ダーウはあたしの顔を見ると、嬉しそうに尻尾を全力で振った。
立ち上がって鼻先だけをこちらに突っ込んでくる。
「き——」
叫び声をあげかけたサラの口を塞ぐ。
無理もない。
ダーウは馬のようにでかい。知らなければ、猛獣に見えるだろう。
「きゅっきゅっきゅっ!」
同時にキャロから、小さめの警告の声が上がる。
従者が部屋の中を窺いにきたのだ。
一流の護衛だけあって、一瞬の悲鳴も聞き逃さないようだ。
「モー、サラッタラー、キャッキャ」
あたしは楽しそうに遊んでいるかのように演技した。
サラはきょとんとしている。
ダーウも慌てて窓の外で伏せをして隠れた。
あたしがはしゃぐ様子を見て、遊びの中であがった悲鳴だと考えたのか、従者は元の位置に戻った。
あたしの演技力が凄かったおかげだと思う。
「……たすかった」
「——!」
「サラ。さっきのでかい犬は、あたしのともだちのダーウという」
「だーう?」
呼ばれたと思ったのか、窓の向こうに隠れたダーウが再び顔を出した。
「そう、この子がダーウ。こわくないからだいじょうぶ」
「ダーウ。……ママから聞いたの」
「うん。ダーウはマリオンのともだちでもある」
「そうなんだ」
その頃には再びダーウは鼻先を窓の隙間に突っ込んでいた。
「かわいいね?」
「うむ。ダーウはかわいい」
サラはダーウとも仲良くできそうで安心した。
「ダーウ……なんでここにいるんだ?」
「ふんふん」
自慢げに鼻をふんふん言わせている。
きっと、あたしを追いかけて走ってきたのだ。
あとで、ダーウは怒られるに違いない。
そのときはあたしも一緒に怒られよう。
「ダーウ、たすかった。てつだって」
「ふん」
「ルリアさま?」
「ルリアはマリオンにあわないといけないんだ。協力してくれ」
「うつるの! だめ」
「だいじょうぶ。ルリアは特別だからうつらない」
嘘である。普通にうつる。
だが、そう言わないとサラは納得しないと思ったのだ。
「それは、すごいの」
サラは素直に感心してくれている。
マリオンを治すために近づくと言えば、すんなり協力してくれるだろう。
だが、もし失敗したら。
期待を持った分、サラのショックはとてつもなく大きくなるだろう。
もしかしたら立ち直れないかもしれない。
サラには「治せるかもしれない」ではなく「治せた」と伝えたい。
「サラ。しんだいで、ルリアといっしょに昼寝をしているふりをしてて」
「うん」
サラはもぞもぞとカビ臭い布団の中に入る。
「サラ、すこしまっててな?」
あたしは窓の隙間から外に出て、ダーウの背に乗った。
「ダーウ、はしって」
「……」
ダーウは無言で走り出す。やはり速い。
あたしはダーウの背中の毛を力一杯握ってしがみつく。
ダーウは、ほとんど一瞬で五十メルトを走った。
あっというまにマリオンが隔離されている小屋にたどり着く。
同時に小屋の屋根の上に守護獣の鳥たちが舞い降りた。
「ダーウ、まど」
小さなささやき声でお願いすると、
「……」
ダーウは無言で窓に近づいて止まってくれる。
前足を窓枠にかけて中を覗く。
「ダーウ、ありがと」
あたしはダーウの背をよじ登って、肩車のような状態になり小屋の中を窺う。
寝台に横たわって目をつぶる痩せこけたマリオンが見えた。
息をするのも辛そうだ。
顔は真っ赤で、顔や腕に腫れ物ができていた。きっと服で隠れている部分にも腫れ物ができているのだろう。
そして、なにより、全身が黒い靄に覆われている。
「……やっぱり、のろいだ」
だが、守護獣である鳥とダーウがいるが、何もしていない。
つまり呪いをかける呪者とやらは、この近くにはいないはず。
呪いだけが残っているのだろう。
クロはあたしには呪いを払う力があると言っていた。
生まれたばかりの頃を思い出す。
「たしか……」
記憶は朧気だ。何しろ生まれた直後のことなのだから。
普通は覚えていないことである。
だが、あたしには前世があるせいか、ほんの少しだけ覚えている。
「……気合いをいれて、あっちいけってかんじだった気がする」
「ふんふん」
「だめならまどをやぶるからね。ダーウそのときはたのむな?」
「ふんふんふん」
失敗したら、窓を破って、マリオンに直接触れて呪いを払って、治癒魔法をかけるしかない。
相当怒られるだろうが、マリオンの命の方が大切だ。
「いくよ」
あたしは小屋の外から窓越しにマリオンを包む黒い靄に向け「きえて!」と念じた。
強く強く、祈るように念じる。
体からなにかが抜けるような気配を感じた。
前世を通じても初めての感覚だ。いや、生まれた直後母の呪いを払ったときにも似たような感覚がしたような?
