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第5話・森の中で(1)

 ブールを説得するには、予想より時間がかかった。なまじブール王が人間が出来たほうだったので、為政者としての正道とオーガスタへの忠義に板挟まれ、決断を下すのに時間がかかったというものだ。エルンストはそれに対して、「出兵を取り止めさえしてくれれば、当然こちらにはそれ以上ブールと敵対する理由もないし、オーガスタが、決断に対し、軍事的、政治的、いかなる手段によって糾弾しようとも、その保護の手を差し伸べることにやぶさかではない」との旨をもって説得し、成功したのだった。ひとまず、ブール・オーガスタ国境の砦を警備するために人を募ったところ、過日ユークリッドに敗北を喫したあの騎士が進んで申し出、思い立ったら吉日とパラシオンを旅立った。

 アレックスが囚われてから、実に一年に及ぶ月日がたっていた。

「一年か。思ったより長引きそうだな」

「アレックスは大丈夫だろうか…牢暮しが長い。体調を崩していなければいいが」

「早く解放させてあげたいわ…」

ディートリヒ・エルンスト・オルトの、軍議もかねたくつろぎの一時が、沈黙に覆われた。それに邪魔をしているモイラには、沈黙の果てしない重さが、自分を責めているように思えてならなかった。

「私、浅はかでしたでしょうか」

「え?」

「オーガスタから勅命が来たときに、従っていれば、兄にも、ここにいる皆様にも、こんな御心配をかけずにすんだはず…」

「おいおい、待ってくれよ」

ディートリヒはこの言葉に目を丸くした。オルトもとなりのモイラの肩を抱く。

「それでは本末転倒よ。あなたにそうしてほしくなかったから、アレックス樣は囚われることを選んだのよ」

そして、黙っているエルンストに言う。

「あなたも何か言ってよ」

「…モイラ、今君が悩んだところで、答えは出ないぞ」

「でも」

「その時のアレックスの、あの時の君の、そして今この時の我々の、決断が果たして正しいものなのか、今すぐにはその是非はわからない。はるか先…我々が書物のなかの人物になるまで」

「なにそれ」

エルンストの物言いがあまりにもよくわからなすぎたので、オルトは「それじゃ何の励ましにもならないわ」とでも言いたげに眉を潜めた。

「今の我々には、いちいち決断の是非にこだわる時間はないと言うことさ。見ずから下した判断の正当性を模索しながら進むしかない。振り返る余裕はないのだよ」

エルンストの表情は微笑んでいた。が、瞳は決して笑ってはいなかった。


 ロクスヴァ遠征軍は急速に規模を拡大していた。ロクスヴァ、パラシオン、ハイランド、そしてブランデル。各国の正規兵に民衆からの義勇兵や傭兵が加わって、パラシオンの城下町では養いきれなくなっていた。ブランデルからの物資の補給があるとはいえ、溢れる人間は騒動もおきやすい。ちょうど、ネリノー小王国に動きがあると言うことで、本格的な交戦の前に、オーガスタにより近く広いハイランドに本隊を移すことになった。

 モイラが、これをきっかけに正式に遠征軍に加入したいと申し出て、結局救護・補給部隊の将校として動いてもらうことになってしまった。例によって家臣たちは彼女を泣いて止めたが、パラシオン存亡の聞きを救ってくれた相手に対して、その償いを金品ですませるということは余りにも厚顔かつ無礼であるとの主張に根負けした。

 始め遠征軍は、ネリノーに対しても平和的に激突を回避させられないかと画策した。だが、ネリノーを偵察してきた斥候の報告は厳しいものだった。

「ネリノー王女がオーガスタ後宮に上がっていて、今の所寵愛は随一とのことです。形は多少違いますが、オーガスタに忠誠篤いのはパラシオンに劣らず、グスタフ王も頼りにして、オーガスタ王都への軍隊の通過許可も与え、そして軍備への協力も惜しんでいないそうです」

