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第3話・思い出とは一杯の酒

 ユークリッドの履歴書は、そんなに自慢できるものではない。もっといえば、妬ましい程の偶然に恵まれて、今現在の彼がある。

 ここだけの話、最初から騎士となれる血に生まれついていたのでもなかった。

 十歳ばかりの頃、城下に流行した病で、一代貴族で役人の父と母をなくした。そのあと、孤児ということで修道院に預けられたが、おおよそ信仰に生きるには彼は血の気が多すぎた。二三年のうちに問題児として持て余された彼は、公務で視察に来た成婚したばかりの王子エルンストの目に止まり、そのまま彼の従者として取り立てられた。彼の王太子位の凍結はこの頃であるから、二人は類と友が自然のうちに呼びあい、出会うべくして出会ったのだといえるかもしれぬ。エルンストが作ったばかりの「新フィアナ騎士団」に配属され、十七になったこの年、貴族の身分を得て、異例の若年で騎士に推薦された。そのきっかけとなる御前試合で、ユークリッドは騎士に不可欠な強靭さと精神の堅牢さを衆目に見せつけた。しかし、長いこと外国と戦争沙汰になったことがなく、騎士の存在も形骸化し、求められるのは称号に見合った洗練さに代わっていた時節というものには、跡継ぎのない老貴族の猶子という体裁で得た立派な貴族であっても、彼はただの野卑な平民にしか見てもらえなかった。

 だが、ユークリッドの人となりには所詮平民上がりだとて無視できない奥の深さがあり、「新フィアナ騎士団」を発足させるに当たり、十五人前後の当時構成員は、満場一致で彼を代表に推薦したのである。単なる戦闘能力の高さだけがその理由ではないのは、エルンストにもすぐわかった。

「いつかお前もお前らも今に見合った形で報われる時があるさ。くされるな」

まったく王太子らしからぬと陰口を叩かれるエルンストではあったが、そんなときの厳しい顔も、「新フィアナ」の面々と妻オルトとに対しては決してしなかった。そして、王子の道楽とだけしか見てもらえなかった「新フィアナ騎士団」だったわけだが。

「俺達も役に立てるんですね」

夕方遅く、生活の場ともなったパラシオン城に引き上げながら、ユークリッドの傍の団員がぽつりとつぶやいた。

「ああ」

ユークリッドは答えはしたが、ため息のような生返事より他には出なかった。言葉にならない部分は脇の団員が全て代弁してくれた。そして

「お姫様も、綺麗だし」

団員は、もう一つ、どうしてもそうせずにはいられないことを口に出した。

「あんな人から『ありがとう』なんて言ってもらって、これが幸せって奴でしょうかね」

「ああ」

モイラは今、オルトと一緒に負傷兵の救護や新しい生活物資の配給にかかっている。パラシオンの家臣達は止めたようだが、例によってごねて結局加わっているようだ。

「いや、全く、誰に似られたのだか」

家臣が汗まじりにディートリヒに言った言葉が薄々聞こえてくる。


 ハイランドを退け、パラシオンを守ったことを祝う宴は、その夜、心尽しのもてなしで催された。とは言うものの、警戒は崩されていない。ハイランドを撃破した以上、オーガスタとの続いての衝突はもはや避けられない。ハイランドには二つの国を結ぶ街道がのびており、王都オーガスタとパラシオンは、この街道を経てしか行き来できないのである。今夜の宴の和やかな夜とほとんど同時に、ハイランドの城や砦には、各々を預けられた兵士達が厳しい夜を過ごしていた。

 ディートリヒは、ハイランドの住民から予想外の歓迎を受けたらしい。王都へ上納する金品やら、小国王自身の生活費やら、体面を繕うしわ寄せが民衆を締め付けていたという。資材の供出も、抵抗はなかったが、彼等の余りの痛ましさに必要以上は断わったと彼は話した。異教徒討伐からほとんど連続してのハイランド攻略。遠征軍の台所は決して豊かではない。それでも、ないよりましと不平をこぼさないロクスヴァの兵達にユークリッドたちは少しく感銘を受けていた。

