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第三章

第18話・町の宿にて

じゅうはち・一泊C万G千の宿の窓から


 結局、クラウンの行き着いた先はオーガスタ宮殿の中だった。

「つまりお前は、カイルも反乱分子も裏切って、この余に遵うというのだな?」

「御意にございます、グスタフ陛下。

 反乱分子は、もはや再起なりますまい。ただ一つのよりどころであり、要であったアレックス王を失って、その意気著しく落ちております」

ワタクシの居室に目通りを許されて、グスタフの前に平伏するクラウンは、ためつすがめつのグスタフの問いに、そんな風に答えた。

「そもそも私は、カイル公爵よりの密命を賜ってパラシオンと、…陛下の動きを探っておりました」

「パラシオンといえば、ロクスヴァの介入のことか」

「さようです。カイル公爵は、ロクスヴァ公を目の敵にしております。何せ、現皇帝アンセルム二三世の一番の寵臣ですからね。

 当局で、オーガスタに介入をしない姿勢をとっているのに、そのロクスヴァの次期公爵(ディートリヒ)は、やれ友誼だと首を突っ込みたがります。カイル公爵としては、そういう攻撃材料を察知する必要性にかられていたわけです」

「なるほど、で、余を監視していたとはどういうことだ」

「いいにくい事ではございますか」

クラウンは、言葉とは裏腹に、不敵に笑いさえして返答する。

「先だって陛下は、カイル公爵に、このたびの事態収拾を御協力いただいた謝礼として、公爵領に隣接するレヴィスター小王国を譲渡いたしましたね」

「それがどうかしたか」

「以降、オーガスタとカイルとは、陰日向に友好関係にあるはず、と、陛下はそうお考えの事と思います」

「まあ、今現在も、王都と宮殿の警護は先方の私兵が行っているわけだし、そういう恩は返すつもりでいる」

「ところが、カイル公爵は、オーガスタは我に益無しと判断すれば、ためらわず関係を断ち切るおつもりのようです。陛下には、レヴィスターを譲渡し損ということになりますな」

「なに?」

グスタフはつい立ち上がる。

「まあ、そうお焦りになりますな」

クラウンはなだめるように手を差し伸べる。

「ただ、カイルは、もらうものさえもらってしまえば、後はオーガスタがこの先、いかに内政、外交上の難局に直面しようとも、レヴィスター併合時の条約の通りに、協力的態度を見せる事は難しいでしょう。

 ひとというものは、自分意外の者はどうしても低く見がちですからね」

「結論を急げ、何が言いたい」

とはいえ、グスタフは、見え透いていてもそれなりに持ち上げられて、悪い気はしなかった。

「陛下は、カイル公爵の顔色を伺うなどしなくても、大船に乗られたおつもりでおいで下さいませ。盟主でございましょう?

 ただ、宮殿の貴き玉座より、反乱分子を取り除くことにご専心あればよい。申し上げましたように、あの連中にもう立ち直る力はございません。国と国の間の事など、そう大層なことはわかりませんが、微力ながら私がお力になれば」

「そうか、そうだな」

グスタフは顎を撫でながら、クラウンを眺めた。

「だが、クラウンとやら」

「はい」

「余は、お前のその言葉をにわかに信じて良いものなのか? 甘い言葉を言っておいて、実はまだ足を洗っていない、とか」

「そこは御心配なく」

クラウンは恭順の姿勢のまま、顔を上げてニヤリと笑った。

「私の心意気の、いかに陛下の陰を頼んでいるかということは、私の貢ぎ物を御覧になって御判断の事を」

「なに?」

グスタフは、カエルを叩いて捻ったような顔をゆがめた。だが、何かを思い付いたようだ。こういう時の貢ぎ物と言えば、という類推を立てたのだろう。

「それはお前の持って来たもの次第だ」

「では午後一番にでも、お部屋に来させましょう」


 モイラは、暗い場所で目をさました。

 朝はすっきり目をさましたはずなのに、朝食を摂っているうちにまた眠くなり、気がつけば周りの風景は何もない、深い闇。まさかそういうように一服盛った相手の名前だとも知らず

