「なに?ナニって、どういうこと、だれ?」
その人物は向こうを向いたまま、そう呟いた。眉をひそめる涼音。確かにその声は、動画で聞いたかりんとうのものと一致している。彼は顔を出す時はマスクとサングラスで目隠しをしていたが、声については一切加工していなかったからだ。
何故、涼音が『誰』ではなく『ナニ』と問うたのか。それは言葉の意味が大きく異なってくるからに他ならない。
誰、というのは相手が人間であることを前提に問いかけられる言葉である。幽霊だとか、ヒトガタのモンスターなんかに対しても誰と扱うこともあるかもしれない。だが、いかにもどろどろに溶けたスライムとか、ドラゴンとか、グロテスクな怪物なんかに対して『誰』と呼びかける者はそうそういないのではないか。
それはヒトではなく、ナニカ。そう呼ばれて然るもの。誰と呼びかけたらそれは自分達にとって、目の前に見えている存在を人間と認識していると、そう明かしたも同然になる。それはこの状況で好ましくないものと思ったからだ。
人の言葉は呪だと、かの安倍晴明は言ったという。
そして呪いをかける対象には自分も含まれる。誰、と呼びかけることで自分達は相手を人間と思い込むのだ。それが罠の範疇であるなら、充分すぎるほど避けるべき事象だろう。
だがそんな涼音の態度は、相手には都合が悪かったようで。
「ひでえな。ナニって、人のこと、人間扱いしてないってことですか?俺は、俺なのに。他でもない俺なのに、酷い」
「そう思うなら、その〝俺〟さんのお名前をどうぞ」
他人に定義されずとも、自分で名乗ることができるかどうか。人間かそうではないかの一つの境目がそこにある。だから涼音はこちらからかりんとうの名は出さない。本名でなくても関係ないのだ。かりんとうさん、と呼びかけたら相手はかりんとうになってしまう。たとえその存在が偽物でも、既に形を失った怪物でも。
「だから、名前、名前って?知らないの?知ってるからこそそこにいて答えを言って、あれ、あれれ、あれ、答えを答えを、答えを?とにかく、知らないフリするとか、酷いんだから、ちゃんと呼んでくれないと、ねえ?」
早口で、その人物はぺらぺらと喋る。こちらに名前を言わせようとしている――これはもうアウト判定でいい。
「先輩、逃げる準備」
「もうしてるわ」
「おっけ」
じりじり後退りしながらタイミングを見計らう。その間にも、どんどん男の様子はおかしくなっていく。
「誰かなんて、ああ本当に俺はどういうことどうしてこんんあところにいるのかなんてソモソモ俺は誰ダッケあれそんなわからないはずがないのに大体俺はここに動画撮りにきてみんな喜んでくれてそれが嬉しかったのにいい加減ああ腹が立つううううううううううああああああああああそういうことどういうコト?あれおかしいな思考まわらなそうだそもそも誰かが悪いのであってここは寒くて暗くて嫌だハヤくもういい加減にしてムカつく嫌い嫌い嫌い嫌いきらきらキラキラそうううこともうナマエよんでくれてもいいし冷たいううううううううううううううううううううううううううううううううそう考えてはやくここからでたい逃げなきゃ逃げなきゃもう怖いだから無理なんだってばどうしてこんなところに来たもか俺はダレだっけそんなわからないはず溶ける無理無理ああ本当に無理だからもうここから出して出して出して出して出してダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテ……」
壊れたロボットのように同じ言葉を繰り返したと思ったら、その首がこちらを向いていた。
そう、首だけが、こちらを見たのだ。体の向きはそのままなのに、首の可動域を無視して顔だけがこちらへと向き直ったのである。
それはサングラスとマスクを身に着けた若い男の顔。ごぶう、と音を立ててマスクの隙間からどろどろとした血が噴出してくる。
「ダシテ、タスケテ……タスケテエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!」
バタンバタンバタンバタン!と大きな音が多数響き渡った。それは調理台の棚や引き出しが一気に開け放たれた音である。
「嘘、そういうパターン!?」
もっと幽霊系の攻撃をしてくるかと思ったのに、発生したのはポルターガイスト現象だ。それも、家庭科室であることを鑑みるならば、このあと何が襲ってくるかは想像がつこうというものである。
これはまずい、と涼音は手を前に突き出して呪文を唱えた。
「〝Protect〟!」
次の瞬間、無数の包丁や鋏が自分達目掛けて飛んできた。ギリギリのところで防御魔法が間に合い、そのすべてが見えない光の壁に弾かれて地面に落ちることになる。
――つ、次は防げないかも!
