垂直に切立った赤茶色の崖。
そこにぽっかりと黒い穴が顔を覗かせている。外から差す光を飲み込んで、入り口付近は明るい。だが、その奥はというと、漆黒の闇が覆い、窺い知ることができなかった。
それでも、ずいぶんと奥まで続いているのだと、それだけは判る。
その闇を覗き込む者たちの姿があった。人数は三人。揃って古く汚れた、しかし丈夫そうではある、皮製の上着を纏っている。
その背中には矢筒を背負い、左手に弓を握っている。そして、腰元のベルトには短剣が差してあった。
恰好から察するに、彼らは猟師であるようだ。
ここは鬱蒼とした森の奥。
獲物を求めて、ここまで踏み入ったのだろう。
ただ彼らは、追い掛け回すべき兎や、野鳥ではなく、崖にある黒い穴を覗いていた。
三人の猟師の間には、言いようのない緊張感を孕んだ沈黙が降りている。
暫くして、リーダー格の男、パウロが口火を切った。
「おい。見ろ……」
パウロは闇から目を逸らすことなく口を動かす。
「こんな所に洞窟なんてなかったよな?」
その問い掛けに、仲間の猟師たちも言葉を返す。
「ああ。なかった。少なくとも三日前に見た時は」
「急に出現した洞窟……。なあ、これって……」
「ああ、間違いない。――ダンジョンだ」
男たちは神妙な顔で頷き合う。
すると、パウロが再び仲間の猟師たちに問い掛ける。
「どうする?」
「どうするって……」
「決まっているだろう。ここに潜るかどうかだ」
問い掛けられた二人は、互いに顔を見合わせた。
パウロは尚も言い募る。
「知っているだろう? ダンジョンの中からは財宝が見つかるんだぞ!」
幾分興奮したような声音であった。それでも、残る二人の顔は晴れない。
「でもよ……。危険らしいじゃねえか。おっかねえ魔物が出て、生きて帰れない奴も大勢いるって……」
弱々しい声を上げた猟師の名は、ヨイツ。
彼は、財宝を得るチャンスよりも、身の安全の方を優先したいらしかった。
慎重な判断だ。幾分勇気に欠けるとはいえ、非難されるべき判断でもないだろう。
だが、パウロは、ちっと短く舌打ちする。
「おいおい、冗談だろう? 考え直せ! 財宝を得たら、しみったれた生活ともおさらばだ! ……ヨイツ、お前の婆さん、脚を悪くして外に出られないんだってな。でも、金があれば街にいる医者に診せられる。また、歩けるようになるかもしれない」
「それは……」
パウロの言葉に、ヨイツの心は揺れる。
「ルツ、お前だって普段から、カミさんに少しでもいいから贅沢させてやりたいって、そう言っていたじゃないか!」
「………………」
ルツと呼ばれた猟師は、黙したまま考え込む。
「それが叶うかもしれねえ。それにだ。生まれたてのダンジョンは、そんなに危険じゃねえと聞いたことがある。なっ! こんなチャンスもう二度とねえよ!」
そんなパウロの説得に、ヨイツとルツは、ゴクリと唾を飲み込む。
そして……二人して頷いた。
今日の獲物の皮を剥ぎ、そこに肝からとった脂を染み込ませる。それを棒の先端に括り付け、火打ち石で火を点けた。
その灯りを以て、洞窟内に広がった視界を覆い尽くす闇色のヴェールを払う。
「行くぞ」
パウロが酷く緊張した声音で告げると、先頭切って洞窟の中に踏み入った。
歩く、歩く、歩く。
三人の猟師はそれぞれ、物音一つ聞き漏らすまいと、息を殺しながら歩く。
彼らはプロの猟師だけあって、その感覚は常人よりも鋭敏だ。
しかし、そんな彼らをもってしても、何者の気配も感じられない。
まだ歩く。歩き続ける。
次第に、当初の緊迫感が薄れていく。
集中力も無限ではない。何事も起こらないまま、十数分の時が経てば、張り詰めた糸のような警戒心も緩むというもの。
――ここは、本当にダンジョンなのか?