よくわからない。
「……これでいけたのか?」
「ふんふんふんふん」
ダーウも興奮気味で窓からマリオンの様子を窺っている。
あたしも窓の中を見てみると、マリオンを覆っていた靄は消え去っていた。
「せいこうかな?」
靄は消えても、まだ顔は赤いままだし、腫れ物も治っていない。
高熱も下がっていないし、呼吸も辛そうだ。
「えっと、ぜんせのときは……」
前世の頃は、離れた場所から、数十人にまとめて治癒魔法をかけたものだ。
前世ほどの力は使えないだろうが、少しでも似たことができればいい。
「せいれいたち、力をかして」
あたしがお願いすると、周囲に沢山いる幼い精霊たちが魔力を貸してくれる。
『まかせるのだ』
クロが突然、地面からにゅっと生えるように現われると、大きな魔力を貸してくれる。
「ありがと」
それを使って、壁越しにマリオンに治癒魔法をかけた。
『成功だね、これで大丈夫なのだ』
「クロ、ど——」
どうしてここに? どうして呪いだと教えてくれなかったの?
色々聞きたかったのだが、
『詳しい話はあとで。人の目があるのだ』
質問を遮り、クロは姿を消した。
あたしは周囲を見回した。誰にも見られていないと思う。
だが、いつ人が来るかわからない。
それにクロも成功だと言ってくれたので、マリオンは大丈夫だ。
そう信じて、あたしは祈る。
「マリオンが元気になりますように。サラがまってるからね」
治癒魔法を使った後、ほんの少しだけ疲れた気がした。
前世とは違い、なにかが抜ける感覚もした。
前世では、魔法を使ったら疲れたが、なにかが抜ける感覚というのはなかった。
「やはり、ぜんせのようにはいかないのだなー?」
「ぁぅ?」
念のために、もう一度、窓から中を覗くと、マリオンの顔色が普通に戻り、腫れ物も治っている。
熱も下がっているし、呼吸も楽そうに見えた。
おそらく、のどにできた腫れ物も治ったのだろう。
「これで、だいじょうぶだ。クロ、精霊たち、ありがと」
あとは、ちゃんとご飯を食べれば治るはず。
男爵は信用できないので、母に言ってマリオンにちゃんと栄養のある食べ物を届けてもらおう。
「マリオン、またね。鳥たちもマリオンのことをたのむな?」
それから、ダーウにお願いしてサラの部屋に戻ってもらう。
鳥は二羽ほど小屋の屋根の上に残ってくれた。
これで呪者が再び襲ってきても安心だ。
安心したら眠くなる。それにお腹も空いた。
あたしは窓枠を乗り越えて、サラの部屋に戻った。
「ルリア様……ママは?」
「マリオンはだいじょうぶだ。すぐなおる」
「……えへ」
サラは、あたしの言葉を疑うことなく、にへらと笑う。
「だからだいじょうぶ」
「うん、よかったの」
「あとで、おてがみかこ? それなら、マリオンにわたせる」
「……サラ……じがかけないの」
五歳なら、文字をかけなくても仕方がない。
「それなら、あたしがおしえてあげる。姉だから」
そうあたしはサラの姉のようなもの。
姉ならば、読み書きも教えてあげるのは当然だ。
「ぴぃー」