「クラウン?」

虚空に呼び掛けた。今いるこの場所の手触りはあまりいいとは言えない。異国風のモザイクタイルの手触りより奇妙だった。粘り気のあるモノが、不規則な厚みと形状で固まったような(とモイラでなければ)表現できるような、そういう床だ。闇の中、意識がはっきりするにつれて、空間から切り離されるように人心地がついてくる。そして、その空間が、自分にとっては未曾有の、劣悪この上ないものであることがわかって来た。

「クラウン!」

目を開けていても真っ暗な空間で、モイラは左右を見回し闇に問う。

「誰かいないの?」

ちょうど誰か差し掛かって来たところだったようだ。明かりが目に入ってくる。

「お寝覚めですね?」

光に慣れて、モイラが目にしたのは、青年と言うには少し疲れた表情をした男が一人、お仕着せらしい制服を着て、ランタンを持った姿である。二人の間には、黒い格子があった。

 男は、日の光の元であれば、もっと年相応の顔をしているのだろうが、うつろとも思える瞳でモイラを見て、

「パラシオンのモイラ王女ですね」

と言った。わけのわからないままモイラは条件反射のように答える。

「ええ」

「私は、この地下牢の管理人、ウィル・ローバーンと言います。短い間ですが、お見知り置きを」

青年ウィル・ローバーンは頭を下げた。だがモイラには、目の前の男の名前などどうでもいいものだった。

「ねえ、どうして私ここにいるの? ここはどこ?」

モイラは二人を隔てる黒い格子をかしゃん、と握り、首をかしげて尋ねる。

「ここはオーガスタ宮殿の地下牢です。眠っている王女様をつれて、変わった風体の男がやって来まして、昼頃には目をさますだろうから、様子を見ていろと、言われまして」

ローバーンの持つ明かりの向こうで、モイラの目が見開かれた。

「クラウンが?」

「そ奴の名前までは知りませんが、確かに、クラウン(道化師)やバード(吟遊詩人)のようないでたちでしたね」

モイラは眉をひそめた。ディアドリーで会った時から今日の朝まで、あんなに親切で自分を楽しませてくれたクラウンが、一体何のつもりで、自分をこんな奇妙な場所に取り残していったのだろうか?

「ここ、どこだったかしら」

「オーガスタ宮殿の地下牢ですが」

「地下牢…オーガスタ宮殿の…」

ローバーンの言葉をおうむ返しにして、モイラははた、とした。

「そうよ。私、お兄様に会いに来たのよ」

「は?」

「ここにお兄様はいらっしゃるのでしょ?」

「あの、」

ローバーンは見るからにへどもどした。クラウンの台詞がよぎる。

『この姫様は子供に戻っている。アレックス王が死んでいるとは夢にも思っちゃいない。へたに説明しようとしてもパニックを起こされるのが関の山、入れ違いとでも話をあわせておけば大人しいもんだ』

「あー」

ローバーンは思い立ったように言う。

「行き違いがあったみたいですよ」

「え?」

「だから、やっとお仕事の暇が出来て、王女の所にいらっしゃる余裕が出来たと言うことでしたね」

「え?」

モイラはがしゃん、と檻を揺らした。クラウンと言ったことが違ってはいるが、アレックスがこの宮殿にいないと言うことだけが、モイラのこころには引っ掛かった。

「盟主様がお呼び戻しになればすぐでしょうが、姫様とお会いになれますかねぇ」

「どうして?」

「それは、」

モイラの瞳が責めているようで、ローバーンは切ない顔をした。そこに、

「ここはもう宮殿の中ですよ、そう焦ることもございますまいに」

いつのまにやってきていたクラウンが、にっと笑った。

「それはそうと、出して差し上げろ」

あごをしゃくられて、ローバーンは、待っていたようにその扉を開けた。薄明かりにもはっきりと、衣裳の裾が汚れて見えて、モイラはそれをぱさぱさと払ってみる。

「ねえクラウン、どうして私をこんな場所につれて来たの?」

「特に他意はございません。あえて申し上げるなら、この物語を盛り上げるために、とでもお知りおき下さい」

クラウンは笑みながら肩をすくめた。モイラが必要以上に関わり知る必要はないといったそぶりだ。モイラはそれに返す言葉も思い付かずきょとん、とし、ローバーンは苦々しい顔でそれを見た。