そんな疑問が、男たちの中で鎌首をもたげ始めた。
丁度、そんな時である。その声が響いたのは。
「ようこそ、私のダンジョンに。歓迎致しますわ」
それは透き通るような、女性の声であった。
男たちはびくりと体を震わせる。ばっと、声のした方向、即ち自らの真後ろを振り返った。
はたしてそこには、いつのまにか一人の少女が立っている。
年の頃は、十代半ば辺り。黒髪に赤紫色の瞳。光源が手に持つ灯りだけのためであろうか? 肌色は青白く見える。
だが、それも多少そう見えるというだけで、例えば死体のように極端に青白いという程でもない。十分個性の範疇に収まる肌白さだろう。
表情は何ら悪意を感じさせぬ、優しげなもの。
その容姿は、人により好みが分かれるだろうが、多くの男性に好ましく思われる程度には整っていた。
総じて判ずるに、その外見は、男たちが住む田舎村では稀有かもしれない。が、大きな街に出れば、ちょっと器量の良いお嬢さん、といった、ありふれたものに過ぎない。
そのはずなのに……。ああ、だからこそ恐ろしい。
目に見える情報では、警戒心を抱く必要のない少女。
にもかかわらず、彼らの本能が盛大に警鐘を鳴らすのは、一体どうしたわけか?
パウロは、はたとその正体に思い至る。
「そんな……。まさか、ダンジョンマスターか!?」
パウロは聞いたことがあった。
ダンジョンマスターと呼ばれる魔物の存在を。
世界各地に散見するダンジョン。
それらの中には稀に、ダンジョンマスターと呼ばれる、知性ある魔物が運営するダンジョンがある。
そして、総じてそれらのダンジョンは、通常のダンジョンより難易度が高い。
パウロは恐怖に震える。
――ここが、噂に聞く、ダンジョンマスターが運営するダンジョンであったなら。
当然、生き残る目は無い。何せ、ダンジョン探索を生業とする冒険者ですら、生還困難なダンジョンなのだ。
ああ、どうして素人が生還できよう?
そんな諦観が脳裏を支配する。彼の心中を死の恐怖が覆い尽くす。
「ぱ、パウロぉぉ……」
情けない声がパウロの耳朶を打つ。恐怖に震えていたパウロは、ようやくその存在を思い出した。自らが連れてきてしまった仲間たちのことを。
パウロは拳を強く握り締めると、恐ろしい魔物に向き直る。膝をつき、深々と頭を垂れて見せた。
「俺はどうなってもいい。煮るなり焼くなり好きにしてくれ。ただ、後ろの二人だけは見逃してくれねえか」
必死の命乞いであった。
普通魔物に命乞いなど、意味のない行為。しかし目の前の魔物は、知性ある魔物だ。人の言葉も解する。
ひょっとすれば、こちらの話に耳を傾けるかもしれない。
そんな一縷の望みに縋り、頭を下げるパウロ。
ダンジョンマスターと思われる少女は、黙したままパウロの頭を見下ろす。
――駄目か。なら、一か八か……。
パウロはさりげなく腰元の短剣に手を伸ばそうとして――
「頭を上げてください。大丈夫ですよ。貴方たちに危害を加える気はありません」
そんな言葉が降ってきた。パウロは思わず頭を上げる。
目の前の少女の顔を凝視した。
「ほ、本当か……?」
「はい」
少女はやんわりと笑む。
「仲間を救うために自らの命を顧みない。魔物にすら頭を下げる。素晴らしい心根の持主ですね」
「い、いや、それは……」
魔物相手とはいえ、手放しに賞賛されると、気恥ずかしく感じられた。
「貴方なら信用できそうです。これは幸運な出会いですね」
「――? それはどういう……」
パウロは話に付いて行けない。頭の中に疑問符が乱舞する。
そんなパウロの様子を見て、少女はくすりと笑うと、言葉を重ねる。
「私が貴方たちの前に姿を現したのは、ある提案をするためです」
「提案?」
「はい。その提案とは――」
少女の口から発せられたのは、驚嘆すべき言葉であった。
そこは森の傍にある寒村。
その長老の家に、村の主だった男たちが集まっていた。緊急で開かれた会合は、パウロたちが持ち帰った情報について、話し合う為のものであった。
「もう一度確認するぞ、パウロ。ダンジョンマスターは、ダンジョンに供物を捧げれば、対価としてダンジョンの宝物を差し出すと、そう言ったのだな?」
「はい、長老」
パウロは頷き、一言付け足す。
「ダンジョンマスターはこうも言いました。なにも無辜の民を生贄に捧げよとは言わない。人間のコミュニティから弾かれるべき者を捧げよと」
「弾かれるべきもの……」
「はい。例えば、重罪を犯した死刑囚。あるいは、飢饉の際に口減らしされる子供。そういった者を差し出せば、対価を出すと」
パウロの言葉に、長老の家に集まった男たちは唸り声を上げる。
「理屈は分かる。しかし、信じてよいものかどうか……」
長老がそんな呟きを漏らした。
ダンジョンからの提案。
それを理解するには、ダンジョンというものの生態を知る必要がある。
ダンジョンは人を喰らう。
より正確に言えば、ダンジョン内で死んだ人間の魂魄を喰らう。それを糧として成長していくのだ。
そのためにダンジョンは、喰らった魂魄の一部を加工して、ダンジョン内に宝物を設置していると言われる。
そう、人を誘い込むための撒き餌として。
ダンジョン探索者も、その事実を承知の上で、ダンジョンに挑む。己の命をチップに財宝を追い求めるのだ。
結果として、ある者は宝物を手に生還し、またある者はダンジョンの糧となる。
それが、ダンジョンとダンジョン探索者の従来の関係性であった。
一見すれば、人間側ばかりがリスクを負っているようにも見える。
しかし、実際はそういうわけでもなかった。
ダンジョンで一番の宝物は何か?