あたしとサラが話していると、寂しくなったのかダーウが窓の隙間に突っ込んだ鼻を鳴らした。
「ダーウありがと、たすかった」
あたしはお礼を言ってダーウを撫でる。
「はっはっ」
すると、ダーウは嬉しそうに尻尾を揺らす。
「サラもなでたいの」
「いいよ」
「でっかいねぇ」
サラはダーウの鼻先を撫でた。
ダーウ自慢のペタペタした黒い鼻を、サラは撫でる。
鼻を撫でられるのは、多分ダーウはあまり好きではない。
だが、ダーウは我慢して撫でられている。
「……ダーウ。そろそろ家にもどったほうが、いいかも?」
「ふんふん?」
「ここに来たことが、ばれたら叱られる」
「ぅっ!」
叱られると聞いて、はじめてその可能性に気づいたかのように、ダーウはびくりとした。
「きづいてなかったの?」
「ぴぃ」
「ダーウ。もしかして、散歩のとちゅうでにげてきた? それなら、にがした従者もこまっているし」
「きゅーん」
「あとで、いっしょにあやまりにいこうな?」
「ぴぃ〜」
ダーウは鼻を鳴らして甘えている。
その時「きゅっきゅっ!」とキャロが警戒音を出した。
それと、ほぼ同時に、
「あら? ダーウが来てしまったのね」
母が部屋の中に入ってきた。
母は警戒の任についていたキャロを抱き上げて、こちらに向かって歩いてくる。
「きゅ〜」
キャロはしょんぼりしているように見えた。
警戒音を出すのが遅れたことを反省しているのだろう。
「ば、ばれた……」
「ぅ」
サラはあたしの後ろにさっと隠れた。まだ人見知りしているのだ。
「ゎぅ」
ダーウは母を見た瞬間、窓の向こうに慌てて隠れた。
だが、もう遅い。
「もう。ダーウったら」
母はまっすぐに窓まで歩くと、窓の下をのぞき込む。
あたしも母と一緒に窓の下を見ると、
「ぁぅ」
ダーウは仰向けになり、服従のポーズをしていた。
「ダーウ。悪いことをしたことはわかっているのね」
「かあさま! ルリアがわるいの。ダーウはルリアがしんぱいで、きちゃっただけなの」
「わかっているわ、ルリア」
母はあたしを撫でると、窓の外のダーウに言う。
「ダーウ。私たちが帰るときに一緒に帰りましょう。しばらくその場で待機です」
「わふ?」
ダーウは体を起こして、尻尾を揺らす。許されたと思ったのだろう。
「ダーウ、叱るのは帰宅後です」
「きゅぅん」
「犬はすぐに叱らないと駄目なのだけど、ダーウは賢いからあとでいいわよね?」
「……きゅーん」
ダーウは尻尾を股の間に挟んでいた。
「心配しているでしょうし、ダーウがここにいることを屋敷にも報せてあげて。私が連れて帰るわ」
「畏まりました」
母は従者に指示を出した後、あたしの後ろに隠れたサラに屈んで語りかける。
「サラ、私たちの屋敷に来てくれないかしら?」
「…………お屋敷に?」
「そう、ルリアと私たちの屋敷に」
「……でも」
サラは自分の獣耳をぎゅっと握る。
「心配しなくていいわ。男爵は快く許可してくれたわ」
そういって、母はサラの頭を優しく撫でると、にこりと微笑む。
それは、先ほど男爵や侍女に向けていたものとは全く違う優しい笑顔だった。