俺は服の中に左手を入れる。
すると、ハティが俺の手のひらに指の先でゆっくりと文字を書く。
『に・お・い』
「なんの?」
俺は口をほとんど動かさずに、ぼそりと一言だけ本当に小さな声で話す。
他の者に聞こえたとしても、何か独り言を呟いていると思われるだろう。
独り言を呟く癖のある者は、別に珍しくもなんともない。
『ち』
「…………」
ハティは血の匂いがすると言いたいらしい。
「だれの?」
『し・ゆ・う・げ・き・し・や』
ハティはゆっくりと一文字ずつ書く。
書き終わると一度、俺の腹をつねって、再び
『し・ゆ・う・げ・き・し・や』
と同じ言葉を書いていく。
ハティが、ここで「襲撃者」と書くならば、それは姉を襲った者のことだろう。
姉を襲った者は、魔導師だ。
攻撃魔法で姉を襲った魔導師は、俺の魔法攻撃を食らい血痕だけを残して逃亡した。
その血痕から採取した血の臭いは、先ほどハティに嗅いでもらっている。
ハティの嗅覚の鋭さは、この酒場を見つけた時点で証明されている。
「どこから」
『お・ん・な』
「……………………」
この場に、女は給仕しかいない。
俺は酒場の中を見回すふりをしながら、給仕のことを観察した。
給仕の恰好は非常に汚い。
だが、不自然なまでに、人の嗅覚で嗅ぎ取れる範囲においては臭くないのだ。
要人暗殺を生業にする者ならば、臭いに気を使わないはずがない。
嗅覚が人よりずっと鋭いハティは、給仕から血の持ち主の臭いを嗅ぎ取ったようだ。
あの給仕が姉を襲った者であるのは間違いないだろう。
問題は、この場が何で、給仕は何者かだ。
光の騎士団に依頼を受けただけの闇組織の拠点なのか。
光の騎士団の拠点なのか。
はたまた、ガラテア帝国の諜報機関の拠点なのか。
「…………」
俺は無言で考える。
そもそも、ハティは魔道具の臭いに残されたパンの臭いを追ってここにたどり着いたのだ
その魔道具は、前学院長たちが使っていたものだ。
それならば、 闇組織の拠点というのは考えにくい。
近衛魔導騎士団も辺境伯家も見つけられなかった光の騎士団の拠点と考えた方がよさそうだ。
もしくは、ガラテア帝国の諜報拠点かだ。
そうなると、店主も組織の人間だろうし、客も組織の人間の可能性もある。
そんなことを考えていると、給仕がパサパサのパンと、安いビールを持ってくる。
昼間の売れ残りのパンがつまみと言うことらしい。
庶民の酒場には、師匠について何度か来たことがある。
だが、つまみがパンなのは初めてだ。
「ありがとう」
「ん」
給仕はにこりともせずにカウンターの向こうへと戻って行く。
俺は周囲をじろじろ見ない程度に観察しながら、ビールを飲もうとした。
その瞬間、ハティが再び俺のお腹をつねる。
飲むのをやめて、再び左手を服の中に入れる。
『ど・く』
「…………」
ハティは俺の飲み物から毒物の臭いを感知したらしい。
入ってきた瞬間に、俺の正体はばれていたのかも知れない。
もしくは誰であろうと殺すつもりなのか。
いや、殺害以外に使う毒もある。しびれ薬や眠り薬も毒といっていいだろう。
そこまで考えて、ふと思い出す。
ハティは酒を飲まされ、操られる魔道具を取り付けられたのだ。
俺との会話で、そのときの酒のことを毒だと認識しているようだった。
「…………」
そして、いま俺が持っている杯にはビール、つまり酒が入っている。
酒を毒だと認識しているハティが、ただのビールを毒だと言っている可能性もあるだろう。
ハティは果たしてあれから酒のことを正しく認識したのだろうか。
俺は説明していない。
だが、ハティは一頭で行動していることも多い。
もしかしたら、酒について正しい知識を得ている可能性もある。
俺は念のために飲む振りをして、無言で杯を傾ける。
そうしながら、周囲の様子をさりげなく確認した。
店主も客も、俺の様子を横目でじっと見つめていた。
それはまるで、俺がきちんと毒を口にするか確かめているかのようだ。
(これは、ハティの言うとおり飲まない方がいいな)
そう考えて、ビールは飲む振りだけをする。
つまみとして出されたパンに関しても油断できない。
(毒を口にした振りがしたいのだが、どういう効果かわからないから、演技が出来ないな)
即死系か、しびれ薬系か、眠り薬系か。
恐らく即死系の可能性は低いように思う。
どうせなら、俺から情報をとりたいだろう。
ならば、眠り薬系だろうか。
しびれ薬系は飲まされたものが盛られたことに途中で気付きやすい。
動けなくなる前に暴れられたら、厄介だ。
その点、眠り薬は気付きにくい。
やけに眠い日なんて誰にでもあるからだ。
今日はやけに酒が回るのが早いな、疲れているのかな。
そんなことを考えている間に、薬が回ってしまい意識が無くなる。
ならば眠たい振りをしよう。
薬を盛られていなくても、酒を飲んで眠くなるのは珍しくない。
もし、何も盛られていなかったとしても、怪しまれる可能性も低い。
「はぁーあ」
俺は大きくあくびをすると、瞬きを何度か繰り返し、眠たいふりをした。