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第16話・甘言蜜の如く

 それでも、モイラの最も奥で彼女を縛るものについては、ユークリッド所持のところの錠をもってしても開けることはできなかったのである。

 陽気がだんだんとよくなり、外部との接触がより容易になったということが、誰の目にもはっきりして来たからこそ、モイラは一旦パラシオンに戻ってみたいと思っていた。

「ここが嫌になったんじゃないのよ」

某日、このように、エルンスト達に訴えるモイラの姿があった。モイラは、先日の夢の内容を説明して、

「私もう、お兄様の事が心配なの。なにかお辛いことがパラシオンで起こっているんじゃないのかしらって、そう思うの」

「俺に来ている報告を受けている限り、そう大層なことは起こってはいないようだがなぁ」

椅子にかけたエルンストは顎を撫でながらモイラを見上げる。

「君の思い過ごしじゃないのかい?」

「思い過ごしであっても無くても、パラシオンに一度帰りたい。お城にいるみんなにあいたいわ」

いいでしょ? モイラはエルンストの顔を覗き込んで、首をかしげて哀願の体勢になる。

「そういわれてもなあ」

エルンストは頭をかいた。これを許してしまっては、パラシオン合議制が浮き足立つだろうことは必至であった。モイラの帰郷は、まだオーガスタに対抗できるまでの回復を見せていない革命分子達にむち打つことになる。確かに意気はあがるだろうが、それに物的人的な実力はまだ追いついていないのが実情だ。

「アレックスがいるとは限らないぞ?」

「私が帰ればお兄様も絶対いらっしゃるわ」

エルンストとオルトは顔を見合わせた。この姫様は言い出したらきかないのは長い付き合いからわかっている。だが今回に限っては、頑としてそれを許可するわけには行かなかった。

「駄目だ」

エルンストはすげなく明後日の方向を見た。

「パラシオンはアレックスが宮殿から動けないためにごたごたしている。君が帰ったら余計なお荷物が増えるだけだ」

「…」

モイラは露骨に眉をひそめ、膨れた。そして向き直る。

「オルトねえ様、いいでしょ?」

「気持ちはわかるけれど、エルンストの言う通りだわ」

「そんな」

「ねえモイラ、本当はやっぱりディアドリーが飽きたんでしょ? 私達と一緒にブランデルの王宮に行く? お義父様があなたに会いたがっているの」

「私パラシオンに帰りたいの!」

「わからずや!」

とうとうエルンストの雷が落ちる。

「君はアレックスがいかに身を斬る思いでここに君を預けたのかわかってない! そうやって人の気持ちを思いやれないなんて、人間として質が悪いぞ!」

モイラはくっと唇をかんだ。

「俺は説教は好きじゃないからこれ以上は言わない。パラシオンに帰ることには反対だ。いいな」

しゃくりあげ始めるモイラを見もせずに、エルンストは執務室を出ていく。それをオルトが追い掛ける。


 人間の習性として、禁止されることに限って食指が動くと言うことがある。

 ただ、今度のモイラのことは、述べたように、情勢についてもさりながら、モイラ精神健康の面から考えても、絶対に賛成できないことだった。

「可哀相なことをしたが、ああとでも言わなきゃなあ」

「姫様はまだ、兄上様の事を受け入れるにはもろいですね」

「ナヴィユ、モイラは?」

「しばらくお部屋で殿下に対して怨み節を唸られてから、今は泣き疲れて眠ってしまわれました」

「俺も悪役か」

エルンストがぐったりとする。

「しかしもう、限界かな。半年近くもここにいるんだ」

「付かぬ事をお伺いますが、殿下、パラシオンでは姫様を受け入れられる体勢になっているのですか?」

「どうしてそんなことを聞く?」

「今後の善後策を講じる参考までに」

「出来てるかよ。それでモイラが帰ってくればそれこそ、急進派の思うつぼだよ。もちろん、モイラを新しい革命のシンボルとしてかかげることは、ヒュバートたち穏健派も考えているさ。急進派と違って、こっちは、ちゃんとモイラとも意志の疎通を図りたいわけだ。

 ブランデルと協定を取り付けた時のモイラのあの態度を見てるから、そうすることがどんなにパラシオンにとって有用か、穏健派はよくわかっている」

存在だけじゃ期待に答えられないこともあるわけだ。エルンストはため息をついた。

「アレックスがもういないということが今の彼女に納得できるというなら、俺はパラシオンに帰ることに反対なんてしないよ」


 この時期に至って、ユークリッドたちフィアナの首脳達も神経を逆向きにしていた。パラシオン急進派に迎合する面々が、モイラの近くによらないように警戒するようになる。

「あまり気分のいいもんじゃないですけどね、人が人を監視するなんて」

ベンヤミーノ(団長代理)がため息をついた。

 前々からユークリッド達を悩ませている面々と言うものは、パラシオンに協力するため、ブランデルから派遣されて来た、平民からなる正規軍から移籍して来たものである。戦力的に充実させるねらいには成功したものの、くだんの面々は、平民から異例の処分で貴族身分を獲得できたユークリッドの尻馬にのろうとしているものばかりだという、古参の見解がある。ユークリッドとしては、そういうふうに自分が見られているのは心外であった。エルンストに認められて、その目的に近付くはずが、当の主人はそれを認めてくれないのが、彼らには計算外であり、えこひいきではないかという子供じみた疎外感も相まって、この面々は未だ、ディアドリーの空気にも馴染まないようである。