「ともかく、お身支度を整えていただきましょう」


 昼食の後、第一礼装に着替えさせられて、クラウンに導かれて、モイラは、曲がりくねった廊下の果ての、白塗りに金細工も豪勢な扉の前に立っていた。

「よろしいですね、姫様」

とクラウンが振り向く。

「これからお会いになる方の前では、ディアドリーのようにはお振る舞いになりませんように」

「どうして?」

「この扉の向こうにいらっしゃるのは、ディアドリーの中にいた誰よりも貴きお方です」

「エルンスト様より?」

「ええ」

そういう会話を察知したのか、その扉の向こうから「クラウン、まだか!」と声がする。

「お待たせしてはいけませんね、さあ」

クラウンは一礼の後扉をあける。

 グスタフの私室であった。メイドや従者が何人かいたが、すべてが魂の抜けた瞳で、部屋に入って来た二人を見た。

「陛下、例の」

と、クラウンは膝を折った。

「うむ」

背中を向けていたグスタフが、大義そうに振り向く。初めのうちは、クラウンがつれて来た人物が誰かわからなかったらしい。だがすぐ、

「ん!」

と納得した声をだし、笑んだ。

「なるほど、そういうことか。

 わかったクラウン、お前を信用してみようではないか」

「有り難き幸せにございます」

「うむ。そうとなれば、一時退がっておれ、他の者どももだ! 余はこの佳人と差向いで話がしたい」

「そうでございましょう」

グスタフの言葉があるや、音もなく動き出す従者達の最後で、クラウンは不敵な笑みをこぼした。


 グスタフもやはり、訳知り顔に笑みながら、取り残された目の前の佳人・モイラを見た。

『オーガスタ宮殿作法典範第三章第十一項・《王位継承権もしくは王国の財産十億単位以上の相続権を有する小国王より三親等内にある未婚の女子の服装に関する規定》』

とやらの条文が浮かんでくる。『《帝王と信頼されるべき》云々』『《宮殿内緒行事の次第に伴う》云々』のようなしち面倒臭い部分など見向きもせず、こういう部分だけは(後学のために)本の小口が真っ黒になるまで読んだものだ。

 「将来の盟主に見合った后は自分で選びたい」と言えば、少々の火遊びも大目に見てもらえたものだ。だがかくして手の内に落ちた女は、獲得の執念と同時に興味を失う。だがこの目の前の小娘は、その獲得の執念を全て興味に移行させるに十分の物を持っている。パラシオンから、この姫の即位に関する報告はない。だが、世が世なら、一国の主としても申し分ないはずだ。公然と立てる后として、これ以上はない。

「しかし、理屈や体裁ではない!」

グスタフは喉をならした。

 小娘一人、いままでのグスタフであれば、容赦なく別室に押し込んでいただろう。それなのに、作法を知らないままにたたずみ、グスタフを見ているその眼差しが、刺さってくるようだ。思い出したくもない、卑屈な自分がまだ自分の中のどこかで這っているのを、グスタフは悟らずにいられなかった。

「あなたはどなた?」

と話し掛けられた言葉に我に帰り、グスタフはモイラを見た。

「ほお、余を知らぬのか」

鷹揚に驚いてみせた。パラシオンに送り込んでいた密偵が、モイラについて要領を得ない報告をして来たということが今になってわかって来た。アレックスが死んだことで、この姫は気を違えたか。モイラばふたたび尋ねてくる。

「どなた?」

「余はグスタフ・シュテファン・オーガスト・オーガスタ二〇世である」

「?」

それでも、モイラはまだよくわからない風に首をかしげた。

「オーガスタの盟主である。お前の兄より偉いぞ?」

「まあ!」

その時になって、やっとモイラははっとグスタフを見、膝をついて最敬礼をした。その動きの優雅たるや、一部の隙もない。

「初めまして盟主様。パラシオン王アレクサンダー・ユーロス・パラス・パラシアの妹、モイラ・ルシア・パラス・パラシアです」

「そうか、アレックスがいたく大事にしていた、お前がモイラ姫か」

グスタフは頷いてみせた。

 「あの日」は、アレックスがいたために、ゆっくり品定めする余裕もなかった。だから今さらに、グスタフは、頭の先から足の先までモイラを眺めていた。肩にかけられているのは、例の『《王位継承権もしくは》云々』にあったとおり、その資格を有する白と濃い紫の綬であり、ほかには、彼女のためにあるような色の衣裳と、完璧に取り合わせられた宝飾品の類い、だが何よりも、その全てに光失わせる容貌があった。