「裏での小細工は通用しないのだな。ネリノー王は軍略家だというし…土地感もあるだろう…苦しいぞ」

ディートリヒが唸った。

「しかし、ここでネリノーを打破しておかなければ、アレックスを助け出すどころかオーガスタに入ることすら出来ない」

そうエルンストが言うのを聞いているのかいないのか、斥候は地図を広げた。

「ハイランドのオーガスタとの国境は、ハイランドの全国境の三分の一以上です。この一帯には森が多く、守るには適していますが攻めるには難しいと思われます」

「森を抜けた向こう側にまでいってしまうと、退路をたたれて袋叩きに遭う可能性が大きいな」

彼等にとって余りいい思いでがない森が、地図を緑色に染めているのを苦々しく見つめていた所に、別の斥候が駆けこんできた。

「ネリノーが動き始めています。国境沿いの森に入るものと見られます」

情報によれば、部隊は三つにわかれて、ハイランド城に向かって正面と東西の三手にわかれて進軍しているという。

「よし。我々も三部隊に展開する。これまでの戦いは手ぬるく感じることだろう。強敵だ。心してかかってくれ」

ディートリヒは、解散する将校達に、そう告げた。


そしてユークリッドは、西から侵入しつつあるネリノー軍に対するために、国境に向かっていた。「新フィアナ騎士団」にとっても、一年ぶりの実戦であった。彼等は、エルンストを守護するブランデル正規軍の後ろを、馬の使えない傭兵や救護・補給の非戦闘員や物資を乗せた馬車数台を取り囲んでいる。

「また森だ」

誰にも聞こえないほどの小声で、ユークリッドはつぶやいていた。進んでいるのは森を走る街道である。普段なら旅人が行き来しているはずのこの広くはない道も、今が非常時だということを思い知らせるように全く人通りがない。しかも、ひしめきあう木の根は一部は地面を不規則に押し上げ、木の根そのものが露出している場所すらあった。主人の不安を、彼が乗っている馬も敏感に感じているようで、その機嫌はあまりよいとは言えない。まだ、今のうちはいい、実戦で馬の気が変って落馬したら一貫の終わりなのだ。ユークリッドはそれを知っている。ジェイソン卿は、退却の途中、敵におわれる恐怖とおぼつかぬ足元にパニックをおこした馬に振り落とされたのだ。彼を取り巻いていた一人のユークリッドはそれからの一部始終を見ている。馬の首を返して、彼を助けようと手綱を引いたはいいが、彼の馬も、その場を走り去ることしか考えていなかった。やっと振り返ると、二三人の異教徒の陰に、ジェイソン卿の姿が沈んでいくのが見えた。

相手が、ネリノー兵に変っただけで、あれは自分の明日の姿なのだ…

「大丈夫ですか?」

呼びかけに我に返れば、自分は隊列から少し遅れて、隣には心配そうな様子のモイラがいた。

「朝の軍議から顔色がよくないみたいで、心配してましたの…どこか痛むのでしたら、お薬…」

身をそらせて鞍袋を探ろうとするモイラを彼は押しとどめた。

「俺は平気です。王女、お気持ちだけ、ありがたく」

「それとも、ジェイソン卿のことをお考えでしたの?」

ユークリッドはそれをも否定しようとしたが、痩せ我慢は詮なしと思い直し、声なく頷いた。

「オルトリンデ様から聞きました。卿のことも、ディートリヒ様にとっては、もう一人のお父様みたいな方だったと聞いています。

貴方は、卿を見殺しにしたと御自分を苛みながら、それでもパラシオンを救ってくださいました。そして町を作り直すことに心を砕いて下さったこと…全て、卿の心通りだったと思います。

…本当に、ありがとうございました」

モイラが頭を下げた。王女らしからぬ態度に、ユークリッドは返す言葉がしばらく見つからなかった。ただ、並走する馬上の王女を見ていることしかできなかった。

 他人のことを考える暇もないほど、彼女のこの一年はめまぐるしく過ぎたはずなのだ。にもかかわらず、パラシオンの解放された朝に始めて現われた時から、その容色には一片たりとも陰りを見せていないのである。かえって、その忙しい一年の間に、美しさに深みが加わったように思える。城にいれば王女らしく結い上げている髪も、一度馬上の人となればさわやかに風に流す。兄との再会の祈りを込めて、ハサミをいれてないというが確かに、少し伸びて見えた。

