影のない、見晴らしのいい教会で。石でできた階段は、夕方になっても夏の暑さを吸い取り、下からじりじりと焼けそうだった。
おまけにヴェローナは盆地で熱がこもりやすい。今の地球みたいに温暖化ではないものの、額から汗が流れ始める。
暑い。
「水、飲まなくて良いのか?」
ボトルに入れて持ってきてくれたのか、ベンヴォーリオが僕に差し出してくれた。
「ありがたいけど、目を覚ますまでは……」
「水も? そこまで厳粛に断食する気かよ?」
倒れるなよ、と言われて僕は心配かけないように笑っ手見せた時――
「――つめたっ!」
急にバシャっと上から冷たいものがかかってきて、髪やら服が一気にびしょ濡れた。
何が起きたんだと思い見上げると、ティボルトが僕の頭目掛けてバケツの水をかけたらしい。相変わらず、乱暴だなぁ。
「夏だから、すぐに乾くだろ?」
「おかげで涼しくなったけど、もう少し優しくかけてくれても」
「文句言うんじゃね」
マキューシオがティボルトをせっつき、教会に目線をやった。
「祈りに来たんだろ? 忘れたのか」
「……言われなくても」
「俺も祈るとか、柄じゃないけどな」
確かに、マキューシオが祈るのは珍しい。それもその貴重な数少ない祈りを、僕らのためにしてくれるなんてありがたい。
しかも、三人が肩を並べて教会に入っていくのを見る日が来るとはね。
町の人たちは、変わらず「まだロミオはジュリエットが目を覚ますと信じているのか」と囁きながら通り過ぎていく。
この暑さで、結夏は腐ってしまわないか心配になった。死んではいないとは言っても、仮死がどれほど生命活動を止めるものなのか、僕にはわからない。
呼吸も、鼓動も止まっているなら、それはもう本当に死んでいるのと変わらない……。
聖書に出てくるラザロは、四日目にはもう腐り始めていたというし。結夏の身体にもしものことがあれば……。
背中に太陽を受け止め、抱きしめたまま、僕の身体で結夏を隠した。日差しを遮るように、僕の影がそっと彼女にかかる。
だからどうか、早く――目を覚まして。
夜になり、怪訝そうに見つめていた町の人たちも帰り、僕と結夏だけになった。既に喉がカラカラだ。
静かに目をとしいると、母親が人目を忍び使用人を一人連れながら来た。
「ロミオ!! まだ続ける気なの!? 死んだ人を抱きしめ続けて……! みんな言ってるのよ、頭がおかしくなったんじゃないかって」
「僕は、冷静です」
「……お願いだから目を覚まして。ジュリエットはもう死んでいるのよ! 教会の前でやめて!」
母は泣きつき、訴える。僕はごめんなさいという他無かった。
「……いいえ。もう遅いわ。あなたは二日後に処罰され死んでしまう運命なのよ……っ」
僕の腕を掴んだその手が震えていた。
「せめて、夜のうちに別の町に逃げて!」
「僕は逃げない。此処から動かず、ジュリエットが目を覚ますのを待つと決めているんです」
これまで何度も僕と結夏は、両親に結婚の話はして来た。取り合わず、今になって両家は大慌てを始まる。「どうして、こんなことになってしまったの」と嘆かれても、僕らはできることは、してきたつもりだ。
母は、力が抜けたようで使用人に支えられながら、帰っていった。
なにかが頬に当たって、ふと目を開けると、幼い女の子が僕の顔を覗き込んでいた。日が出始めている。
どうやら、明け方から寝入ってしまっていたようだ。
普通だったら、寝れば熱中症は治る。水を一滴も飲んでない僕は、リセットされないまま、朝になっても頭がガンガンと痛みが残った。
「お兄ちゃん、ずっとここにいるね? 死んじゃってない?」
少女がぼくの頬をぺちぺちと叩いている。
「大丈夫だよ。この通り、生きてるよ」
「このお姉ちゃんは? お顔が白いし、ずっとずっと動かないけど」
「ジュリエットはちょっと眠り姫なだけ」
「それって、キスしたら起きるやつでしょ? やんないの?」
「……こればかりは、キスじゃダメなんだ」
「えー、なんで?」
僕も思った。キスして起きてくれるなら、楽なのにねって。結夏は脈も止まっているから体温は低い。だけどこの暑さで、完全には下がりすぎず、不気味な温度が伝わってくる。
それに、僕はとめどなく流れてるのに、結夏は汗ひとつかいていない。
暑さの中でただ一人、時間の止まった人間のようだった。
「……あ、そうだった! ずっとご飯食べてないでしょ? パン食べる?」
この優しい少女は、僕がお腹を空かしているのを心配してくれていたらしい。紙袋からパンを取り出すと、僕に差し出す。
「……うっ」
本当は、喉から手が出るほど食べたかった。
空腹でどうにかなりそうで、早く楽になりたいくらいだった。
だけど、僕は、最後まで、飲みも、食べもしないと違ったんだ。
「っ。ありがとう。でも、気持ちだけ貰っとくよ。僕は今、断食中なんだ」