 女神?妖精?悪魔?芸術? そんな言葉の一つ一つが陳腐にさえ思えてくる。理不尽なまでに美しい。そして、衣裳を通り抜けて扇情的にただよう、薫りともちがう何か。故意に包み隠す術を知らないだけに、敏感かつ「百戦錬磨」のグスタフは強烈にあおられる。臍の下がぞくりと震える。虜にされてゆくのに、グスタフの深い、みじめな部分は逆らうことはできなかった。逆らえば、きっと、射るような眼差しで殺される… だが、グスタフの表層は、まさに、ゆくゆくは屠られる運命とも知らず山小屋に迷い込んだ小羊のようにも、モイラを見たのである。

「あー、ときにモイラ姫、ここにはどのような用向きで?」

「お兄様に会いにここまでやって来たのですが、入れ違いになったそうです。盟主様がお呼び戻しになればすぐに戻られると聞きました」

「ほお」

「ですから、お兄様との面会ができるまで、ここに留まることをお許しいただきたいのです」

モイラでなければ、無理難題と言う類いの要請である。だが、今のグスタフに逆らうべき無理はなかった。

「おお、一向にかまわぬとも。すぐ戻るように馬を走らせよう」

モイラの顔がひときわ輝く。

「ありがとうございます盟主様」

グスタフは、モイラが自分のツボにはまったと確信して目を細めた。もとより、アレックスの末路はグスタフもよく知るところである。だが、会話から察せられる通り、アレックスを失ったモイラは気を違え、真実を知ることを拒んでいる。

 短い会話の内にここまで観察したグスタフは、さらに策をめぐらせ、モイラとの夕食の約束まで取り付けた。アレックスのために馬を出すつもりなど、毛頭ない。適当に「飼った」あと、いかな趣向で彼女に臍の下の世話をさせるか、その方向にすでに考えは飛んでいた。


 言うまでもなく、モイラは、後宮の最高の一室に、その居場所を移された。

 クラウンがその部屋に、ふたたび彼女を尋ねた時、モイラは、先刻の奇怪な処遇に対して、何の思うところも残っていないように見受けられた。

「盟主様はいい方よ」

とモイラは言った。

「お兄様をすぐ呼んでくださるそうよ」

「それはよございましたね姫様」

「それまでここにいていいともおっしゃったわ」

「ほお、そんなことも仰せでしたか」

クラウンは面白そうな顔をした。いずれグスタフのことだから、そういう甘い台詞の内側に何を含んでいるかはわかったものではない。ただ、彼の楽しみのために、すぐと反乱分子の黒幕として首をおとすような事はしないだろう。首が繋がったとして、このオーガスタ宮殿が、モイラにとって踏んでしまった地雷であることに変わりはない。クラウンは自分が手を加え結末までの道がより歪曲した物語が、それぞれ登場人物ゆえにより絡まり、面白くなっていくのが楽しくてたまらなかった。

 もう、ディアドリーからの捜索の手も、オーガスタに入っただろう。クラウンはそんなことを呟いて笑った。


 数日の間、王都オーガスタを嵐のように駆け回っていたモイラの足跡は、ある日を境にふっつりと途絶えていた。

「ええ、私どもも困っているのですよ」

と、その失踪の日、止まっていた宿の主人も顔を曇らせた。ちなみに、オーガスタにも「ホテル・ミシュラン」に相当するものがあれば、間違いなく四つ星以上になるであろう超高級宿である。ユークリッド達モイラ捜索の面々は、モイラ豪遊のあとを訪ね歩くようだった。