その問いの答えは、ダンジョンの最奥にあるとされるダンジョンコアに他ならない。
売れば、七代遊んでも御釣りがくると言われる財宝。全てのダンジョン探索者が狙う、一獲千金の夢。
このダンジョンコアが奪われると、ダンジョンは死んでしまうという。
だから、ある種の共生関係にあるかのように見える、ダンジョンと、ダンジョン探索者の関係ではあるが。
その実、命の奪い合い。殺し合いをする関係にあった。
だが、この新しきダンジョンの提案は、その従来の関係性を覆すものだ。
双方がリスクを負うことなく、望みのものを手に入れる。正しく、共生関係とでも言うべき、新たな関係性。
その構築を、ダンジョンマスターは提案してきたというわけだ。
「ここで悩んでも仕方ない。長老、一度試してみてはどうか?」
年嵩の男が提案する。長老はその言葉を受け、暫し黙考する。
そして口を開いた。
「この前、男衆が捕えた山賊がいたな。街の警羅に連絡を取って、引き渡す予定であったが……。試しに、ダンジョンに食べさてみるか」
かくして、村はダンジョンへと最初の供物を捧げることになる。
縄で縛られた山賊が一人、村の男衆に引きたてられ、ダンジョン内へと連行される。
「ダンジョンよ! 約束通り、貴君への供物を持って来たぞ!」
男衆の一人、パウロだ。彼が大声で呼び掛けた。
その声が、ダンジョンの中を木霊する。
ほどなくして、透き通るような女性の声が、どこからともなく響いてきた。
『ご苦労さまです。では、その場でその供物を殺して下さい』
ダンジョンマスターの返事に、パウロは眉を顰める。
「……俺たちが手を下さなければならないのか?」
てっきりパウロは、ダンジョンマスターが供物を殺すものとばかり思っていたのだ。
『はい。お願いします』
しかし、ダンジョンマスターは淡々とパウロたちに供物の殺害を促してくる。
はあ、パウロは一つ息を吐くと、腰から短剣を抜き放つ。
そうして供物の顔を見た。
――この男は、山賊という無法者の一員だ。殺されるに足る罪を犯した人間。躊躇うこともあるまい。
パウロは己にそう言い聞かせる。それでも、彼の良心故だろうか? せめて苦しまぬようにと、心臓を一突きにした。
パウロの手に嫌な感触が残る。
流れ出す命の源。それは、地面を赤く染めていった。
その様を、男衆が無言で見詰める。……十秒……二十秒。
ついに変化が現れる。
事切れた供物の体が、眩い光の粒子となって分解されていく。
暫くして光が収まると、供物の代わりに赤い石が転がっていた。
パウロはそれを指で摘まみ上げる。
慌てて、別の男が手に持つ松明の灯りを、その摘まみ上げた石の傍に近づけた。
パウロは、摘まみ上げた石をまじまじと観察する。赤く透き通るような石だ。恐らくは宝石の類であろう、パウロは、宝石に関して門外漢だが、そのように判じた。
大きさは、うずらの卵ほど。ずいぶんと大粒の宝石だ。
それが、どの程度の値付けがなされるかは分からない。
ただ、田舎村の住人にとっては、途方もない報酬であるのは間違いない。
男衆は、ごくりと唾を飲み込みながら、その宝石を見詰める。
どうやらこれが、人一人分の命に対して、ダンジョンが差し出す対価であるらしかった。
男衆が宝石を持ち帰ると、村はとんでもない騒ぎとなった。
長老の見立てによると、その価値は、金貨10枚は下らないというのだから、当然のことであった。
活気立つ村の人間たちは、皆が同じことを考える。
――もっとだ。もっと、ダンジョンに供物を捧げるのだ。
「長老!」
男衆が殺気だった様子で、長老の家に押し掛ける。
彼らは一人の男を引き連れてきていた。
