目を上げ、しかしはっきりとした声で言った。





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