「だんじき?」
「神さまにどうしても祈りたい時に、身を差し出すことだよ」
「よくわかんないけど、食べたら、怒られちゃうの?」
「僕が勝手にしてることだから、怒られないだろうけど。どれだけ真剣な想いか、伝わらなくなっちゃうかもね」
少女はまだわからなそうだ。
「たとえば、王妃エステルがユダヤの民のために祈ったんだけど……」と言いかけて、やめた。「神父さまに聞けば教えてくれるよ」と付け加えた。
「分かった! 聞いてみる。……じゃ、お姉ちゃんが起きたら、パンあげるね」
ニコッと笑って、軽い足取りで教会に入って行った。さっそく、聞きに行くのかもしれない。その背中を見て、思わず微笑んでしまった。
……そう言えば、エステルの時も三日三晩祈り、断食をしていた。僕の祈りの期間は大丈夫だろうか? 日数的には足りない気もして、不安になってきた。
それから少しすると、少女は満足気に帰ってきた。
「あたしも、お姉ちゃんが起きますようにって、神さまに祈ってあげたよ!」
「ありがとう」
良いことをして、神父さまにも褒められたのかもしれない。嬉しそうに跳ねながら、遠くにいる母親の元に駆け寄った。
母親は、少女に何かをせがまれているみたいで、僕を見、困りながらも祈るように少し身を低くした。
あの少女の祈りを境に、町の人たちも少しずつ僕らのために祈ってくれるようになった。
――ジュリエットの顔はとても、呪われている顔には見えない。
――そうだ。ジュリエットはロミオに呪いがあっても、幼い時からずっと一緒に居続けたじゃないか。
――パリス伯爵が、ロミオとジュリエットの二人の中を裂き、追い詰めた。
――ジュリエットが死を選んだのは、誰のせいだ。
結夏が眠った以上、今さら、この勝負から降りることは許されない。僕もパリス伯爵も。本当は話し合いで済ましたかった。でもそれは叶わず、あえて教会の前でパリス伯爵にも舞台に上がってもらった。
「クソ! とんだ、大事にしてくれたな!!」
冷たい目線がパリス伯爵に向けられ、彼は町で狂ったように叫んだ。その姿を見ると、心苦しい。みんなの前で、パリス伯爵との結婚を、結夏の死を持って拒絶した僕らのせいだ。
神の目から見たらここまでするのは、間違っていたかもしれない。それに、ただ人々の共感を得るための「見せかけ」の祈りになってはいなかったか。
大衆の賞賛を得るための祈りは、本当は、神に喜ばれるものじゃないと、聖書は言っていたのに。
このやり方が、いい事だったのか分からなくなってきた。
けれど――僕たちが結ばれるためには、避けられない道だった。伯爵に諦めてもらうしかなかった。
ひまりの時もそうだ。僕の幸せのために誰かを傷つけてしまうことの痛みを、忘れてはダメだ。
「な、なにを考えているんだ! ジュリエットが毒を飲むなんて! そんなに私との結婚が嫌か?! いいや、私は間違っていない……っ! 全部、あいつのせいだッ! こんなことあってたまるものか!!!!」
暑さと、脱水や空腹で、パリス伯爵の声がガンガンと頭に響く。僕もそろそろ限界になってきたのが自分でもわかった。
「パリス伯爵を見ていたら、少し笑えねぇなって。アレは俺だ」
ティボルトはこの状況をみて、言葉をもらした。冗談でもない顔をして言うから、少し心配になった。
「ティボルト……?」
「もし叔父上が俺を婚約者に決めたなら、俺もこの機会を手放さない。それでパリス伯爵のようにジュリエットに死ぬ気で拒まれたら……俺は……」
「結夏は、断るとしてもティボルトにそこまで、拒否なんてしないよ。パリス伯爵が引かなかったから、僕たちもそうざるを得なかっただけで」
ティボルトは、なにも言わなかった。
「ティボルトはずっと、結夏のためにしてくれてたのを知ってるし。改めて、ありがとう。感謝してる」
「俺はお前が嫌いだよ」
二度目の夜。改めて、暗闇から見る星空は綺麗だと思った。
結夏の薬指には、三日前にあげた血まみれの指輪が今もはめられていた。何度か僕にティボルトが水をかけに来たせいか、指輪の血の色も少しだけ落ちたような気もする。それとも結夏が、呪いと言われたものを消してくれているのかな、なんて。
そんなことを思いながら、反応がないのを分かりながらも、結夏の唇にキスを落とした。
気力だけでここまで耐え、最終日になった。
薄暗さと、陽の光が混ざり合うころ。教会の鐘が町に夜明けを告げる。
息があがりぱなしで、虚ろになってきた目で遠くを見ると、毒売りの男とロザラインが僕らのことを見ているようにみえた。
フードを被り表情を隠したまま、結夏を指差す。『時間だ』と、言われた気がした。
思わず結夏の首筋に手を当てると、脈を打つのを指先で感じた。口が少し開き、息が小さく吸っている。
結夏が……!