涼音は慌ててドアを閉めた。だが、このドアの鍵を持っていない。
「任せてちょうだいな!」
手を出してきたのは奈河である。彼女は腰のチェーンから一本の銀色の鍵を外していた。それをドアの前でがちゃりと回す動きをする。
するとどうだろう。本当に錠が落ちる音が聞こえてきたではないか。ドアが完全に施錠され、開かなくなる。ガタガタガタ、ドンドンドンドン!向こうにいる怪異だかなんだかがドアの向こうで暴れているが、これでひとまず追ってはこられないはずだ。
「持ってきて正解だったわー、魔術武器!」
にやりと笑う奈河。
「ちょっと作るのめんどくさかったんだけどね!特定の条件下なら、どんな鍵も開け閉めできるスグレモノよ!」
「すご……泥棒と不法侵入し放題ッスね、先輩」
「ちょっと、そういうこと言うんじゃないわよ後輩!自分でも思ったけど!」
「思ったんかーい!」
思わずツッコミ芸人になりきってツッコミしてしまう。とにかく、今のドアそのものが破壊されたら意味がない。奴らが立ち往生している間に逃げた方が無難だろう。
「とりあえず逃げるわよ!上の階でも下の階でも!」
「は、はい!」
下の階。多分意味など考えずに奈河は口にしたのだろう。しかし、涼音としてはあまり聞きたくない言葉だったのは確かだ。
だってそうだろう。本来小学校に地階なんて作らない。作るとしたらそれは、なんらかの特別な目的があった場合のみだ。
――でもって、ボスとか強敵って、一番低いところか一番高いところにいるってのがお約束なんだよねえ……!
奈河の後を追って逃げる涼音。階段の前まで来た時に、本当に地下への入口を見つけてげんなりすることになる。
明らかに、何かありますよと言わんばかり。逃げないならば、行くしかないではないか。
「先輩がフラグ立てるから地下できちゃった!」
「私のせいにしないでくれる!?絶対なんかあるわね、行きましょう!」
「行動力じゃぶじゃぶ溢れすぎですよおおおおおおおおおお!!」
騒ぎながら、バタバタと階段を駆け下りていく。地下一階に到達したころにはもう、家庭科室のドアをがたがたいわせる音も聞こえなくなっていたのだった。
「ふううう……」
廊下に座り込み、息を吐く涼音。ツッコミながら全力疾走なんてするもんじゃない、と心から反省する。ものすごく疲れた。ああ、本当にものすごく疲れてしまった。自分ツッコミ芸人に就職するつもりなんてないのに、大体この人のせい――とちらりと奈河を見る。
彼女のおかげで助かった点もあるので、あまり責めることもできないが。
「なんていうか」
目をキラキラさせながら言う奈河。
「地下に降りた途端不自然に暑いわね!火あぶりでもされてるみたいー!これは確実に何かあるわよ、うん!」
「わかっていて降りたんですか!元気ありすぎッスよ!」
「あははは」
薄汚れた壁に背を預けて、乾いた声で奈河は笑う。
「笑わなきゃやってらんないわ。……かりんとうさん、本当にもう……ダメだったのね」
「先輩……」
家庭科室で見た存在。あれがかりんとうを演じた怪物、でないことは奈河にもわかったということらしい。
偽物ならば、もっと上手に擬態するだろう。
本人の感情をあれだけ色濃く残していながら、もうその実態は人間えではない別の存在になりさがってしまっている。それを薄々自覚しているからこそかりんとうだったものは動揺し、一気に人の形を崩してしまったのだと思われる。
あれは、紛れもなくホンモノだ。
ただしもう、この空間から連れ出せる状態ではないが。
「人あらざるものの空間や、理が違う空間で、正気を保っていられる人間はそう多くはありません」
涼音は点を仰いで言う。
「多分、何かに襲われて……正気を失い続けた結果、あのような姿になってしまい、自分の名前も帰り道も失ってしまったんでしょう。あたし達もこのままここに居続けたら、同じ状態になるのは想像に難くありません」
「でしょうね……」
「もうかりんとうさんの救出は諦めるしかないッス。……今なら、うまくいけばこのまま元の道から帰ることもできるんじゃないでしょうか」
無論あの一階を突破できれば、の話だが。
「撮影した動画を配信できるかどうかは置いておいて……かりんとうさんの行方は知ることができましたしね。撤退しますか?」
「そうしたいのはやまやまなんだけどね」
頭をぽりぽり掻きながら言う奈河。
「かりんとうさんの動画で、この場所と入り方が広まってしまってる。……これ、入口封鎖だけでもしないと、どんどん人入ってきて状況が悪化しちゃうわ。……このまま放置して帰るのは寝覚めが悪いし、なんとかならないものかしら?」