 この様な妹をもてば、たとえそれが避けられぬ死出の旅路であっても赴きにくかろう。ユークリッドは、近くて遠い場所にいる、彼女の兄というパラシオン王に心から同情した。

 が、その同情の言葉も、勿論、王女の美貌を賞賛する言葉も、彼の口からは出ない。見つめたままで、自分の言葉にたいして、相手がなかなか返答しないモイラのいぶかしげな表情に、再び我に返った。今から敵と刃を交えようとしているときに、あらぬ心配をしている自分が急に情けなく恥ずかしくなった。

「…王女ともあろうお方が、一介の騎士に対してそう簡単に頭をお下げになるものではありません」

それだけ言って、もといた場所に馬を急がせた。


 そのユークリッドも、一年のあいだには、エルンストの荷物「新フィアナ騎士団」の団長であると同時に、ロクスヴァ遠征軍の名将として名を連ねられるようになっていた。後になって、トーナメントの一件に際して、ディートリヒが解説を加えてくれたことも手伝って、決して下馬せぬ勢いに満ちる彼は、「槍騎士」とだけ言っても彼のことをさすまでになっていた。

 そんな彼が、森での戦闘に及び腰になっていることが知られれば、笑い話の種ですむ話ではない。だが現に、彼の脳裏には、今にも地面の木の根が獣のように伸び上がり、彼と彼の馬とを絡めとる錯覚が、ふるってもふるっても離れない。

「逃げたい」

ぎっと目と歯を噛みしばった時、敵の矢が、ひゅ、とその頬をかすめた。


 恐れていた状況になってしまった。味方も弓を取り出したり、徒歩の傭兵が飛び出したりして応戦したが、不意を打たれたことで統率も乱れがちだ。群がってくる敵兵の包囲から抜け出そうにしても、戦いは四方木暗い森の中で、翻弄される間に方向感覚さえ狂いそうである。それでも、ユークリッドは木々の間の広い所を選び、槍を木に引っかからぬよう柄を短く持ち直し、向かってくる騎兵の胸や喉を狙って一撃のもとに倒しながら、人の切れたすきに回りを見回すと、いつの間にか、自分が戦いの中心から離されていたのに気がついた。武器の触れ合う鋭い金属音は、その時もやんではいなかったが、遠くないにしてもその距離と方向は、微妙なこだまで判然としない。そこからぼちぼちと、敵の誰かが、「ブランデルの槍騎士だな!」と言っていたことを思いだし、これが作戦であったかと悟った。

「有名税か」

苦々しくつぶやきながら、戦いの中心を探そうと、馬の首を巡らしかけたとき、

「きゃ!」

と甲高い声が響いて、やっと彼は自分の位置を悟った。後退させた非戦闘員のすぐ近く。そして、声の主は王女モイラのものに他ならない。

「王…」

女! と口にしかけたが、それは危険すぎた。彼女の正体が知れたら最悪の場合、彼女の首がグスタフの元に届くという場合もある。自分の野生のカンだけを頼りに、倒した騎兵の体を馬で越えていく。悲鳴限り、声がしないのも気にかかる。もう足元が恐いことなど忘れていた。


 果たして、モイラが追い詰められていた。モイラの馬は、大木にもたれかかるようにしている。片方の前足を気にしているようで、おそらく折ったのだろう。モイラ本人はその馬を庇うようにうずくまり、その回りを数人の騎兵が囲んでいた。正規軍も傭兵もいたが、彼等に漂う雰囲気は一様に、恩賞名誉もさることながら、目の前のこの女騎士という珍品をどう料理してやろうかとただならない。彼等はただモイラを取り囲んでいるだけだったが、それで十分彼女の恐怖はあおられた。ユークリッドは文字どおり、馬に拍車をかけた。

 そして近づきさま、彼等の背骨をまとめて真一文字に、振り掲げた槍で払い崩した。



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