「初音さん、こんなに痩せていては駄目よ。もっと栄養をつけなくちゃ」
「そうそう、もっと食べてふっくらした方が、顔色も良くなるわ」
篠宮初音の目の前の丼には、あっという間に小さな「食べ物の山」が築かれた。
九条の母親が取り分けた豚の角煮、九条の父親が勧めた香ばしい焼き魚、天闊が剥いてくれた透き通るようなエビの身。
「おじさん、おばさん。もうこれ以上、食べられません」
箸を手にした篠宮初音は山盛りのご飯を見て、照れくさそうに微笑んだ。
九条の奥様は初音の手を握り、慈愛に満ちた眼差しを向けた。
「大丈夫、ゆっくり食べていいですよ。どうしても無理なら天闊に食べさせなさい。この子は小さい頃から人のおかずを横取りするのが好きでしたから」
「ああ、僕が食べるよ」
隣に座った九条天闊の視線は初音から離れず、声の抑揚にも溺愛が滲み出ていた。
天闊の瞳は春の湖のように柔らかく、世界に初音だけが存在するかのようだった。
今ではすっかり打ち解けた仲とはいえ、自分の残した料理を食べさせるのはまだ気恥ずかしい。
それに児童養護施設で育った初音は食べ物を大切にしている。
施設時代はご飯と漬物だけの日も多く、満腹になることさえ贅沢だった。
だから丼の料理がどんなに多くても、初音は一粒残さず、小さな口で全て食べきった。
箸を置いた時、無意識にお腹をさすった。
確かに少し苦しい。
九条天闊はすぐに初音の不快感に気づき、手を伸ばしてマッサージしようとしたが、初音の視線で止められた。
年長者が傍にいる前では、あまりにも気恥ずかしかった。
察しの良い九条の母親はすぐに夫の腕を叩いて、「あなた、ちょっと庭へ散歩に行きましょう。消化のためにも」と誘った。
「散歩?今食べ終わったばかりなのに……」
最初は理解できなかった九条の父親も、妻の目配せですぐに気づいた。
「ああ、そうだな!散歩が大好きでな。一日でも散歩しないと足がふらつく。初音さん、どうぞおくつろぎください。今夜はこのままお泊まりなさい。部屋はもう準備させてあるから」
そう言い残すと、初音の返事を待たず、九条の父親は妻の手を引いてさっさと出て行った。
若い二人の邪魔をしないよう、一刻でも二人きりの時間を作ってあげるためだった。
広い客間には、瞬く間に二人きりになった。
「ほら、誰もいない。もうマッサージさせてくれる」
九条天闊は初音が拒否する間もなく、温かい手を初音のお腹に当て、程よい力加減で揉み始めた。
「天闊、やめて、くすぐったいわ」
くすぐったがりの初音は、触れられた瞬間に笑い声を漏らした。
ソファでじゃれ合っているうちに、いつの間にか九条天闊に押し倒されていた。
この密着した姿勢は親密で、かつ微妙な空気を醸し出していた。
笑い声がぴたりと止み、視線が合った瞬間、空気が凝固したように感じられた。
周りの全てが消え去り、互いの息遣いだけが近づいていく。
仄かな甘い香りが漂っていた。
「初音、愛してる」
九条天闊の声は低く、しかしっきりと響いた。
本気さが滲み出ていた。
天闊の顔が近づくにつれ、篠宮初音は鼓動を一拍飛ばしたような感覚に襲われ、息をするのも忘れた。
天闊の「愛してる」は毎回初音の心を震わせたが、今回は体まで微かに震えるほどだった。
初音の胸にも「天闊、愛してる」という言葉がずっと眠っていた。
言い出せないまま。
そして天闊がそれをどれだけ待ち望んでいるかも知っていた。一生待つ覚悟で。
天闊の唇が彼女の眉間についた。
温かく乾いた感触は、羽根が心を撫でるようで、痺れるような感覚だった。
初音は知らず知らずのうちに天闊の腰を抱き、シャツの生地を握りしめて皺を作っていた。
天闊のキスはゆっくりと下り、鼻先から頬へ、そして最後に唇に辿り着いた。
最初は壊れやすい宝物を扱うように優しく、慎ましかった。
だがいつしかその優しさは熱を帯び、抑えきれない欲望へと変わっていった。
その時、「ガチャン」と鍵が床に落ちる音がした。
「あらまあ続けてちょうだい!私は何も見ていないわ、本当に何も……!」
九条の母親は目を覆ったまま慌てて走り去り、落とした鍵さえ拾うのを忘れた。