 さて、たけなわの宴が、一瞬静まった。

「モイラいくら何でもそれは無茶だ!」

「いえ、その無理をまげてお願いします。ディートリヒ様、どうか、私を遠征軍にお加えください!」

軍装を解いていつもの華やかな衣装に着替えてたたずむモイラの後ろには、なき落とさんばかりに家臣達がすがりついている。

「姫様、もしものことがあったら、私め等は王にどう説明を…」

モイラはそれをわざと無視しているようだった。

「足手まといにはなりません。馬にも乗れます。兄に手ほどきを受けて、自分を守れる程度の剣も心得ています」

ディートリヒは「本当に、そんな無鉄砲なところは誰に似たものやら」と心ならず苦笑した、がすぐ神妙な顔に戻る。モイラも彼の微笑みが少し気にさわったが、努めて気にせず

「私、オーガスタに行って、直接兄に会いたいのです」

「それならば、なにも別に私達と行動を共にしなくても」

「いいえ。それはできません。ディートリヒ様やエルンスト様が、外交問題すれすれの所を構わず私の身勝手におつきあいして下さっているのに、その私が、それを知らぬ顔にパラシオン王女としてのうのうとオーガスタに入ることはできません。勿論、私の心づもりを、兄は喜ばないでしょうが…」

熱の入ったモイラの言葉が終わってから、やっとというように老いた家臣が口を挟んだ。

「姫様、姫様がそうなさるということは、パラシオンはオーガスタに対して謀反の気があるとのオーガスタの見解を認めることになるのですぞ!」

その口調は、たとえ相手が姫たりとも王の方針を歪めまいという気迫の満ちたものだった。しかし、モイラはその方を向いて、

「それでも良いのです。以前お兄様は、前の盟主様から、オーガスタの一部でなく、独立した一つの国としてパラシオンと付き合いたいと言われたそうです。お兄様は断わりましたそうです。でも、グスタフ王の御代になってから、そのお兄様の選択は間違っていたと思います。

だから、私がそうします。

今後パラシオンは、オーガスタの属国に甘んじません」

モイラの爆弾宣言に、座は沸き立つどころかすっかり凍り付いた。

「モイラ」

ディートリヒは、モイラの話しを聞いているうちに、すっかり険しい顔になっている。

「いいかげんにしろ。

アレックスから何の権限も与えられていない君に、今そこまで言う権利はない」

「でも」

「百歩譲ってアレックスがそういう考えであったとしても、それは口に出せぬこと。アレックスは言っていた。これは以前からの定め、そしてこれ以後も定め、オーガスタの国が続く限り永遠に、と。

君も知っているはずだ、モイラ。君が苟くも王女であるなら」

ディートリヒが指摘しようとしていたこと。それは、オーガスタとパラシオンとの建国以来の関係であった。


 「お忘れか、オーガスタ一世建国王が、今際の際、二世にその位を譲られるとき、広大なる国土を分け、その弟妹にも等しく与えられた。爾後オーガスタと小王国とは、常に兄弟のごとくあれ。建国王のこの御遺言を陛下はお忘れか」

 薄汚れ、形容できぬ悪臭の漂う地下牢に、大輪の花のようにアレックスは美しく囚われていた。グスタフは、二三日おきにアレックスのもとを訪れ、彼が盟主に平伏して、過去の無礼を詫びさせようとする責め苦が行われるのをにやりにやりと眺める。かたわらには酒瓶、そして女。二度として同じ顔が来ることはない。

 あるとき、それを咎めたアレックスに、もっていた瓶の酒を全て彼の顔にぶちまけてから

「お前はどうして、そう口うるさいのだ」

と尋ねると、アレックスは前のようなことをいった。

「ただ追従することだけが、兄弟のすることとは思いませぬ」

「小姑のようにいちいちうるさいのもお前にとって見れば兄弟愛の現われというのか」

「御意」

アレックスの態度は、両手を縛られ真っ黒な床に這いつくばる格好であるとはいえ、グスタフに対してこれ以上の慇懃さはなかった。しかし、グスタフにはただの無礼でしかなかった。

「時にアレックス」

それに対する不満は一応の所隠した上で、グスタフは改まる。

「妹のことは考えてくれたか」

「それはお断りしたはずです。盟主には、わが妹よりも優れた女性がたんとおられるではないですか。わざわざ田舎者が参上してお目を汚しても」

「妹本人はどう思っているのだ。お前の口からだけではわからぬ」

グスタフは控えていた書記に向かって顎をしゃくる。書記は、アレックスの前に羊皮紙と筆とを置いた。盟主の紋章が入っている。ここに書かれる事柄は、勅命に準じて扱われることを意味していた。

