夕陽が傾きかけた荒野に、ふわりと風が吹く。
戦いの余韻がまだ地面に残るその場で、真魚は草壁の腕の中から身を乗り出し、リィーナに視線を向けた。
「リィーナさん……肘、怪我してます」
その一言に、リィーナは少し驚いたように自分の右肘を見下ろす。
そこには擦り傷があり、血は止まっていたが赤くなった皮膚が痛々しかった。
「あ……これは、馬車が横転したときについたんです。でも、リリアが庇ってくれたおかげで、この程度で済みました。リリア、本当にありがとう」
「……ということは、リリアさん」
真魚が不意に鋭い声で言った。
「鎧を脱いでください」
「……えっ?」
驚いたのはリリア本人だった。
何を言い出すのかと思った――が、すぐに察する。
正確には、真魚の意図に気づかれていたことに、驚いたのだ。
「……庇ったときに、怪我したでしょう?」
「えええっ!? リリア、本当なの?」
リィーナが青ざめて叫ぶ。
「ほんの、かすり傷です」
「とにかく、鎧を脱いでください!」
「で、でも……」
リリアが一瞬、視線を横に逸らす。
見たのは、草壁の顔。
無言だが、当然こちらを見ている。……ような気がした。
その気配を感じ取ったのは、真魚とお雪だった。
「壁、後ろ向いてろ!」
お雪がピシャリと命令する。
「え?」
草壁が小さく首を傾げる。
「壁さん、後ろを向いてください!」
真魚も、しっかりと言い直した。
「……ああ。すまん」
草壁がようやく理解したように、くるりと背を向ける。
それを確認してから、リリアはおそるおそる鎧の留め金を外し始めた。
甲冑がカシャリと音を立てて地面に置かれる。
その下にあったのは、肌を守るための薄布一枚――いわば下着と大差ない姿。
そのままリリアが背を向けると、両腕の上腕と、背中の一部が紫色に変色していた。
「ひどい……!」
リィーナの目が大きく見開かれる。
その表情はすぐに崩れ、涙が頬をつたって落ちていく。
「こんなに……こんなになるまで庇ってくれて……リリア、ごめんなさい……ごめんなさい……!」
「リィーナ様、これは本当に、かすり傷です。お気になさらず――」
「かすり傷なもんですか! これじゃあ、大怪我ですわ! 私のために、こんな……」
リリアは何も言わず、微笑んで首を振る。
「従者が主を庇うのは、当然の務めです」
「リリア……ありがとう……そして、本当に、ごめんなさい……」
そのときだった。
草壁の腕の中にいた真魚が、そっと体を起こした。
彼女の大きな黒い瞳が、ふっと淡くオレンジ色に輝く。
瞬間、リリアの腕と背中を覆っていた紫色の内出血が、みるみるうちに消えていった。
同時に、リィーナの肘の擦り傷も、赤みを残さず綺麗な肌に戻っていた。
――まるで、何もなかったかのように。
「……治癒魔法ですね、真魚様。ありがとうございます」
お礼を述べたのはリリアだ。だがその声は、どこか戸惑いを含んでいた。
「痛かったでしょう?」
真魚が優しい目でリリアを見る。
「いえ……たいしたことありません」
リリアはきっぱりと答える。けれど、真魚にはわかっていた。
(骨、いってたな……)
治癒魔法を使った者にだけわかる“中の傷”。
リリアの骨は折れていたのに、顔ひとつ歪めず、痛みも訴えなかったのだ。
自分の身を呈して守り、黙って傷を抱える。
それが彼女の、騎士としての覚悟だった。
:沈黙の馬車旅と呪いの話
帝都オーガンへと向かう道を、馬車は静かに進んでいた。
御者台にはリリアと草壁が並んで座り、交代で手綱を握る。言葉は交わさずとも、二人の動きは驚くほど息が合っていた。
馬車の中では、リィーナと真魚が並んで座り、その向かいにお雪が足を組んでいる。
ガタン、ゴトン……と馬車が揺れるたびに、座席の革が軋んだ。
「……あの」
リィーナが口を開いたのは、三度目の沈黙のあとだった。
「また不躾なことを聞いてしまいますが……真魚様は、治癒魔法をお使いになれるのに、どうしてご自分のお足は……」
そこまで言って、リィーナははっと口を押さえた。
「っ……すみません!いまの、忘れてください……!」
治せるのなら、治しているはず。
――そのことに思い至り、リィーナは顔を伏せる。
しかし、真魚はふわっと笑った。
「大丈夫、気にしてませんよ。みんな最初は気になるみたいだし」
そう言ってから、ほんの一瞬だけ、視線を落とす。
「……怪我や病気なら治せるんです。でも、これは呪いなんです」
「……呪い……」
リィーナが小さくつぶやく。
「治癒魔法では治せないの。魔女の呪いだから」
馬車の中に、ひんやりとした空気が流れた。
お雪も、普段の皮肉を控え、黙っている。
だが、しばらくして、真魚が口元をにんまりさせた。
「でも、悪いことばかりでもないんですよ?」
「……え?」
「移動はいつもお姫様抱っこ。らっきーでしょ? うらやましい?」
突然の明るい切り返しに、リィーナが目を丸くする。
