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第2話 ハードル

 伊月は放課後になることを心待ちにした。ホームルームの時間は、一刻も早く立ち上がりたくて、尻が椅子から浮いていた。伊月がこれまでクロッキー帳に描いてきた荒々しい海のスケッチは、父親からの期待に押し潰されそうになった時の逃げ場だった。


(長谷川くんが書ける!!)


 けれど今日は違った。


 チャイムが鳴ると同時に伊月は席から立ち上がった。群れているクラスメートたちをすり抜けて、廊下へと向かった。


「なに、今、走って行ったの大谷?」

「珍しいな」


 スクールバッグの中で筆箱がガシャガシャと音を立てた。伊月は階段を駆け降りる時間すら、もどかしかった。美術室に立ち寄りイーゼルを担いだ伊月は、熱気あふれる放課後のグラウンドで、陸斗が走る姿を初めて自ら描きたいと思った。あの日、陸斗が体育館の2階からカッターシャツを羽根のようになびかせて飛び降りた瞬間、伊月の心がざわついた。


「ここが、良いかな」


 伊月は葉桜の樹の影にイーゼルを準備した。淡い緑の葉が揺れるたび、父親の重圧から解き放たれたような軽さが胸に広がった。


(・・・・あ)


 部活棟から陸上部のユニフォームを着た少年少女が現れ、ストレッチ体操を始めた。伊月の視線は陸上部員の姿に見え隠れする、陸斗へと吸い寄せられた。赤いユニフォーム、長い手脚が眩しかった。


(長谷川くんだ・・・!)


 伊月はパステルを握りクロッキー帳を開いた。これまで海の荒々しさばかりだったページに、今、陸斗の生き生きとした線が生まれていく。伊月に気づいた陸斗は目を細め、肩をすくめるようにして笑った。その無造作な動きに、伊月のパステルの動きが止まった。


(なんだろう、この気持ち)


 伊月の胸の中にさざなみが立ち、むず痒さが広がった。すると、グラウンド110メートルの直線コースに、少年たちが10台のハードルを次々と並べ始めた。


(長谷川くんが走る!)


 スタートラインについた陸斗の顔は地面を見つめ、静かに息を整えていた。


『よーい』


 その瞬間、陸斗は獲物を狙う豹のような面差しでハードルを見据えた。白い旗が振り下ろされた。



 伊月の背中に電流が走った。



 葉桜の樹の影で、伊月は慌ててクロッキー帳の次のページをめくり、パステルを構えた。グラウンドの熱気とざわめきが、遠くで響いていた。陸斗の跳躍する姿を、鋭い線で捉えようと指が動いた。 


 1台目のハードルに向けて両腕を力強く振った陸斗は、鋭く脚を伸ばして跳んだ。着地する間もなく、もう片方の脚を後ろ横から滑らかに抜き、ゴールを目指して疾走する羽根が生えた豹のようだった。


 伊月の指先は感動で小刻みに震えた。陸斗の自由な跳躍は、父親の重圧に縛られた自分にはない輝きだった。


(羨ましい)


 どこまでも高い青空の下。白い旗が振り落とされ一着でゴールラインを颯爽と駆け抜けた陸斗は、膝に手をつき肩で息を整えた。滴る汗を手で拭い、腰に手を当てて大きく息を吸うと、陸斗は満足げな微笑みを浮かべて伊月に近づいてきた。


「どう?俺の絵、描けた?」


 伊月のクロッキー帳を持つ手は震えていた。


「・・・すごかったです。長谷川くんの走り、全部がすごかったです」

「は? 全部って何だよ」

「背中に羽根が生えてるみたいでした。ほんとに」


 陸斗は照れ臭そうな顔で髪を掻き上げた。すると、陸斗の汗と整髪料の匂いが伊月を包み、彼の胸は締め付けられた。


(いい匂いがする)


 伊月は、めまいのような感覚に襲われた。柑橘系の爽やかな香りが陸斗らしく、伊月は振り向いた彼の笑顔に釘付けになった。


「羽根は生えてねぇよ」


 陸斗は伊月からクロッキー帳を受け取り、ページをまくった。そこには、鋭い線で描かれた陸斗の跳躍する姿が、暗い海のスケッチに並んでいた。


「なんだ、おまえ。こんな絵も描くのか?」

「・・・時々」

「この海、めっちゃ荒れてるじゃん。なんか怖ぇな」


 陸斗は、伊月が描いた荒々しい海のスケッチを見て呟いた。伊月は目を伏せた。海のスケッチに込めた父親からのプレッシャーを、陸斗に見られたくない思いで、伊月はクロッキー帳をパタンと閉じた。