「パラシオンより妹を呼び寄せよ」

両手の戒めを解かれたが、アレックスはうなだれたままで筆に手を伸ばさなかった。天井から、地下水がしたたって、ぽつりと灰色のしみを作った。

 オーガスタ宮殿にモイラをあげることは、彼を地獄へと導いていくのにも等しいと、アレックスは考えていた。後宮の一室に閉じ込められ、グスタフの束の間の寵愛を受け、飽きればそのまま打ち捨てておかれるのだ。彼の回りの女共は、揃いも揃って貞操観念のぶち切れたはすっぱなものばかりで、生き馬の目を抜くようにグスタフの寵を争っている。気の休まるところなどあるはずもない。

 いや、何と悪口を尽くしても詮のないことである。

『俺は、モイラを手放したくないのだ』


 妹ができた日のあの言い様もない高揚感が忘れられない。両親にとっても、諦めかけていた時に生まれた大事な一人娘だったから、一人歩きがやっとできるような頃から、オーガスタの社交界でも超一流の折り紙付きの貴婦人に仕立て上げようと様々に心を砕かれていたのだが、実際の所、まだ学友も早い遊びたい盛りのモイラにとって、一番年が近いのも、距離的に近いのもアレックスだった。

 小さなモイラは、城の中庭に、名前もよくわからないが、春の盛りを告げる花が枝から滴り落ちそうになる、その朱鷺色の光がよく似合うお姫様だった。

「おにいさまおにいさま、かくれおにしましょ」

まだ言葉もしっかりしないのに、背伸びした呼び掛けで自分の手を引いていく後ろ姿、金色の髪に赤味のさした頬と唇が、未来を思わせた。

 その頃はまだ、何のやましさもなかったのだ。自ら動き、言葉を話す人形のように感じていた。彼女の午睡にずっと寄り添って、侍女達に変な顔をされたのも今ではいい思い出だ。

 寝物語に、ドラゴンと戦う勇敢な騎士の物語を語ると、半分眠い目をささやかな恐怖にしばたたかせて、

「おにいさま、わたしがねむるまでここにいてね、ゆめのなかにこわいドラゴンがでてきたら、きっとやっつけてね」

涙まで滲ませるその愛らしさ。

 それがどうしてこうなったか、思えばはっきりとはしない。

 六・七年前の話である。父先王はアレックスを王太子にたてる意向を固めた。それをオーガスタ宮殿の時の盟主…グスタフの父でもある…に報告しようと、王都まで上洛するその朝、アレックスは初めて、『オーガスタ宮殿作法典範』にあるとおりの、王太子の正装をして、玉座の間で、父から心構えなどを伝えられていた。今まで飾りだった、銀色のつかの剣の重みが、今までとは違う圧力をかけてくる。

「お前のことだから、私はあまり心配しておらぬがな」

と父は言った。

「だが常に、自分はつぎの国王だと言う自覚を持って、軽はずみな行動は慎むことだ。

 グスタフ殿下のようになってはいかん」

だが、父はすぐに顔をゆるめ、

「いつも、私と一緒に宮殿にあがった時と同じようにしておればよい」

と言う。そして、傍らの側近に

「モイラはまだ来ないのか?」

と訪ねた。

「はあ、王子が長いことお城を留守になさるということに、ただいまもぐずっておられるようで」

と側近は返す。

「やれやれ、もっと早い内に学友をつけさせるべきだったかな。すこし甘くし過ぎたか」

父はため息をついたが、実はそんなことには全然思いを馳せていない。そういうことは母王妃が誰にも手を出させず行っていることで、自分にできることは狩りで城を空けては帰ってからやれ父の威厳がどうの民の負担がどうのと妻に絞られるだけのようだ。アレックスは笑うに笑えず俯く。

