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第82話

時雨快晴は地元の都庁と重要なプロジェクトの打ち合わせ中で、携帯を切っていた。


打ち合わせが終わったのは午後1時過ぎ。


電源を入れると桜からのLINEメッセージが目に入り、快晴は眉をひそめた。


妹がまた何かやらかしたに違いない!


食事の約束をキャンセルし、車を走らせた。


時雨桜に連絡せず、まずは篠宮初音に電話をかけた。


「初音、桜はそっちか?」繋がると焦った声で言った。


「ええ。でも彼女、私たちの関係を誤解しているみたい。快晴さん、直接説明した方がいいわ」


「わかった。向かってる。今どこにいる?」


篠宮初音は場所を伝えて電話を切り、まだ床に座り込んでいる時雨桜を見た。


「お兄さんがすぐ来るよ。まだそこに座ってるつもり?」と桜に言った。


「ふん!兄が来るまで、ずっとここに座るわよ!兄が来たら、あなたたちをこらしめてくれるわ」時雨桜はわがままそうに言った。


篠宮初音はこの年頃ながらわがままな「お嬢様」を見て、明らかに可愛がられすぎた人だと悟り、相手にせず松本玲子の方に向いた。


「玲子さん、先に帰ってください。今日は付き合ってくれてありがとう」


「大丈夫?」松本玲子は心配そうに初音を見た。


「平気よ。快晴さんがすぐ来るし、誤解は解けるから」


松本玲子が去って間もなく、時雨快晴が到着した。


遠くから床に座る妹を見つけると怒鳴った。


「桜!立ちなさい!」


時雨桜はすぐに立ち上がり、駆け寄って告げ口した。


「兄さん!あの人、私をいじめたの!」


時雨快晴は初音からの電話で大筋を把握していた。


甘やかされて育った妹の性格をよく知っており、少しでも気に入らないことがあると駄々をこねるのだ。


快晴は桜の手首をつかんで初音の前に引き寄せた。


「すぐに謝って!」と桜に言った。


今まで誰かに謝ったことのない時雨桜は悔しくてたまらなかった。


兄さんが他人のために自分を叱るなんて!


「嫌よ!兄は浮気されても平気なの!兄さんって男なの?そんなこと許せるの?」


「いい加減にしろ!」時雨快晴は手を挙げたが、最終的に拳を握りしめて下ろした。


「初音は僕の恋人じゃない!謝れ!」


兄が手を挙げたのを見て、時雨桜は力いっぱい彼を押した。


「兄さん、私を殴るつもりだったの?大嫌い!二度と会いたくない!」再び強く押すと、泣きながら走り去った。


時雨快晴は妹の背中を見つめたが、結局追いかけなかった。


振り返って篠宮初音に深く頭を下げた。


「初音さん、迷惑をかけて、すまん。悪気はないんだ、ただ甘やかされすぎて」


篠宮初音は返事をしなかった。


悪いのは桜で、謝るべきも桜女だ。


時雨桜を見て、初音の心に羨ましさが湧いた。


家族がいたら、こんなに無条件に甘やかしてくれるのだろうか?


会社に戻る車中、九条天闊は運転しながら時々助手席の初音を見た。


初音は窓の外を見ていたが、瞳は虚ろで、淡い憂いを帯びていた。


「初音、何を考えてる?」


「もし私に家族がいたら…きっと無条件に甘やかしてくれたのかなって」桜のわがままさえ、初音にとっては憧れだった。


子供の頃も家族を願ったが、年々失望が積み重なり、全ての期待を消し去った。


自分は捨てられた存在で、誰にも期待されていなかった。


切なさに包まれ、暗い深海に墜ちていくようだった。


九条天闊の温かくて大きな手が初音の手を包み、光と温もりをもたらした。


無言の応援。


初音、怖がらないで、僕がいる。


「初音、僕が君の家族だ。一生無条件に甘やかしてあげる」これは単なる甘い言葉ではなく、最も真摯な誓いだった。


一生無条件に甘やかしてあげる……


篠宮初音は笑った。


九条の言葉は強烈な光のようで、勢いよく暗闇を貫き、行き止まりを照らし、新しい道を切り開いた。


「ええ、一生無条件に甘やかしてね」


番組収録のため、九条天闊は仕事が溜まっていた。


秘書が日常業務を処理していたが、重要な書類は自分で確認する必要がある。


九条が公務に忙殺されるオフィースでは人が行き来していたが、篠宮初音には全く影響がなかった。


ヘッドフォンを装着し、創作に没頭していた。


アルバムを出すには、2~3曲のオリジナルでは全然足りない。


リズムに乗ってハミングしながら、九条天闊との思い出を辿ると、インスピレーションが泉のように湧き出た。


これまでの作品とは違い、この新曲は甘い恋の気配に満ちていた。


心境が変われば、全てが変わる。


彼女は新曲を『恋愛』と名付けた。


九条天闊は暇を見つけては初音を見つめ、集中する横顔を愛でていた。


邪魔してはいけないと思って、篠宮初音の方が先にその熱い視線に気付いた。


ヘッドフォンを外しノートパソコンを閉じると、天闊の方へ歩み寄った。


「天闊先輩、盗み見してたの?」


九条は近寄ってきた人を引き寄せ、膝の上に座らせた。


「堂堂と見てるんだ。僕の初音は美しすぎて、おばあさんになっても見ていたい」


二人は額を付け合い、親密に寄り添った。


しかし篠宮初音の笑みを浮かべた瞳の奥には、濃い憂いが潜んでいた。


もし九条天闊との子供ができたら、どんなに幸せだろう……


だが、「もしも」はあくまで仮定に過ぎない。


初音は永遠に母親になる資格を失ったのだ……

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