「いなくなられた日も含めて、三日ほどご滞在をいただきましたが、とくに不審そうな箇所は見受けられませんでした。お代の方も前金で、ほかにチップも弾んで下さいましたし」

ユークリッド以外の面々は、はた、と顔を見合わせた。ユークリッドだけはなおも主人につめて、モイラの事を聞き出そうとする。

「その御婦人の様子は如何だったでしょう」

「さあ、特に変わった様子はなかったと思いますよ。ただ、大変お綺麗な方だったので覚えていただけですので」

「そうですか」

見るからにがっくりと肩を落としたユークリッドを見て、これまでに訪ねた宿全てで、判を押したように返答されたことを、この主人もやっぱり言った。

「申し訳ありません、お役にたてず」

そして、やっぱり、ナヴィユが答える。

「いえ、気にせずに」

主人は、のどかなロビーに闖入して来たとも言うべき騎士の団体を、やや怯えた目で見回し、言った。

「何か、その、ワケ有りな方だったのですか」

「ええ、ちょっと」

「よければお聞かせ下さい。自慢ではございませんが、ここは王都で一番の宿、雇い人に話をまわしておけば、お探しの方も見つけやすいとは」

「御好意は有り難いのですが、実は私達、去る名家に仕えておりまして、縁談をお厭いになって家をとび出されたお嬢様を探しておりますの。

 大袈裟にすれば先様にも御迷惑がかかりましょうから、できるだけ内密に、ということですの。

 もちろん、御主人には」

何かをナヴィユに握らされて、主人は

「そりゃもう」

と顔をほころばせ、ユークリッド達は宿を出た。

 が。少し歩くと、誰ともなく笑い出した。

「えんだんが、いやだ、とは、ナヴィユもよく、かんがえたもんだ」

団員が腹を抱える横で、

「わ、わらったら、まずいではないですか」

ライナルトも吹き出すのを抑えている。ユークリッドは地面にへたり込み、

「ひょっとしたら、本当にそうなのかも知れない」

あの言葉を冗談にはとれなかった。結局、クラウンにそそのかされたと言うことは確かだとしても、その根底にそういう事情がないとは限らない。

「まさか、姫様に限って、そういう深い御事情をかかえておいでとは思えないけれどねぇ」

ナヴィユの笑いもごく短いもので、すぐとなりのユークリッドを見下ろし、

「ほら坊や、しっかりお立ちよ」

と肩を叩いた。

「ここまで探していないとなると、これから探すべき場所は絞られてくるね。山出しが寄るような宿が、姫様のお気に召すはずがないし」

「心当たりでも有るのか?」

ユークリッドがやつれた顔をあげる。

「ある。ひとつだけ」

「どこに?」

「オーガスタ宮殿」

ナヴィユが指を指す先には、大殿堂が望まれた。男供は立ち上がった。

「王女がそう進んでグスタフの懐に入るとは」

「姫様じゃなくて、クラウンの考えさ。

 もともとの大義名分は、アレックス王に会いにオーガスタまでってことだから、いよいよ王にあえるとでも言って宮殿に連れていったんだ。

 ユークリッド」

ナヴィユはいつになく厳しい顔で言う。

「あんたの姫様が、グスタフにおそわれるのも時間の問題って所だ」

「しかし、モイラ王女が、本当に、オーガスタ宮殿にいる保証は?」

フィアナの一人が、さっきの一言で打ちのめされたユークリッドを代弁する。

「ない」

そして彼女は胸をはった。

「でもね、姫様の行き着く先はそこしかないんだ。おとなしくパラシオンでお待ちになっていられる、そういう姫様じゃないだろう?」

一同は妙に納得してしまった。

「よく君が言っている『女の勘』というヤツだね。

 それでナヴィユ、宮殿の内部に入れる何かいい方法でもあるのかい?」

そんな彼女の髪を指にからめながら、ライナルトが聞く。

「それもない。

 いかに合法的手段に訴えて、わくらばに成功したとしても、いすれ正体のばれたあたし達がこう、なることは目に見えてる」

こう、と、ナヴィユは、手で顎の下を水平に撫でた。

「うちひしがれてないで、団長さん、一緒に考えてちょうだいよ」

「無理ですよナヴィユ、この数日、団長はほとんど寝てないんです、立っているだけですよ」

「情けないねぇ」

団員に肩をかしてもらってかろうじて立っている有り様のユークリッドに、ナヴィユの容赦ない叱咤が飛ぶ。

「ユークリッド、あんたはそうして手をこまねいて、姫様がグスタフの手に墜ちるのを黙って見ているつもりなのかい?