「そりゃ、俺は結成当時からの、団長とはツウカアの仲ですから、団長の考えは良くわかっているつもりですよ」

ベンヤミーノはにっと笑って、あいかわらず仏頂面のユークリッドを見た。

「気味が悪いな。何か言いたいことでもあるのか?」

「いえいえ、これは団長と手取り合っていきたいと言う意思表示だと思って下さい。

 とにかく今は、あの連中は警戒を続ける必要があります」

「そうしてくれ。俺が言うといろいろ波風が立つだろうから」

「『目標』にすげなく扱われたら、物わかりが悪すぎる場合、可愛さ余って憎さ百倍てなことになるとも限りませんし」

「うむ」

ベンヤミーノがフィアナの運営に頭を悩ましているそばで、ユークリッドはいつにない生返事をして天を仰いだ。その半開きの口を横で眺めて、ベンヤミーノはくっくっと笑う。

「団長、ここは俺に任せて、姫様の所にいて差し上げてくださいよ」

「え?」

「顔に書いてあるんですよ」

「…」

「大丈夫です。俺はこれでも頭の風通しはいい方です。姫様との事は祝福しますよ。それに…」

言い差して、ベンヤミーノは、軽い動きで空を差した。例の面々が歩みを寄せてくる。ベンヤミーノを押し退けて、くつろぐユークリッドの椅子を取り囲むように立ちはだかり、はなからあまりいい印象を与えたいようではなかった。

「団長、きっちりと説明をされたい」

一人が口を開いた。

「このごろモイラ王女には、パラシオンへ御帰還のお心づもりを暖めておられるとの由、何ゆえそのお心を組んで差し上げず、このへき地にお留めを強いているのか」

「そうはできぬとの殿下の御意向、それに逆らう事はできない」

ユークリッドは得意の仏頂面で答える。

「いかに王女が真にはご不例ではないとしても、パラシオンにおかれての重責を果たされるには不十分な状態でおられる。私もそう思うから、お前達の主張は団長として容れることはできない」

「それは解せません。

 モイラ王女は、パラシオンはおろか、オーガスタ全土において、落日王(アレックス)のお跡を継ぐべき方として、その御帰還が希求されております。

 モイラ王女さえおいでになれば、革命をすすめる者達にとってこれ以上の心の励みになることは案ずるべくもありません。

 我々は『新フィアナ騎士団』に名を列ねて日も浅く、殿下の憶え芳しくないことを痛感しております。団長がお言葉添えをされてくれれば、よもや殿下も否とはおっしゃれますまい。

 団長、どうか」

「私は団長の肩書きを濫用することは好きではない。だが今回だけは別だ。

 団長命令だ。王女に近付き、パラシオンに御帰還すべき甘言をお耳に入れることをいっさい禁止する」

 ユークリッドの感情も抑揚もほとんどない、「静かな雷」が場に落ちる。有事でないなら決して声を荒げたりすることはないが、今現在のユークリッドに、有事の数倍の威圧感があることを見て取って、ベンヤミーノは口を閉ざした。下手に口添えをしないほうがいい。

輪の中から声があがる。

「団長、なにも我々は、モイラ王女に、革命の先頭に立って指揮をされよと強制しているのではありません。ただ、オーガスタの全土ではかどらぬ使命に辟易する者に活力を与えるため」

「もちろん、革命の象徴としての王女とは、殿下もよく認識しておいでだ。

 だが、今、パラシオンに王女を御帰還させて差し上げることは、王女ご自身のお身のためにもよくないし、確実に、王女がお持ちの威厳を落とすと言う行為に直結しているのだ」

めずらしいユークリッドの長い弁舌が、しんと静まり返ったフィアナの控え室に重く響く。事態を察して、三々五々思い思いに暇を潰していた部屋の中の者全てが、団長の台詞の一字一句もも聞き逃すまいと、つばを飲んで、息継ぎのため途切れた台詞の次を待った。

「あくまで殿下の御推察だが、オーガスタは、王女が必要とされている程早急に革命の力が戻ったわけではない。

 いってみれば病み上がりの病人だ。オーガスタの革命の実情はお前達の方がよく知っているだろう。彼に重い労働を強いることができるか?

