「さて、うるさいのがいなくなったわね」
廊下に響く真くんの声が聞こえなくなった頃、紗夜さんがため息をついた。
「真が調子乗っていて、ごめんなさいね……」
「いえいえ、真さんはあれが素でしょうから……!」
私にはできないけど、真くんは何となく「ああじゃないと」って思える性格だよね。それが羨ましく思う時はあるけれど、元々あがり症の私には無理だろうな、って思ってる。
「それより、雛乃さん。大丈夫かしら? 今日少し顔色が悪い気がして。もし私で良ければ、話を聞こうと思って、真にお願いしたのだけれど……」
「えっ……?」
私が首を傾げると、紗夜さんは目をぱちくりさせた。
「だって、雛乃さんが考えているのは、きっと光さんの事でしょう? 光さんはともかくとして……雛乃さんはこの前と大分様子が、違う気がしたの」
うう、鋭い。もしかしたらみんなにもバレてたのかな……?
「私が気づけたのは二人の距離が近かったから、と言うのもあるかもしれないけれど。だから真にお願いして、光さんの相手を任せたのよ……まあ、漢文が壊滅的、と言うのは事実なんだけれども」
「事実なんだ……」
肩をすくめる紗夜さん。私は苦笑いだ。多分私の事も考えてくれたのだろうけれど、半分は真くんの事を思ってなんだろうな。
今のクラスは中学から一緒で……変わらず六年。
かけがえのない仲間だとは思っているけれど、どうしても誰かに相談するってできなかったんだ。距離が近いから……なのかな? 一人に相談すると、他の人が仲間外れに見えちゃって。
でも紗夜さんだったら、第三者の視点で見てもらえそう。それに話を聞いてもらうだけでも、心の整理ができるのかもしれないし。
……この場をわざわざ作ってくれた紗夜さんだ。話してもきっと受け入れてくれるはず。
「ねぇ、紗夜さん。今日の光くん、どう思った?」
私の漠然とした問いに、最初は目を瞬かせていた紗夜さんだったけれど、何も言わずに答えてくれる。
「そうねぇ……ますます磨きがかかったな、って思ったわね。真と違って、本当に王子様に見えてくるから不思議よね」
やっぱり紗夜さんも光くんが変わったという事に気づいていたようだ。
「私、周囲から『華の姫』なんて呼ばれているけど、あがり症だし、すぐ緊張するし……あだ名負けしているといつも思ってるんだ。だから、白の王子って呼ばれている光くんが、とても素敵だなって思っていたの」
私と違って、光くんはあだ名負けしていない。そう振る舞う姿が、いつも凄いなって思っていた。
「私も頑張ろう、と思って努力はしてきたつもり。いつかは光くんの隣に立てたらと思って……だけど、今日の光くんを見たら、頑張って近づいてきていた距離が、離れた気がしたの。ううん、元々近づいていなかったのかもしれない」
私がそう告げると、紗夜さんは目を見開いた。
「そう思ったら、ずっと心の中にモヤとして残ってしまって……ごめんね、紗夜さん。うまく言葉に表せなくて――」
「寂しいのよ」
「え?」
紗夜さんが私の言葉を遮って話す。
寂しい、という言葉が胸にストンと落ちてきたような気がした。
……そっか、私、光くんが先に走っていっちゃった気がして……寂しかったのか。
「ああ、話を遮ってごめんなさい。その気持ち、分かるわ……今でこそ、私も真とあんな感じだけれど、真が“ 黒の王子”と呼ばれた当初は、私も同じ事を考えていたわ」
今見ればとても仲良しに見えるのだけれど……二人にもそんな時期があったんだ。
確か紗夜さんと真くんは幼馴染で、ずっと昔から一緒にいたという話は聞いたことがある。特に真くんはコミュニケーション能力も高いし、フレンドリーだから……きっと紗夜さんも思うところがあったのかもしれない。
「真が黒の王子と呼ばれてから、私も距離を感じていたの。どんどん有名になっていく真に、つまらない事しか言えない私。あの時は……きっと気後れしちゃったのよね。私は距離を取った方がいいなって思って、一時期距離を取った事もあったわ」
意外な事実に目を見開く。紗夜さんにもそんな時期があったんだ。
「でもね、すぐに真に考えている事がバレちゃって。『なんでやねん、なんで距離とるねん! うちは……さよはんと一緒におりたいんや、アカンのか?!』って怒られちゃったのよ。その時に気がついたの。相手がどう思っているかなんて、その人に聞かないと分からないのよね」
私はハッとする。
「雛乃さんの寂しい気持ちも、すごくよく分かる。……でも、光くんの気持ち、ちゃんと聞いてみた?」
私は首を振る。そうだ、私はいつも「こうかもしれない」と思って行動を避けてきた。けど、もっと光くんだけじゃなくて、みんなの気持ちを聞いてみても良かったのかな。
私は紗夜さんに大切な事を気づかせてもらったな……。
「紗夜さん、ありがとう。光くんに直接訊ねられるかは分からないけど……覚悟が決まったその時には、聞いてみようと思う!」
まだ自分に自信がない私。だけど、歩みは止めちゃいけないよね!
「……まあ、向こうから教えてくれるとは思いますけど……」
「……? 紗夜さん、何か言った?」
「ああ、独り言だから気にしないで」
紗夜さんはにっこりと微笑んでくれた。私も釣られて笑う。
まだ寂しいという気持ちは胸に渦巻いているけれど、自分の気持ちを理解できた事が……ひとつの成長だと思いたい。
――その気持ちに折り合いをつけて、私は私なりに頑張っていけばいいんだ。
そう考えていたところ、遠くから光くんの声が聞こえた。
「真くん、漢文が苦手と聞いたけれど……基本のレ点とかを覚えていないだけじゃないか」
「そんなん覚えるん、めっちゃめんどいっちゅーねん!」
「……そうか。紗夜さんから依頼されたからには、きっちり教えるから……覚悟しておいてね」
「もうアカン〜〜! 助けてぇ、紗夜はん〜〜っ!」
私たち二人は廊下へと出てみる。すると、そこにいたのは光くんが真くんを引きずっている姿だった。
私はクスッと笑う。だって、さっきと反対だったから。
紗夜さんは真くんに向かって手を振っている。真くんはそれが見えたらしい。
真くんは紗夜さんの姿を、呆然と見ていた。
私たちは顔を見合わせて笑う。
すると紗夜さんは誰かの視線を感じたのか、後ろを振り返った。私も釣られて振り返るけれど、誰もいない。
「誰かいた?」
「いいえ、気のせいだったみたいね」
紗夜さんは首を振る。
私たちは真くんの叫びが消えていくまで、二人を見守っていた――。
視線を感じた
ああ、あれは……りおなさん、朱音さんと麗奈さんね。
「雛ちゃん、吹っ切れたっぽくな〜い? よかったじゃーん☆マジ安心〜!」
「うーん、うちらに相談してくれても、ぜんぜんよかったとに〜」
「雛ちゃんのことだから、私たちに気を使ったのかもしれないわね」
「麗奈ちゃんの言う通りやね。雛ちゃん、そーゆーとこ、めっちゃ気にする子っちゃけん」
「まあとりま、紗夜ちゃんはマジでグッジョブってことで〜☆イェイッ!」
私は雛乃さんに気がつかれないように、そっとグッドサインを送る。すると三人は満面の笑みで私にグッドサインを返してくれたのだった。