 アレックス王が、それだけはさせちゃいけないって、命をかけて許さなかったことを、あんたはここで許すつもりなのかい?」

どうしてあたしが考えなきゃならないの、泣いてるヒマがあったら鉄砲玉になってでも宮殿に突っ込みな、人でなし! ナヴィユはぶいっときびすを返した。団員とライナルトは、あぜんと、彼女とユークリッドの間を見交わす。

「…俺に何ができるんだよ」

どろりと濁った声がした。

「俺なんかが超えちゃいけない、その向こう側の話なんだ。

俺にはあの人の心がわからない。あんなに嬉しそうに俺といながら、どうして」

「あんたにはそれを超える権利がある」

ナヴィユはあえて感情を押し殺したような声で言う。

「超えなきゃ。それだけ姫様が大事にして、姫様を大事にしているお兄ちゃんが、あんたなら任せられるって言ったあんたなんだから」

「…」

「前にあたし言っただろ? あんたは、巣立つ前の隼だって。まだ自分が空の王者だって、気がついていないね?」

「…」

「さあ団長、ここにいるみんなが、あんたの次の命令を待ってるんだよ」

ユークリッドが、団員にからめていた腕を解いた。袖で乱暴に顔を拭って、

「宿に戻る。対策を立て直す」

とだけ言った。そのまま早足に往来を過ぎるユークリッドを追いながら、ライナルトが言った。

「ナヴィユ、どうしてそういう台詞を私に言ってくれないものかねぇ」


 オーガスタ宮殿をはるかに眺めるそこそこの宿のそこそこの部屋。

 ふたたび満ちる月を見た。モイラのいつか語ってくれた花の季節はすでに過ぎ、ただ彼がそれに目をとめる余裕がないだけで、木々の緑は確実に濃くなっている。

 ユークリッドは窓から空を仰いで、路地の隙間にまで、惜しみなく月光が注がれているのを何とはなく眺めていた。例によって眠っておらず、飲むわけでもないグラスをくるくるとすかしてみたりした。

「やっぱりだ」

声に振り向くと、ライナルトがいる。

「アイゼル卿?」

「ライナルトで結構ですよ。知らぬ仲でなし」

とはいえ、この道中で、このライナルトがジェイソン卿の息子であることを知ったユークリッドは、彼に対していささか居住まいの悪い思いをしていたわけである。(もっとも、精神に余裕のあるうちだけだったが)

「父の事なら、もうなしにしましょう。私も団長を恨むつもりなど毛頭ありません。前から、館の中で死ぬことは恥と言っていた昔気質の人間ですから、本望でしょう」

取り急ぎ任務の話は今はやめにしておきましょう。ライナルトは言って、ユークリッドが持っているグラスを空けるよう促した。

「相変わらず、剣は不得手のようですね」

「ジェイソン卿が御教授下さったのに、結局身にはなりませんでした」

「今の貴方があると父が知っていたら、強いて練習などさせなかったでしょう。トーナメントの時といい」

「おそらく、卿は、いかに得手とはいえ天狗になるなと言うことを私に覚えてもらいたかったのでしょう。確かにあの頃は、初めての遠征で舞い上がって、少々いい気になっていました」

「今や押しも押されぬ『新フィアナ騎士団』の団長…、いや、この話は今は御法度のはずだ。自分で言っておきながら」

まったく、酒が入ると物忘れがひどくなる。ライナルトは笑いながら言って、またユークリッドのグラスに酒をついだ。

「ナヴィユは私を評価してくれるらしいのですが、正直、私は、まだ、方々の期待には答えられず、恥多い日々です」

「御謙遜」

ライナルトは一口あおって笑った。だがすぐに、すこし神妙な面もちになり、

「…モイラ王女は、おそらく、知らずのうちに、御自分で御自分を回復させようとなさっているのかも知れません」

ユークリッドを逆撫でしないよう、あくまで静かに言い出した。

「ナヴィユの受け売りですがね。

 そして、あの方なりの過去の精算… あなたのために、ぜひ切り捨てておかなければならない、アレックス陛下の陰を、切り捨てられるのだろう、と」

「え?」

ユークリッドは顔を濁らせた。

「私は」

「そんなものは気にしない?

