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第6話・森の中で(2)

 モイラには、面前で何が起こっていたのかわからなかった。馬車を護衛しながら後退する途中で、馬が大木の根に引っかかって足を痛めたようで、下馬して診ていたら、いつの間にか背後に敵兵が迫っていた。悲鳴はあげたが、それきりすくんでしまった。震える足を庇うように地面にくずおれ、固まる彼女に敵兵の輪が狭まる。自分がどうなろうとしているのか、いやどうされようとしているのか、数日来に親しくなった女傭兵の話からわかったような気がした。悪い夢であってほしくても、生憎現実であった。と、自分を呼ぶ声がして、息を吸い吐く間に、目の前の騎兵が急にくずおれて、馬がてんでに暴走を始める。駆けつけた騎士は槍を構え直し、お楽しみの一時を邪魔された敵の傭兵と対峙する。一合、二合、と刃の触れる音がしたが、相手が槍の石突きでしたたかに左の胸を突かれ、息をつまらせながら走り去っていく。他も、難無く利き腕をくじかれて退散した。


 木もれ日がモイラには逆光になって、その騎士が誰であるかわからなかった。思い出がよみがえった。真似して登った木から降りられなくなったとき、森についていって父の猟犬ににからかわれたとき、泣きべそをかく彼女を抱き上げてくれた手。しかし、今差し伸べられた手には懐かしい暖かさはなかった。太陽を戴いた黄金の髪ではなく、

「あ」

限りなく濃い青の光沢を持った髪が、自分の手をとったまま放心状態のモイラを心配そうに覗き込んでいた。

「お怪我はありませんか」

ユークリッドの落ちついた声が返ってくる。急速に我に返った。

「はい。私は。でも…」

馬を見やった。馬はすでに地面にへたり込んでいる。彼は下馬しその足の様子を暫ししげしげと眺めた後で、馬の装甲と鞍と鞍袋を外して、装甲と鞍を捨て置いて鞍袋を自分の鞍に取り付け始めた。そしてモイラの手をとりその馬に乗せた後で、倒された主人を不思議そうに眺める敵兵の馬に、飛び乗った。

「まだ戦闘が続いております。俺はこのままエルンスト様に合流いたします。すぐに後退させた部隊とは合流できるでしょう。伏兵にはくれぐれもご注意ください」

少し早口にそう告げて、ユークリッドは馬の首を返させてその尻をたたいた。腰が急に引っぱられて、モイラはしがみつきながら振り向く。取り残された馬は、主人が去ってゆくのを名残惜しそうに見つめている。ユークリッドの背中は振り向かず木立の間に消えてゆく。

「ごめんなさい。ごめんなさいね」

残される馬の目がつぶらに光って、寂しそうに鼻を鳴らした。モイラは溢れる涙を拭いながら離れていく。釈然とはしなかった。


 後続部隊はその後再び移動して、夕方少し前に前線と合流した。負傷兵は予想のほか多く、モイラと救護の尼僧たちは天幕の中を右往左往する。だが予定の場所に野営が張れしばらく拠点になることになっていたから、明日からの敵との接触にも余り影響はないようだ。

 ユークリッドも、あの不意打ちの傷が疼いたので、救護の天幕で治療を受けていた。と、そこにモイラが近づいてくる。彼女は礼をとって立ち上がった救護員に

「しばらくさがっていてください。後は私が」

と言う。彼等の顔を、きっと曲解しただろうなと、ユークリッドは思いながら見送った。もくもくと治療をおえたあと、モイラは

「どうしてあの時、馬をお見捨てになりましたの?」

と言った。あれは先年兄王が誕生日に送ってくれた宝物の一つだったのに、と戸板に水の説明をして、

「前にも、他の馬が足を折ったときには、ちゃんと手当して、直しましたわ。どうして…」

その間にも、モイラは見捨てられた馬に同情の涙をせきかねた。ユークリッドもすまなそうな顔をしたが、今のモイラにはただの仏頂面としか見えなかっただろう。とにかく彼は弁解した。

「非常時ゆえ、ああするより方法はありませんでした。手負いの馬は戦闘の足手まとい…命にもかかわります。あのままあの場所におとどまりになれば、最悪の事態ともなりかねませんでした。

