ジュリエットが落ちないように気をつけつつ、馬を走らせた。違う町で暮らすのは少し不安もあるけど、ロレンス神父の知り合いの神父もいるらしく、手紙で事情を伝えてくれるらしい。
とりあえず、マンチュアという町の教会を目指した。四十キロなので距離だと、東京から横浜くらい。電車だとあっという間だけど、昔は大変だと改めて思う。
夜に走り始めたとは言え、ジュリエットを抱えた状態だから時間を取られ、着いたのは明け方くらいだった。道中もだけど、完全に夜中に人がいないわけでなかった。ジュリエットにマントをかけて多少は、誤魔化したものの、ぐったりしてそうなの若い娘を見て、通る人に怪訝な目で見られている気がする。
教会のドアを叩いく。日が登り始め、薄暗さが和らぎ始めた、この時間だと起きているだろうか。起きているとしても非常識な時間帯かもしれないけど……。
「朝早くにすみません! 助けを求めて来ました」
少しして、しっかりした服装で神父が出てきた。
「君がロミオかね? 手紙はもらったが……。そちらの方は、大丈夫かい?」
手紙には、まさか眠っている子が来るとは書いてないのかもしれない。驚かしてしまった。
「ちょっと強めの睡眠薬を飲んだと言いますか……」
「事情はだいたいは聞いている。安心して中に入りなさい」
はい、と頷き、神父は馬からジュリエットを下ろすのを手伝ってくれた。
「寝ているだけなんだな……?」
なにをしても起きないジュリエットに、神父もまた、みんなと同じ反応を示した。そう、“ロミオ”を絶望させるほど完璧な死がジュリエットには起きている。知っている僕でさえ、不安はずっと拭えないでいた。抱きしめながら馬を走らせ、怖くなって死んでしまいたくなるほどに。
「悪魔が邪魔をしなきゃいいが」
「どうか助けてください」
励ますように僕の背中を軽く叩き、教会の中へと促す。
「部屋は空いている所を使うといい。とりあえず、眠りなさい。しばらく寝ていないと見える」
教会の奥に行くと、聖職者たちが寝泊まりしている所に案内された。二人部屋でベッドと少し家具のある狭い部屋だ。普段から簡素な生活をしているのだとしみじみ思う。
感謝をしながら、ベッドにジュリエットを寝かせた。ジュリエットが薬を飲んでから二十四時間以上は過ぎた頃。あと半日と少し……?
寝ればすぐなのかもしれないけど、不安でとてもじゃないけど寝れそうになかった。
「なぁ、まだ起きないのか?」
ジュリエットの唇に指で、そっとなぞり触れてみる。しばらく手を握っていたものの、時間が経つのが遅すぎて、じっれたすぎてかなわない。相変わらずジュリエットは、なにをされても起きないし。
「はぁ……」
ため息がまたでる。さっきから吐いてばかりで、空気が足りない気がしてきた。
誤差はあるだろうけど、ジュリエットが起きるのは夜だ。それまで不安で離れられなくなるのも良くないと、思い直して、教会で仕事をもらいながら、時間を潰した。
掃除に皿洗い、その他。聖書の話に参加しつつ、何度も何度も、窓の外を見ては日が落ちるのを待ち続けた。一刻、一刻が果てしなく、遅い。太陽が真上にきて、それから傾き始める。
日が沈んだ。空は完全に暗くなった。
そろそろかもしれない。手伝いを切り上げさせてもらい、部屋に駆け足で戻り待機した。緊張で心臓が出そうだ。
もしかしたら、大切な人が手術をして医者がオペ室から出てくるのを待つ心境は、こんな感じだったんだろうか。僕は病気でこっち側だったけど、親は、姉はどのくらい不安だったのか、今になって分かった。
「だいじょうぶ、……だいじょうぶ」
ベッドに顔を伏せながら呟いた。きっと今僕は、すごく情けない顔をしてるだろうけど、誰にも知られてないから、構いはしない。
「……――っ」
百回くらいのため息をした頃、微かにすーっと空気を感じた。握りしめ続けていても、まるで反応のなかった手が、 ぴくりと動いた。僕じゃないとしたら、それは――
「ジュリエット!!」
はっと、顔を上げるとまだまぶたが重いのか開いてないジュリエットの姿があった。その口からは「んん」と気だるそうに声が漏れていて、確実に目覚め始めてるのが分かる。
「ジュリエット!! 分かるか、僕だよ。ちゃんと逃げてきたよ」
「……ろ、……みお?」
うっすらと開いた瞳が僕を見る。
あぁ、奇跡だ! ちゃんとジュリエットは起きた。
「良かった! ……本当に。起きなかったらって気が気じゃなかったんだ」
なぜかそれだけで泣きそうになった。だってさ、本当だったらロミオとジュリエットは、死んでいたはずだから。僕らは生き残ったんだ!