 私も依然、ナヴィユにそう言ったことがあります。

 彼女と出会い、妻に迎えたいと言い出したのは私です。彼女は、傭兵という職業柄、自分の体はきれいじゃないと言いました。仕事を得るために、嫌な男とも寝たことが、一度ならずあるってね。

 もちろん、私は答えましたよ。貴方のように。『過去なんて気にしない』。

 ですが、いざ結ばれてみれば、私は、過去に彼女の身体をすり抜けていった男達に、顔も知らない男達に、嫉妬しているのですよ。…私も、彼女のことを糾弾できる義理など持ち合わせていないのですが」

ライナルトはため息をついた。

「情事の最中の彼女は、本当に美しいですよ。私で喜んでくれて、柔らかい身体で抱き締めてくれるんです。ナヴィユより数倍は美しくておられたモイラ王女のことだ、きっと貴方もそう思っているでしょう。

 その姿を一人占めしたい、男のエゴかも知れませんがもっともなことです」

春の終わりの嵐が突然、二人をもんだ。風の鳴りのおさまるのを待って、ライナルトが言う。

「ほんとうに、貴方は、モイラ王女の過去について拘泥はしていないのかも知れません」

「わかりません、王女の過去など。私は、…初めての事で、自分のすべきことに精一杯だったので」

「ディートリヒ様のお話を聞く限りでは、アレックス陛下は決して自棄をなさらない方のようですがね」

「アイゼル卿」

「酒に免じて失言は許して下さい。

 さて、何を言いたかったのかわからなくなって来ました」

言いながら、ライナルトがまた酒をすすめようとするのを、ユークリッドは、グラスの上を覆って辞退した。

「まずは落ち着いて、周りを安心させて下さい。それからでも遅くはないはずです。

 自信を持って下さい、団長。貴方は、王女のお体のどこにいくつ黒子があるか、正確に把握している、唯一の男なんですから」

「?」

「そういうことです」

アルコールが入ったもの同士の会話は一見脈絡がなかった。一息ついて、

「もう眠りましょう。横になるだけでも違いますよ」

と、ライナルトが言った時、また強い風が吹いた。そして、木々のざわめきに乗って、

「やっぱりいましたね」

と声がした。

「!」

路地をはさんで向いの建物の屋根に見たことがある陰が、逆光に立っていた。

「…クラウン…」

血を絞るような声がユークリッドの口からもれる。クラウンは、あいかわらず何を考えているのかわからない、今となってはいやみたらしい笑い顔で言う。

「怨み節を聞いている暇はありません。

 団長どの、あなたの子鹿はオーガスタ宮殿にいます。悪い妖精の手はのびていませんから御安心の程を、といっても、先様はお預けには慣れていらっしゃらないから、これから先の保証はできかねますけどね」

「何?」

「数日中に、オーガスタが迎えた賓客として、姫様の事が公になるでしょう。それが、革命分子達にどういう影響を与えるかというのは、顔に似合わず賢い団長どのですから予測できるでしょう」

クラウンは、ふたりのいるバルコニーに向かって、こん、と何かを投げ込んだ。

「あなたとお友達のために、最高の舞台を用意するつもりです。我ながら素晴らしい趣向だと思いますよ。

 それでは、宮殿で。すべては私の唱う物語のために」

初夏の木の葉を引きちぎるような風が、クラウンの身体をかき消すように吹き乱れ、やっぱり、彼らが目を開けた時には、クラウンの姿はそこにはなかった。

「なんだ、あいつは?」

ライナルトが酔いの引いた顔で言う。

「あれがクラウンです」

ユークリッドは、その投げ込まれたものを拾い上げ、愛おしげに面を伏せた。

 エナメルが月光につやつやと輝く、小さい靴が片方だけ。


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