年長者の前でこんな場面を見られるとは、篠宮初音の顔は「ぱっ」と赤くなり、耳まで熱くなった。
これほど恥ずかしい思いは初めてだったが、不思議とその中にほんのりとした甘さも感じていた。
「ほら、母さんもいないよ……続ける?」天闊は笑いをこらえながら、目尻を下げて尋ねた。
「もう、恥ずかしいんだから!」初音は恥ずかしさのあまり彼を小突いた。
九条天闊は素直に身を起こし、初音もソファから離れて髪を整えた。
しかし落ち着いたかと思うと、天闊が耳元で囁いた。
温かい吐息が耳朶をくすぐった。
「初音、恥ずかしがってる? そんな顔、とても可愛いよ」
「恥ずかしがってなんかいないわ」
初音は強がったが、思わず視線を逸らした。
立ち上がって距離を取ろうとした瞬間、九条天闊が背後から優しく腰を抱いた。
「わかった、わかった。僕が恥ずかしかったんだ。そうだ、僕の部屋を見に行かない?」
話題の変わり方が早すぎて、初音はしばらく呆然としたままだった。
やがてかすかに「うん」と頷いた。
九条家の屋敷は和洋折衷の趣で、客間の木製の家具は浮世絵の彫刻が施されながらも洋風のエレガンスを感じさせた。
九条天闊の部屋はさらに独特で、和風な木製の本棚にモダンな革ソファが調和し、大正ロマンの趣すら感じさせる上品な空間だった。
初音は入った瞬間からこの部屋が気に入ったようで、きらきらとした目で周りを見回した。
「初音、写真を見たい?」九条天闊は背後からそっと肩に手を回した。
「天闊の子供の時の写真、すごく見たい!」初音は期待に満ちた目で即座に頷いた。
「もちろんあるよ」九条天闊は本棚の一番上から分厚いアルバムを取り出し、初音に手渡した。
初音は慎重にそれを受け取り、椅子に座って静かに表紙を開いた。
このアルバムには、九条天闊の出生から大学三年生までの写真が詰まっていた。
赤ん坊の頃からランドセルを背負った小学生時代、学生服姿の少年期まで、全てが克明に記録されていた。
九条天闊はその後二年間昏睡状態に陥り、目覚めた時には初音が東雲たくまと結婚したことを知り、絶望のあまり自己を閉ざして以来、一枚も写真を撮らなかった。
しかし今は違う。
共に人生を歩むべき人を見つけたのだ。
これからは初音と一緒に、このアルバムを再び埋めていきたいと思っていた。
写真の中の九条天闊は幼い頃はぽっちゃりとして頬がふっくらし、お正月人形のようで可愛らしかった。
初音は見ながら笑みをこぼし、写真の小さな顔を指でそっと撫でた。
「こんなに可愛いなんて、写真の中に入って頬っぱりたいくらい」
写真からは、九条天闊が幼少期から美少年だったことがよくわかった。
小さいころから、イケメンの卵だね。
ページをめくっていると、初音はふと九条天闊の言葉を思い出した。
天闊は初音に恋してから、毎日ラブレターを書いていたという。
初音は顔を上げ、好奇心に満ちた目で尋ねた。
「天闊、そのラブレターはここにあるの?読んでみたい」
「あるよ」
九条天闊はクローゼットの一番下の引き出しを開け、銅の鍵のかかった鉄の箱を取り出した。
机の上に箱を置き、鍵を開けると、中にはピンクの封筒が整然と並び、それぞれに赤い紐がかけられ、右上には番号が振られていた。
1から101まで、一通も欠けていなかった。
それらのラブレターを見て、初音が涙目になった。
自分をここまで想い続けてくれる人がいるなんて、一通一通に込められた思いを、初音は想像すらできなかった。
世界にこんなに素晴らしい人がいるなんて。
そしてその人が自分のそばにいて、深く愛してくれているなんて。
これは初音の幸運であり、何よりの救いだった。
九条天闊こそ、初音を過去の影から引きずり出し、再び愛と温もりを信じさせてくれた救いの人物だった。
篠宮初音は何も言わず、アルバムを置くと立ち上がり、九条天闊の胸に飛び込んだ。
両腕で天闊の腰をしっかりと抱きしめ、顔を彼の胸に埋めて、温かな体温と力強い鼓動を感じた。
命がけで自分を愛してくれるこの男こそ、初音の人生最大の幸運だった。