「こ、こは……?」
「マンチュアだよ」
「……そ。うまく、行ったんだね。ちゃんと、……待っててくれてありがとう」
ジュリエットは握りしめていた僕の手に気づき、同じように、また泣きそうになってていた。
「心配かけて、ごめんね」
そんな事、ないよって
「逃げられたんだよね」
ジュリエットは僕の腕の中に収まり、くぐもった声で言った。
「うん」
「もう大丈夫だよね」
「そうだよ」
まだ麻痺が抜けないのか、僕の頬に触れようと伸ばした指先が震えてるから、ジュリエットが触れやすいようにその手を掴んだ。頬まで持っていくと、ジュリエットは僕の体温を感じ、嬉しいそうに目を細めた。
「そう言えば、私が薬飲む前にした約束、覚えてる? 起きたら教えてって言ったこと」
「本当の名前だっけ?」
「そう。私の名前ね、
「ゆか……。そっか」
名前を心にしっかりと留めた。近くにあった紙とペンに漢字でどう書くかもついでに教えてもらった。ついでに、自分のも。ていうか、漢字を書くなんて久しぶりだ。
「これで、
「こうき……くん」
噛み締めて、ゆっくりと呼ばれた。ロミオと呼ばれるのに慣れてしまったせいか、すごく久々に本当の名前で呼ばれると少し気恥ずかしくなる。
ジュリエットの中に人がいて、ほっとした。やっぱり僕が好きになったのは、“結夏”だ。
「もしかして夏生まれ?」
「そう。“ジュリエット”も七月生まれのJulyから聞いてるんだって。なんか親近感湧いちゃうよね」
まだ身体はだるそうにしながら、細いベッドの上で結夏は膝を立てて、体育座りの形になった。その上に顔を乗せている。十四歳で身体が小さいのもあるけど、余計にコンパクトになる姿は、ちょっと可愛い。
「結夏は、その……。僕がロミオじゃなくても航生として、す、……好きでいてくれる?」
こういう時、欧州では簡単に言えるんだろ。それこそイタリアなんかは、そこら辺でナンパできちゃうくらいには軽口を叩ける。いざ口にすると、あまりにもヘタレ過ぎて穴に入りたくなった。
「もちろん。ロミオじゃない航生くんの部分、全て好きだよ。それに、言ったでしょ? ロミオの中に誰がいるの気づいてたって」
結夏ははっきりと言った。言われたら言われたで、まぁ恥ずかしい。
「どっちかと言えば、私はロミオじゃなくて、航生くんだから、信じることにしたの」
なんでそう言ってくれるんだろう? 嬉しいけれど、経験値ゼロの自分はキャパオーバーを起こす。
「あ、あーー。そうだ。落ち着いたら、早めに家を借りてどこかに住もう」
「ねぇ。私には、なにか言ってくれないの?」
誤魔化して話を変えたのが、お気に召さなかったらしく結夏は甘く催促してくる。
「そんなの、言わなくてもわかるだろ」
「すぐ口ごもっちゃうところは、航生くんらしいね」
どう言う意味で言ってるのか、聞かない。頼りないってそのうち呆れられる前になんとかしないと。
「そうだ。指輪もあったほうがいいよな」
いろいろあって忘れてた。あんまり必要な気はしてなかったけど、既婚か未婚かがすぐに周りにもわかるのはあった方が、トラブルにならない。
「余裕ある時でいいよ。まずは生活を何とかしないと」
結夏は現実的だ。しっかりてる。落ち着いてるところも好きだけど、それを言うと尻に敷かれてるのを僕自身が惹かれてるみたいで、なんかいやだ。
「神父さまに、ジュリエットが起きたって報告してくる。ゆっくりしてて」
「あー、言わないで逃げたでしょ」
ちょっと新婚生活ぽいななんて思い、浮かれてるの気づかれないように、そそくさと立ち上がった。住める部屋を探しり、仕事を見つけたりとか、やることはまだ多い。結夏の前ではしっかりと気を引き締めなきゃな。
――
これで僕はようやく安心して寝れる。
翌日、ベンヴォーリオとー宛に手紙を書いた。内容はそう。ちゃんとジュリエットが起きたから、こっちは大丈夫だって伝えるよう。
手紙を出した帰りの時だった。道の向こう側で、ティボルトとパリス伯爵がなにかを探すように、聞き込みをしながら歩いていた。
なんで、ここに――。