 そこに、扉の開く少し軋んだ音がする。

「誰だ?」

父が音に向かって誰何した。だが返事はなく、開いた扉からは見なれた顔がのぞく。

「おお、モイラ起きたのか」

モイラはうかがうように近づきながら、父と自分とを代わる代わるみた。

 ぴたりと視線があった。モイラの顔は、一瞬未知のものを見るような恐れを含んだ表情をした。だが、目の前の人物がいつものおにいさまだとわかると、

「おにいさま」

と手を差し伸べた。抱き上げてほしいようだったがアレックスはその手を取らなかった。先に父がモイラを抱き上げてしまったからもあるが、二人の間に何か大きな隔たりがあって、進もうとするその肩を捕まれたようなな思いがしたのだ。

「おお、大きくなったなあ」

父は娘でじゃれている。

「何か欲しいものはあるか?」

「なにもいらないから、お兄様と一緒に早く帰ってきて下さいましね、お父様」

「おやおや、私よりアレックスとは嫌われたものだ」

モイラは父にほおずりする。アレックスはそれがすこし羨ましかった。

「長く滞在するわけではない。アレックスの立太子の謁見が終わればすぐ返ってくるのだ」

二人の様子を見つつ、父は笑って、二人を招き寄せて兄妹のしばしの別れの名残を惜しませたあと、アレックスをともなってオーガスタへと発っていった。


 だが、立太子の謁見を終えて帰る道で、父は倒れ、そのまま帰らぬ人になった。

 母もそのために気を病んで、実家に戻ったがやはり亡くなった。おそらくは自ら…

 決まり通りの喪の期間をおえてから、アレックスは即位した。モイラはしばらく何の手もつかず涙に暮れていたが、アレックスが手厚くなだめ落ち着かせたこともあって、すぐにそれまでの朗らかなモイラに戻っていた。

 それだけでなく、この精神ストレスが、モイラの成長に香辛料のように何かの変化を与えたようなのだ。

 アレックスの即位から一二年、もうすこし経った頃だったか、ある時、政務の空いた時間に、モイラの相手をしようとその部屋を訪れた時のことである。

 すでに開いた扉を叩く。

「モイラ?」

モイラはそばに誰もおかずに、窓の外を見遣っていた。城の塔が一番高く見晴らしもいいのだが、そんな場所に姫様一人で上らせるわけにはいかないから、そんな時モイラはややふて腐れながら自分の部屋で我慢するのだ。

「お兄様」

城中探しても、自分を名前で呼んでくれるのは兄ただ一人だ、その声に振り返った拍子に、まつげで耐えていた涙が落ちたような気がした。

「どうした?」

思わず小走りになって、顔を覗き込もうとするが、モイラは身を捻った。

「母上達のことを思い出したのか?」

「…」

モイラは返事をしなかった。ただもう涙も隠さずに流すだけだ。それでも彼女の心は察してあまりある。もう声を上げて泣いたりしない年頃になったと言う実感も相まって、アレックス本人も鼻の中がつんとしてきた。

 でも、彼女の肩を抱けなかった。理性が鋭い緊張になって体を縛り上げた。

 そして。

「大丈夫よ、お兄様がいて下さるもの」

指で涙を拭い払い、上げた彼女の淡いほほえみの顔、それがずっと、アレックスの一番奥底に広がっている。


 とにかく。

 歪んだ兄妹愛だと笑わば笑え。父が、「実はモイラは、私の古い友人の忘れ形見で」などと言い出すのではないかと少しだけ本気で期待して、身に凝る切なさに寝るに寝られない夜を過ごしたことさえある。

 それが…

「どうした? オーガスタに弓を引くような物騒な娘はここにはよこせぬか」

幽閉の知らせを聞いてモイラがどういう行動をとったのか、話には聞いている。オーガスタ風に歪んだ部分は話半分に聞いておくにしても、事態は、ますます彼の望まぬほうに落ちていく。

ながい沈黙がずっと続いた。それを破ったのは、同伴してきた女性の声だった。

「王様、早くこんな場所は出ましょうよ。あたし鼻がバカになってしまいそう」

「ん?」

グスタフは甘えた声で女性を見る。

「そうだな。帰るとするか」

二人は踵を返した。そして、階段から姿が消えるまで、アレックスを振り返らなかった。代わりに、鼻にかかった黄色い声が、

「アレックス王もかたなしね、あんなゴミみたいな場所で平気でいるなんて」

といつまでも壁に残っている。


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