結夏が眠りから、帰ってきてる……っ!
結夏の頬に日差しが当たり、眩しそうに目を閉じたまま眉を寄せる。指先が、何かを探しているように動くから、その手を握りしめた。
「ここにいるよ。結夏っ!」
「……ん」
「結夏!!」
結夏は、無意識なくせに、僕の手を握り返す。教会での夜も睡眠をとったからか、遅れる事なく予定の時刻に目を覚ました。
「おはよう」
「ろ……。こう……きく、ん」
「そうだよ。僕は航生。結夏!」
結夏は記憶が曖昧になったのか、ロミオと言いかけた。すぐに僕を航生だと見てくれたことに安心した。大丈夫だ、意識は混濁していない。
「わた、し……、寝坊、……してない……?」
「ぴったり時間通りだよ」
「そう……良かった。あのね、なぜか早く起きなきゃって思ったの。じゃないと、航生くんがって……」
「なにか聞こえてたの?」
「寝てたはずなのに、変だよね」
そんなことはない。僕のために早く起きたいって気持ちが、すごく嬉しかった。
「どう? 調子は」
「寝てただけだから、そのうち感覚が戻ると思うわ」
「なら良かった」
「ねぇ? それより航生くんの方が少しやつれてない?」
結夏はまだすぐには、身体を起き上がらせる力がないので、僕の腕の中に身を預けた状態にいる。それでも力の入らない腕を必死に上げて、僕の頬に触れた。
「待って、顔がすごい熱い」
結夏は、汗も乾いてると言って、僕がしたことに気づき始める。多分今、隠せないど身体に流れる血が沸騰寸前だった。
「結夏だけに、命懸けさられないだろ」
どちらかが言ったわけでもなく、お互いに唇を重ね合わせていた時だった。
「目を覚ましたのか……ッ!」
うっかりここが大衆の広場だとは忘れてた。しかも、その声はキャピュレット家のご当主さまの前だ。その隣にはティボルトがいる。あいつが呼んできてくれたのかもしれない。
「まさか……こんな奇跡…………本当に」
「はい。お父さま。心配をおかけしました」
「お前はなんてことをしてくれるんだ。好きな男のためだけに、こんな、命を捨てるような。お前は素直に嫁ぐべきだった」
キャピュレット氏は険しい顔を向けた。
僕は意識が持ってかれそうになりながらも、残りの気力を振り絞り、話を聞いた。
「先刻、ハリス伯爵から結婚を取りやめると申し出があった。今後は、誰も娘を貰いたいと言う者など現れないだろう。貴様のせいでな」
よほど認めたくないのか、まだ娘をやるとは言ってくれない。
けれどふと見ると、母親同士はわだかまりが溶けてくれたみたいだった。
ジュリエットが生き返ったことに、声を殺して泣いている夫人に、僕の母は、その背中を支え、頬に手をあてて一緒に泣いていた。
原作では、お互いの子供を亡くし泣いていた涙が、安堵の涙に変わった。大事にはしてしまったけど、僕らがやり切った意味はあったはずだ。
両家はこれから親族となる。忌々しいのは分かるけれど、大勢の群衆が見守る中、もう反対する余力は残っていないように見えた。けれど握手はできずに、目を逸らしたり人々の顔色を見る。
「二人の結婚を、いい加減認めてあげませんか?」
なかなか締結しない両家の手をティボルトは無言で取り、無理やり握手させた。昔、結夏が僕とティボルトの手を集めて祈った時みたいに。それを今じゃティボルトがやるなんて、不思議な気分になる。
「さぁこれで長い争いは終わり。良いですね、叔父上、叔母上。モンタギューのお二人」
複雑そうな顔を浮かべながら彼らは、ティボルトの言葉に静かに頷いた。深いため息をついたあと、どちらが言った。
「……あぁ、そうしよう。式を挙げよう。それも盛大にだ。周りの連中がくだらないことを言わせない程のものを」
「それが良い」
そして、親たちは僕たちを立ち上がらそうと腕を取った。
「とりあえず帰りましょう。式の日取りは改めて。さぁロミオ家についたらまずは食事です。2日ほどなにも食べていないでしょ」
「ジュリエットお前もだ。家で医者に念の為診てもらうんだ。良いな?」
駆け落ちをして見つかるかの心配もしなくていい。親から勘当もされずに、僕らの仲を認めてもらった。
僕も結夏も、死なずに済んだ。
これでもう。
本当に大丈夫だ。
安心して、立ち上がった瞬間、視界がぐらっと回った。
身体に力が入らず、目の前が、真っ暗になる。
誰かに腕を掴まれた感覚は、ある。
それから、結夏が……。
僕の名前を、呼んでいる。
泣きそうな結夏の声が、かすかに聞こえた――