縄で縛られ、猿轡を噛まされたのは、村人の一人、ザネリであった。
長老は仰天して、疑問の声を上げる。
「これはどうしたことだ!」
男衆の一人が叫び返す。
「どうもこうもない! ザネリが盗みを働いたのだ!」
「何!? それは本当か!?」
長老はザネリの顔を見る。
縋りつくような目で長老を見詰め返しながら、首を左右に振るザネリの顔を。
確かに、ザネリは少年時代、手癖の悪い子供であった。
ちょっと、余所様の軒先に吊るされた保存食を失敬したりと、そんなことをする悪童であった。
しかし、成人してからはその手の噂を聞かない。
それだけに、長老は何かの間違いではないかと疑った。
「本当なのか?」
「本当ですとも! これが証拠です!」
男衆の一人が巾着袋を放り投げる。
その中から、銅貨が何枚か転がり落ちた。
「ルツの家から盗まれたものです! 怪しいと思い、ザネリを問い詰めたところ、その袋を持っていました!」
長老は頭を抱えたくなる。それは余りにもお粗末な証拠であったからだ。
何せ、何処にでもあるような巾着袋である。
銅貨だって、いくら寒村とはいえ、現金収入が皆無なわけでもないのだから、当然誰もが持っているものだ。これを証拠とは……。
「本当に、ルツの家から盗まれた物なのかね? 誤解ではないのか?」
諭すように長老が男衆に話しかける。
しかし、熱狂的なまでの言葉の羅列が、矢継早に返ってくる。
「いいえ! いいえ! ルツの家から盗まれた銅貨の枚数とピッタリ一致します!」
「巾着袋のくたびれ具合も、盗まれた物と同じだ!」
「そもそも、こいつは昔から手癖の悪い奴だった!」
「そうだ! こいつがやったに決まっている!」
「長老は盗人を庇われるのか!?」
「勿論、そのようなことはないでしょうね!?」
「盗人には罰を! ダンジョンに放り込め!」
「そうだ、放り込め!」
「放り込め!」「放り込め!」「放り込め!」
殺気だった男衆の熱量に、長老は思わず後ずさる。集落の長である彼ですら抗えないものがあった。
やがて、俯きながら絞り出す様な声を出した。
「……許可する。ザネリをダンジョンに引き立てよ」
かくして、二人目の供物がダンジョンに捧げられる。
一人の婦人が家から飛び出す。
歩み寄ってくる自らの夫に、掴みかかるような勢いで捲し立てた。
「あんた! どこに行ってたんだい!? アルが、末子のアルの姿が見えないんだ! どんなに探しても……」
途中で尻つぼみになる言葉。
婦人は、夫の手に握られた赤い宝石に気付く。
「あんた……まさか……」
夫は歪んだ笑みを浮かべる。
「ウチに子供が五人もいるのは……多いと、そう常々思っていたんだ」
「あんた! なんてことを!」
「うるさい!!」
夫は乱暴に婦人の腕を掴むと、家の中に放り捨てる。
そうして倒れた婦人の上に覆いかぶさった。
「あんた、一体……」
「食い扶持を考えたら、これ以上子供を増やせねえと思ってたが……。はは、もう関係ない。また生まれたら、ダンジョンに放り込めば……。そうすりゃ、逆に大金持ちだ!」
「あんた! や、やめ……!」
「あの家だ! あの家の人間がダンジョンの秘密を外部に漏らそうとしたぞ! ダンジョンに放り込め!」
「キクロだ! 村の共有財産である宝石を勝手に! ダンジョンに放り込め!」
「長老だ! 長老が罪人を庇いたてたぞ! ダンジョンに……!」
「あいつ、このダンジョンでの作業に非協力的だな。そうだ。昔からあいつは、村の活動をサボりがちだった! なんて怠惰な奴! ダンジョンに……!」
「ダンジョンに……!」「ダンジョンに……!」「ダンジョンに放り込め!」