どうか、御理解ください」

モイラにはその顔も主張も腹に据えかねた。揚げ足をとる。

「それもジェイソン卿ならそうすると?」

「…」

ユークリッドは口をつぐんだ。今の彼女ににわかにそれを理解せよとても無理だと思われた。

「わかりました。よくわかりました」

なにも言わぬユークリッドを上目づかいに一瞥して、モイラはつと立ち上がり、天幕の帳を荒々しくはねのけて出て行った。


 翌日に向けての打ち合わせのとき、いつになく身の入っていなさそうなユークリッドを見て、エルンストは

「傷が痛むのか?」

と尋ねた。ユークリッドは一瞬間を置いてから

「は、それでよいと思います」

と返した。

「そうじゃなくて… 傷のせいでだるいなら無理しなくてもいいのだぞ」

「滅相もない。こんな傷」

エルンストは、しゃっきり背筋を伸ばしたユークリッドを楽しそうに見ている。

「先刻、お前とモイラが語りこんでたと言ってるのがいてな…、邪推していいか?」

ユークリッドは茶目っ気たっぷりのエルンストの笑顔をうるさそうに見た後、かくかくしかじかと怪我した馬と天幕での会話を話した。

「お耳汚しついでに尋ねたいのですが、俺のしたことは間違っていたでしょうか」

「一武人がとった行動としてはまあ妥当だろうよ。騎士が馬を失うのは恥だからな」

ユークリッドは少し緩んだ顔で

「俺は、その場その時で最良と思われる行動をとったつもりでいます。本当に、王女の馬をその場から動かす余裕はなかったのです。俺もエルンスト様と合流しなければなりませんでしたし、王女にも非戦闘員を守る役目がございますし…」

しかし淡々と抑揚なく言う。

「きっと王女は俺を人でなしと思ってらっしゃると思います。今日のお顔はそんな感じがします」

エルンストはうんうんと頷きながら彼の話を聞いた。その後、

「しかし、モイラに武人としての機微を求めるのはどだい無理だろう。彼女の職業はあくまで王女だ」

と言う。

「それにしても」

そして笑う。

「お前も女の顔色を気にするようになったか」

「茶化さないで下さい。味方どうしで不和は士気の乱れになります」

力説するユークリッドの顔を、エルンストは値踏みするように、それこそ穴があくほどに、じっと見つめた。そして、やおら口を開いた。

「ユークリッド、お前、モイラをどう思う?」

「はい?」

ユークリッドはすぐには質問の真意をはかりかねた。わかってから耳まで赤面した。

「王子、滅多なことをおっしゃらないで下さい! 王女に失礼ではありませんか!」

「答えていないぞ。好きか? 嫌いか?」

「何でそんなことをお聞きになるのです?」

「出会って一年、フィアナの奴らにはいれあげてるのが多いからな。お前はどうなのか知りたくなっただけだ」

「美しく、しかも賢い方だとは、みな思っているように思っていることは認めます。ですが、百歩譲って、俺がそうだとしても、王女にとってはご迷惑なはなしではないですか?」

「そうか?」

「それよりは、ディートリヒ公子とお引き合わせしたほうが」

とたん、エルンストは華やいだ顔になる。

「俺は、お前に、モイラと一緒になりたいかとまで聞いた覚えなんかないぞ」

赤面のまま、自分の発言に唖然としたユークリッドの差し向かいで、彼は呵々大笑する。

「ひっかかったな。しかし、見上げた堅物ぶりだよ」

しばらくその笑いは止まらなく、ユークリッドは気を悪くした。

「王子」

「いや、すまない。こんなつもりはなかったのだが」

と言いながら、エルンストは痙攣したような声なき笑いを続ける。ユークリッドは、努めて気にせぬようにしてきたことをあげつらわれてすこしく憮然としていた。

 しかし、認めなければならない。実の所、うずくまって自分を見上げる王女の顔は舞い上がるぐらい美しかった。「美しい」という言葉以外に彼女をたたえる形容を知らないことがもどかしい。そして、こんなことを思わせる、自分を突き上げるものについても、未曾有のことだけに戸惑った。昔オルトリンデ様を初めて見たときそんなことを感じた気もしたが、今の方がもっと強烈だ。とにかく、そんな間にも、急に何かが溢れ出す様な感じが胸のうちに繰り返されて、紅潮もすぐにはおさまりそうにない。

 ようやく笑いの収まったエルンストが、書類をまとめ始めた。

「ともかく、ディートリヒに関しちゃ、無理だな。あいつはそこら辺の娘以上に幻想的だ。いつかどこかの町や森の中で運命の出会いがあると信じてる」

求めているのはあるいはイバラ姫、とつぶやきながら、エルンストは真顔になって地図を丸めた。

「ユークリッド、もういい。作戦は明日の朝にもう一度伝える。お前は賢いからすぐ理解してくれるはずだ」

「…痛み入ります」

「ご苦労だった。休んでくれ」

「はい」

立ち上がって、退室の礼をとったユークリッドに、エルンストはまた言った。

「そうだユークリッド。密命を与えよう」

「は」

密命と聞いて、反射的に彼の背筋がまた伸びる。

「…モイラを守れ。本来彼女を守るべきパラシオンの兵は少ない。俺は『新フィアナ』をその代替として、人的に増強させるつもりだ。

 それに、お前には、モイラにつり合うべき何かがある。俺にもまだ、それがなんなのかはわからん。だが、彼女と結ばれるべきは、グスタフでも、ディートリヒでもない。他の有象無象なんぞもってのほか、きっと、お前だけだ」