「……はい。うらやましいです」
「でしょう? まあ……」
真魚が壁をちらっと振り返る。
「相手が壁じゃなきゃ、もっとよかったんですけど」
「ええっ!? でも、壁さんってイケメンじゃないですか?」
リィーナが即反応する。
「顔はね。でもね……」お雪が横から入る。
「あいつは人格に問題がある」
「そうかなぁ~?」
「あれは感情がない。ただの朴念仁。」
「表情は乏しいけど優しいところも……」
「違う、あれは“リアルに壁”なの」
「そっか、壁なのか」
「壁だよ」
「壁ってことは……」
「壁だ」
「壁だったらしょうがないね」
「うん、壁だからしょうがない」
二人の会話に、完全に置いていかれたリィーナは首を傾げる。
「……あの、今の会話、私にはよく……」
真魚がにっこり笑って言った。
「気にしないで、リィーナさん。壁のことなんてどうでもいいんですよ」
「は、はい……」
その後しばらく、馬車の中は再び沈黙に包まれた。
しかし、外の御者台でも、まったく同じような空気が流れていることに気づいた真魚が、ぽつりと呟く。
「……リリアと壁、無言でずっと御者してるけど、気まずくないのかな?」
「そうなの?」
リィーナが小声で訊ねる。
「はい。草壁様は無口で無愛想なので、本人は気にしてないと思います」
「……でも、さすがにこの沈黙はまずいわね」
お雪が馬車の窓を開けて、外に声をかける。
「草壁ー!なにか話しなさい!」
しばらくして、返ってきたのはひとこと。
「……なにかとは、なんだ?」
「ほら、こういうヤツなんだよ!」
お雪が怒ったように馬車内で叫ぶ。
「えっと……天気の話とか?」
真魚が提案する。
「今日は晴れている」
「はい、ありがとうございます……」
「他にはないのか」
「うーん……」
気まずさを感じたリリアが、話題を変えようと声を出す。
「リィーナ様、私から話します。えっと……お二人は帝都オーガンのご出身なのですね?」
「違う」
間髪入れず、壁が答える。
「……ち、違いましたか。すみません」
「遠くから来た」
「は、はい……遠いところから、ありがとうございます」
「うん、遠かった」
「壁、もうちょっと話を膨らませなさい」
「無理だ」
「無理でも頑張れ」
「無理」
お雪がため息をつく。
「じゃあ、私が答える。出身地は、壁と真魚と同じ国。だけど、知り合ったのはこっちに来てからだね」
「へぇ……そうなんですね」
「私の生まれたところは、雪国の山奥。真冬になると、雪で何もかも埋もれちゃう」
「すごい……そんな場所があるんですね」
「今度、案内してあげるよ」
「本当ですか!? 楽しみです!」
「私も行きたいです!」
馬車の中がようやく柔らかい空気に包まれたとき――
「帝都オーガンだ」
御者台から草壁の声が響いた。
その声に、馬車の中の全員が前方へと身を乗り出す。
夕陽の中に浮かぶ、巨大な城壁と高い尖塔。
――帝都の姿が、ようやくその目に映ったのだった。
丘を越えた先に、その街は姿を現した。
青空を背景に、白く輝く城壁がそびえる。
数多の尖塔を擁する巨大都市――帝都オーガン。その威容はまさに王都の名にふさわしく、旅の終着を静かに迎えていた。
城門前には、商人や旅人たちが列を作っており、入場の順番を待っている。
馬車もそれに倣い、列の最後尾についた。
やがて、門兵のひとりが手を挙げて合図を送ってきた。
「そこの馬車、次だ。御者、止まれ」
草壁が手綱を引き、馬車が静かに停まる。
兵士が近づいてくると、威圧的な口調で言った。
「身分証を確認する。全員、提示を」
馬車から順に身分証が差し出される。
リリアは帝国騎士団の徽章を、リィーナは公爵家の紋章が入った封蝋付きの身分証を提示。
「ふむ、公爵家の令嬢か。問題ない。こちらの護衛か?」
「はい、護衛を依頼しております」
リリアが静かに応じる。
次に、お雪が冒険者ギルドのカードを差し出した。
門番が受け取って確認する。
「ふむ、冒険者……発行地:カラヴィナ港街?」
「ええ。私たちは遠方の街から参りました」
お雪が落ち着いた口調で返す。
門番が壁と真魚のカードを受け取り、順に確認していく。
「三人ともカラヴィナ発行か。えらく遠くから来たな」
「護衛依頼を受けて移動していただけです」
お雪が淡々と答える。
「……まあ、冒険者なら遠方からでも不思議はないか」
門番は納得したように鼻を鳴らすと、全員の身分証を返す。
「よし、通っていい。馬車もそのまま通れ」
草壁が手綱を軽く引くと、馬車は再び動き出す。
巨大な城門のアーチをくぐり、白い石畳の道が続く帝都の街へと、ゆっくりと進んでいった。
高くそびえる尖塔、賑わう街並み、石造りの建物と立ち上る煙――
帝都オーガンの鼓動が、徐々に五人の冒険者と令嬢たちを包み込んでいく。
そして、誰もまだ知らない新たな物語が、今ここから始まろうとしていた。