九条天闊が母親からの電話を受けた時、ようやく今夜は実家で食事する約束を思い出した。
「天闊、まだ仕事?それとも渋滞に巻き込まれたの?どうしてまだ帰ってこないの?」
九条の母親の声には心配がにじんでいた。
九条天闊の優しい視線は、キッチンで忙しく動き回る篠宮初音の姿に注がれ、口元が自然と緩んだ。
「母さん、今夜は帰らない。だって…」天闊の声には笑いが含まれていた。
「天闊、何かあったの?急にどうしたの?」九条の母親は慌てて彼の言葉を遮った。
ちょうどその時、篠宮初音が振り向き、九条天闊と視線が合った。
彼の目には一瞬で愛おしさが溢れ、声も信じられないほど優しくなった。
「大丈夫だよ、母さん。彼女がここに来てくれて、一緒に夕食を食べることになったんだ」
「彼女?!初音ちゃんのこと?!」
電話の向こうの九条の母親の声は突然高まり、興奮を抑えきれなかった。
「ああ、初音は彼女だよ」九条天闊は笑みを浮かべて肯定した。
すると電話の向こうで興奮したざわめきが起こった。
「お父さん!早く来て!息子に彼女ができたんだって!初音ちゃんよ!」九条伯母の声が興奮して響いた。
「本当か?!よかった!よかった!」九条の父親の声が続き、すぐに電話が奪われた。
「天闊!本当に初音ちゃんと付き合っているのか?!」
「ああ、父さん」
「素晴らしい!明日!明日の夜、初音ちゃんを連れて帰ってこい!」
九条の父親の声は断固としていた。
九条天闊は少し困ったようにした。
「それは…初音の都合を聞かないと。父さん、母さん、もう切るよ」
「わかったわかった!お二人の邪魔しない!決まったらすぐ知らせてね!準備するから!」九条伯父は慌てて答えた。
「うん、わかった」九条天闊は電話を切った。
篠宮初音が料理を運んでキッチンから出てくると、九条天闊はすぐに手伝いに駆け寄った。
「さっきはご両親からの電話?」
「ああ、僕たちが付き合っていることを伝えた。明日の夜、実家に食事に行こうって…初音、一緒に行ってくれる?」
九条天闊の声には少しだけ慎重さが滲んでいた。
勝手に両親に話したことで初音が不機嫌にならないかと心配だった。
篠宮初音は茶碗と箸を用意し、ご飯をよそってそのうちの一膳を天闊に手渡した。
「行きたいけど、恋人として、天闊の実家に行くのは初めてで、どんな贈り物を持っていけばいいかわからない。伯父様と伯母様の好みを教えてくれる?私が買いに行くから」
あっさりと承諾するは初音を見て、九条天闊の顔には隠しようのない喜びが広がった。
天闊は初音の手を握った。
「初音、君が来てくれるだけで最高の贈り物だよ。何も買わなくていい」
「そんなことないでしょ!初めてなんだから、礼儀はきちんとしたいの。まあ、私で考えておくわ」篠宮初音は手を引き、天闊の純粋な喜びに満ちた顔を見て、自分も思わず口元を緩ませた。
「早く食べましょう、後でお皿はあなたが洗うのよ」
篠宮初音が作った料理、少し焦げた魚も含め、全て九条天闊はきれいに平らげた。
食後、天闊は進んで食器を片付けキッチンに入った。
篠宮初音は今日買ったブドウを取り出し、丁寧に洗って皿に盛った。
一粒味見してみると、程よい甘みと酸味が口に広がった。
九条天闊が皿洗いを終えて戻ってくると、初音の前に来て少し口を開け、自分にも食べさせてほしいとアピールした。
篠宮初音は一粒のブドウを取り、皮をむき、種を取り除いてそっと天闊の口に運んだ。
次の瞬間、九条天闊は身を乗り出し、片手でソファの背もたれを押さえ、もう片方の手で初音の頬に触れ、正確に彼女の唇を捉えた。
清々しいブドウの香りが一瞬にして二人の唇の間に広がり、その味は一粒だけを食べるよりもずっと深く、酔いしれるようなものだった。
九条天闊は未練げに唇を舐め、熱い視線を向けた。
「このブドウ、美味しい。もっと食べたい」
「毎回こんな風に食べられたらたまらないわ!」
篠宮初音は頬を染めて抗議した。
天闊に「大人しく」するよう求めた。
九条天闊は素直に従った。
彼女を怒らせて、今後ブドウを食べられなくなるのは困る。
彼はすぐに「大人しく」なり、篠宮初音を自分の膝の上に寝かせ、丁寧に皮をむき種を取り除き、一粒ずつ口に運んだ。
彼女を満足させることが、恋が長続きできる秘訣なのだ。
幸せな時間はあっという間に過ぎていく。
夜10時の鐘が鳴り、篠宮初音は帰りの支度を始めた。
九条天闊は名残惜しさでいっぱいになり、思わず引き止めた。
「初音、もうこんな時間だ…今夜は泊まらない?」誤解されないよう、急いで付け加えた。
「ゲストルームでいいし、あるいは…向かいの部屋はどう?初音のものはまだ残っているはずだよね?」と。
篠宮初音が引っ越した後もその部屋を解約していないことは知っていた。
篠宮初音は誤解しなかったが、向かいの部屋の話でまた疑問が浮かんだ。
「天闊」初音は天闊を見つめた。
「火事の時に私を助けたことを隠していた以外に、まだ何か隠していることはある?」
「たぶん…ないと思う」天闊の声には少しだけ不安定さがあった。
「本当?」篠宮初音はそのわずかな躊躇を鋭く感じ取った。
「実は…まだいくつかある」九条天闊は認めた。
篠宮初音は急かさず、静かに天闊が「白状」するのを待った。
九条天闊はしばらく黙り込み、遠い記憶に思いを馳せているようだった。
しばらくして、天闊はゆっくりと話し始めた。
「14歳の時、僕は孤児院に行ったことがある。川から君を救ったのは、僕だった」
篠宮初音は目を見開いた。
「大学3年生の時、新入生歓迎会で、僕は一目で初音に気づいた。そして…どうしようもなく君を愛してしまった」彼の声は低く優しかった。
「僕の視線はいつも初音を追いかけていたけど、初音は全く気づかなかった…初音の目と心にはたくまだけで、他の誰も見えなくなっていたから」
天闊は一呼吸置き、かすれた声で続けた。
「学校の『匿名掲示板』に『篠宮初音、愛してる』と書いたのは僕だ。初音と東雲たくまが焼き鳥を食べに行くたび、僕はこっそり後をつけ、隅っこに座っていた。毎日…初音にラブレターを書いていたけど、どれも初音の手には渡らなかった」天闊は初音を見て、「僕は初音のために何でもできた。ただ…初音が幸せでさえあれば」と。
まだまだたくさんあった。
多すぎて天闊自身も数えきれない。
もし初音が東雲たくまと結婚して、本当に幸せになれるなら、天闊は一生黙って初音の幸せを見守り、決して邪魔はしなかっただろう。
だが東雲たくまが初音を深く傷つけた。
命をかけて守った初音が、他の誰かに踏みにじられる。
天闊は東雲たくまを憎み、自分を憎み、運命の不公平さを憎んだ。
もしあの2年間昏睡しなければ、結末は今と違うだろうか?
しかし、起きてしまったことはもう変えられない。
今、初音はようやく自分のそばに来てくれた。
天闊は全てを尽くして、今この瞬間を大切にし、初音を一生守り抜くつもりだ。