 その後で、エルンストは、モイラのいる救護の天幕を訪ねた。

「ユークリッドを恨まないでやってくれ。彼は彼でよかれと思ったのだ」

モイラは用具の手入れをしている。ユークリッドが語ったことをほぼそのまま話すエルンストの横で、これまで彼女は、口を挟まず、じっと聞いていた。彼の言葉が一段落してから、

「…私も反省しています。ここに来た以上、それぐらいの覚悟はしていたはずなのに…」

消え入るような声で言う。

「敵兵に囲まれて、本当に恐かった。それを助けて下さったのに、私…」

「うん」

「ここに戻って、あの人の話を聞いたずっと後で、本当にそうだったと思ったの。森のどこで戦いが起こっているのかわからないときに、怪我した馬にまで気を回さなくちゃいけないなんて… きっと、我がままなお姫様だと思ったでしょうにね」

「ユークリッドは君をわからずやだとは思っていないよ。ただ、自分の言ったことが正確に伝わらなかったことが気にかかったようだ。君も、まず自分に何の怪我もないのだから、うまく自衛したと自分を褒めるべきだよ」

モイラは「そうかしら?」と力なく答えた。そして向き直り、

「エルンスト様、私、何をするべき?」

と改まった。エルンストは目を丸くした。

「これまで通りにこの隊の救護と補給を」

「いえ、それより他に。ただがむしゃらについてきて、それだけしか出来ないなんて、もどかしい…」

モイラの青い目は灯りを反射してきらきらと金色に輝く。すなわち彼女の意欲の表われだった。そして、エルンストの言葉は以外だった。

「だが、俺は君が求めるような答えはもっていない。君はもう、重大な仕事を持っているんだ」

「え?」

「グスタフを退け、アレックスを解放して、彼の名誉を再び取り戻すために集った俺たちの盟主なんだよ。君は。ディートリヒも、俺も、オルトも、君が、アレックスが、どういう人間かわかっているからここにいる。それをわかってほしい」

「そうだったんですか」

モイラはやっと笑みをこぼした。

「わかったなら、もう辛気くさい顔はしないことだ。君が沈んでいたら士気にかかわる。フィアナのやつらは君の顔色に一喜一憂するからな」

「ま」

そして二人はほがらかに笑う。が、すぐエルンストは神妙になって

「そうだな。あえて俺が、君になすべきことを提案するというのなら、『君はいつまでもアレックスの妹ではいられない』ことをわかってほしいところかな」

「?」

モイラはきょとん、としたが、にわかに青ざめて、

「お兄様、まさか…!」

そして、つかみかからん勢いで差し迫ってくるのを、エルンストは肩をおさえなだめる。

「それを止めるのが俺達の役目だろう!?」

「ではどういうことなんです!」

「アレックスにとっては、君はいつまでも小さなモイラであるかもしれないが、君自身がその心に従う理由はどこにもないのだ。君はアレックスの人形じゃない」

「おっしゃることがわかりません」

モイラは冷や汗すら流し始める。今まで考えもしなかったことを突きつけられて、明らかにうろたえている。そんなモイラにエルンストは変なことを言った。

「身構えたら答えは見えないよ。今は忘れていてもいい」

それを聞いて、モイラにやっと血の色が戻ってくる。

「後は当直に任せて、もう休んだほうがいい。…この辺りは野犬や狼も出るらしい。馬は諦めよう」

「…はい」

モイラは素直に頷いた。それ以上彼に突っ込んでものを聞いてくることもない。彼女は用具を片付けながら、

「エルンスト様、私、明日はここにいればよろしいのね」

と聞いてくる。

「ああ。予想以上に安静の必要な怪我人が多いし、なにより君は馬を亡くしてしまったからね。ここでそういう奴等の面倒を見てくれると助かる」

「…私が言いすぎていたことを謝っていたとお伝えくださいましね、きっと」

エルンストは数瞬思案顔をして「いいよ」と返した。

「だが、いつかは必ず君がもう一度言うべきだな。俺は伝書鳩じゃないんだ」

「はい」

「アレックスはいい教育をしたな。謝れるお姫様なんてそうそういやしないぜ」

そう笑いながらエルンストは帰っていく。


 時を同じくして、ハイランドの本陣から、ちょうどエルンスト隊の野営付近にある開拓村に、近ごろ野盗が出没するようなので、物資等の保管は厳重にせよとの旨を使える早馬が向かっていた。が、それは一足遅かった。


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