 確かに、王女が御帰還になって、革命分子の士気は鼓舞されよう。王女によって取り戻された勢いに乗って、王女の御名をもってふたたび武力行使に及ぶ作戦も講じられよう。

 それで作戦が成功をおさめれば何の問題もない。それが、いまの革命分子の力では、その勝算はごく低いものに違いない。いまだに小王国同士の連係は断絶され、個人のつながりでかろうじてその協調が保たれているに過ぎない。あの日からすでに半年以上になんなんとしているのに。

 王女の御名をもって作戦が失敗したとしよう。一度や二度ならば、その次も期待される。だが、数を重ねていく内に、王女の御名をもってしても革命は成功しないと言う諦観があらわれる。長いことかけて築き上げて来た信頼関係や団結も、失望と言うものの手にかかっては実に呆気無く崩れるものだ。

 王女に対する期待感が薄れるということは、おのずと、革命の失敗に繋がるわけだ」

「そんなこと、いざ始めてみないとわからないことです。それに、落日王と親しかったヒュバート・アクター(革命分子首魁)殿も、王女を以て、新しい革命の旗印にすることを考えていないことはないはずです」

「だからこそ、ヒュバート殿はじっと待っているのだ。王女が、御自身に向けられている期待というものを十分御理解いただけるようになるまで。そうでなければ、いかに王女を祭り上げたとしても、王女に御自覚ない限り早晩例の諦観がおこり、ここ一番においての結束が不十分になる。

 私にはこれ以上言うことはない」

しばらくユークリッドは、彼らから引き続き、どんな意見をされても、かたく口を閉ざした。完全に納得されていないということは、ユークリッドにはわかっていた。彼らの顔はそれでも納得していなかったし、確かに、始める前からの及び腰な意見であると言うこともわかっていた。

「土台の不安な砂の上に城はたてられません。姫様には、万古不易の大地であっていただかなくては」

面々が業を煮やして去ったあと、ベンヤミーノはわかったようなことを言う。ただ、彼らの言う、オーガスタにとってもはや不可欠になったモイラの存在、だが、パラシオンに帰りたがっているモイラには、そういう義務感などまだかけらも自覚されていないのだ。


 モイラは、周りにいるみんながみんなして、自分がパラシオンに帰ることを喜んでいないということを敏感に感じ取っていた。エルンストはすぐ不機嫌になるし、オルトやナヴィユ、侍女達は何とかして話題を摺り替えようとする。ユークリッドは黙ってしまう。だが、あの夜夢に見た、アレックスの悲壮な顔は頭から離れず、時々思い出しては涙すら出てしまう。ユークリッドのことも少しうっとうしくなって、この数日は夜は一人きりだ。

「私がそばにいなくて、お兄様はきっと寂しくてお辛くていらっしゃるのだわ。どうして私、パラシオンに帰ってはいけないの?」

モイラは、雪のすっかり融けた中庭に、クラウンを呼んでそう愚痴った。自らに植えられた悪しき運命を払う方法を求めて、心のままに生きようと模索する勇者の物語を聞いたあとのことである。

「こうして私が気づかって差し上げる間でも、お兄様はきっと…

 ねえクラウン、あなた、世界中を回ったと聞いたわ。お兄様の事は何か聞いていない?」

クラウンは、リュートをつま弾く手をとめて、いつになく寂しそうに顔をあげた。

「実は、ずっと、殿下よりお口止めがあったのですが、そのように悲壮でいらっしゃる姫様を前にしては言わずにはおれません」

そして言った。

「アレックス王は、グスタフ陛下の御勘気を被っておられるのです」

「え?」

モイラははた、として、クラウンを見た。

「どういうこと?」

「王は陛下の逆鱗に触れておしまいになったのです。オーガスタ宮殿の地下牢に捕らわれて、誰との面会も許されてないようでございます」

「どうして?」

「その筋の話によれば、民衆をもっと人間らしく扱うように御諌言したところ、ということのようです。いやはや、やんごとない方のお考えはよくわかりませんね」

「だから、私がお手紙を差し上げても、御返事がなかったのね」

「アレックス王は、この御勘気は一人だけが被ればよしと、エルンスト殿下に王女をお託しになられたのですよ」

「ねえ!」

モイラは、クラウン に縋り付くように言った。

「お兄様に会えないの?」

「このままでは無理でしょうなあ。王女が正式にパラシオンにお帰りになったと、グスタフ陛下がお聞きおよびになれば、パラシオンはすぐと貴女を盟主の后として差し出さねばならないとも聞きました」

「そんなのいやよ」

「それに応じられないとなると、最悪、アレックス王の首が飛んでしまいます」

「ねえ」

「なんでしょう」

クラウン は、モイラの切羽詰まった声に笑んで答えた。

「こっそり、帰れない? 誰にも言わないで」


 その晩からモイラの姿が、ティアドリー城から忽然と消えた。


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