「俺、もう一本走るけど見てくか?」

「・・・・はい」


 そう答えた伊月は、葉桜の影のベンチに腰掛けると前屈みになり10台のハードルを眺めた。そのハードルは、自分の未来を見るようだった。次々と立ちはだかる試練が、父親の決めた道を押しつけるように並んでいた。


(会社を継ぐなんて、今は考えたくもなかった)


 伊月は、石川県でも有数の大手企業、大谷工業株式会社の後継者だ。彼はそのプレッシャーに押し潰されそうになっていた。そんな時、陸斗と出会った。グラウンドを颯爽と駆け抜ける彼の姿は、まるで自由そのものだった。




ガシャガシャーン


 伊月は、突然の衝撃音で我に帰った。葉桜の影からグラウンドを見ると、何台ものハードルの中に、陸斗が顔を顰めて倒れ込んでいた。


「おい!長谷川!大丈夫か!?」

「痛ててて」

「なに、よそ見してるんだよ!」


 陸上部のメンバーが慌てて集まる中、グラウンドに小さなざわめきが波のように広がった。陸上部顧問と、女子マネージャーが救急箱を手に走って来た。陸斗は後輩の肩を借り、よろめきながら立ち上がった。


(長谷川くん!)


 陸斗の膝には赤い血が滲んでいた。伊月はベンチから飛び上がると、胸を締めつける衝動に駆られ、一目散に陸斗へと走り寄った。


「大丈夫ですか!?」

「なんでもねぇよ」


 陸斗の白い羽根がもがれたような錯覚に、伊月の胸は痛んだ。自由そのものだった陸斗が、こんな風に倒れてしまうなど思いも寄らなかった。


「大丈夫だって、いつもの事だから」


 伊月は制服のズボンが砂まみれになることも気にせず、陸上部のメンバーに混ざってハードルをどかした。ひと足先にゴールした選手も、その様子を見に戻って来た。


「へへ、失敗こいたわ」

「・・・大丈夫ですか? 膝、血が・・・出ています」


 すると陸斗が真剣な表情で伊月の顔を覗き込んだ。


「おまえ、ベンチで暗い顔してたろ? 気になって、ちょっと力入っちゃったかな」

「長谷川くん・・・」

「なんでもないんならいいんだ」


 陸斗は脚を引きずりながら水飲み場へと向かった。伊月もそれに続き、陸斗が膝の砂を洗い流す姿を眺めていた。


「痛そうですね」

「こんなの普通だよ、そんな心配する事じゃないって。それより、なに考えてたん?」

「・・・・え?」


 伊月の声が小さく震えた。


「またカツアゲされたのか? あいつら、ほっとけよ」


 陸斗は痛みをこらえながら軽く笑って見せた。


「カツアゲはされてないです」

「その時はまた助けてやるよ。前みたいにさ。あいつら、陸上部を退部した、ただの弱い奴らだから」

「そうだったんですか」


 陸斗は蛇口をひねり、火照った身体を冷やすように、勢いよく水を頭からかぶった。夕暮れの光に、滴る水がキラキラと光を弾いた。グラウンド脇の水飲み場で、伊月はその姿に見惚れた。


「伊月、おまえのこと、伊月って呼んでいいか?」

「・・・え、はい」


 伊月は目を瞬かせた。


「俺のことは陸斗でいいから。長谷川くんとか、鳥肌立つわ」

「陸斗・・・くん」


 伊月の声は小さく震え、頬が赤らむのを感じた。水飲み場の水がコンクリートに落ちる音が、グラウンドの遠い歓声と混じり合っていた。


「なに、伊月、日焼けでもしたん?」

「え?」

「顔、赤いぞ」


 伊月は陸斗の、自分にない明るさに強く惹かれるのを感じた。


「なぁ」

「なんですか?」


 陸斗は、血が滲んだ膝を指差して朗らかに笑った。


「肩、貸してくんない?一緒に帰ろうぜ」

「・・・・え」

「なに?おまえ、なに変な顔してるんだよ?」


 首まで真っ赤に染めた伊月は、肩に担いだイーゼルを落としそうになった。


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