西日が差し込む生徒玄関で、伊月は下駄箱の黒い影を眺めていた。グラウンドからは野球部の掛け声が響き、八重咲の薔薇の香りが漂う中庭からそよ風が流れ込んだ。
(綺麗だな、今度・・・書こう)
伊月が、レンガ色のスモーキーローズを眺めていると、キュッキュッと内履きズックの靴底の音が近付いて来た。
「よお、お待たせ」
「陸斗くん」
「すげーだろ、これ」
陸斗の膝には、救急箱を抱えて飛び出した女子マネージャーが巻いた白い包帯があった。
「大丈夫ですか?」
「まぁ、ちょっと痛ぇかな」
痛みで顔を顰める陸斗の横顔に、ポニーテールの女子マネジャーの姿が重なった。陸斗の肌に触れ、至近距離で話す淡いピンクの唇。伊月の胸に重い塊が落ちていった。その感情が、なにを示しているのか伊月には見当もつかなかったが、やはり心はざわついた。
(なんなんだろう、この気持ち)
伊月が物思いに耽っていると、威勢の良い陸斗の声が生徒玄関に響いた。
「ちょ、脚が曲げれねぇんだわ。手伝ってくれ!」
「あ、は、はい!」
伊月は3-C組の下駄箱からローファーを取り出した。その革のローファーは傷ひとつ付いておらず、磨かれ艶めいていた。伊月が慌てて3-A組の下駄箱に行くと、マネージャーにこれでもか!と巻かれた包帯で脚を曲げることが出来ない陸斗が、田んぼのカカシのように壁に寄り掛かっていた。
「あいつ、下手くそなんだよ」
「あいつ?」
「女子マネの遠藤美樹、いつもああやって大袈裟に騒ぐんだよな」
また、伊月の胸にチクリと針が刺さった。
「遠藤さんと・・・仲が良いんですか?」
伊月はスニーカーを手に持ったまま、言葉を飲み込むように一瞬視線を落とした。
「遠藤とは、小学校から一緒だしな」
「そう、ですか」
伊月は陸斗の膝を曲げないように気を付けながら、姫君にかしずく従者のように泥だらけのスニーカーを履かせた。
(僕も、こんなスニーカーを履いて走りたい)
伊月の冴えない表情に、陸斗が声を掛けた。
「なに、また暗い顔しやがって、それ癖なん?」
「え、いえ。そんな訳では・・・痛そうだなって」
そこで陸斗が伊月のローファーを見て目を丸めた。
「なに、すんげぇピカピカな靴、履いてるんだな!」
「これは・・・・父が」
「父ちゃんの趣味か!カッコいいな!ウチなんてこれだぜ、これ!」
陸斗は茶色に変色した白のスニーカーを指差し、目を細めると肩をすくませて笑った。
(陸斗くん)
傾く夕日に照らされたその表情は眩しく、伊月は思わず目を逸らした。その時、『陸斗!おつ!また明日ね!』と夕日の芝生から、明るい少女の笑い声が響いた。それは遠藤美樹の声だったかもしれない。伊月は敢えて背後を振り向かず、スクールバッグの肩紐をぎゅっと握りしめた。胸のざわつきを押し殺すように、陸斗のバッグを担いだ。
「伊月、おまえ忘れてね?」
陸斗は伊月のスクールバッグを見て首を傾げた。
「なにをですか?」
伊月が不思議そうな顔をすると、陸斗は指で長四角を空に書いて見せた。
「スケブ?」
「あぁ、クロッキー帳ですか?」
「そうそう、それそれ。家に持って帰らねぇの?」
「・・・・父が」
陸斗は口を尖らせて眉間にシワを寄せ、伊月の髪をグシャグシャにした。突然の出来事に、伊月の胸は高鳴った。
「な、なんですか!」
伊月の肩はビクリと跳ね上がり、表情が強張った。
「おまえ、さっきから父ちゃん、父ちゃんってガキかよ!」
「それは・・・・」
陸斗の目は、どこか伊月の暗い表情を気にするように、揺れた。伊月は言葉を切り、磨き上げられたローファーに目を落とした。父親の期待を背負うその靴が、重く感じられた。
「そんで?クロッキー帳と父ちゃんが・・・なに?」
伊月と陸斗は、2人の会話を噛み締めるように校舎の階段をゆっくりと降りた。夕日が窓に反射し、擦り減った手すりに淡い光を投げかける。遠くのグラウンドから、野球部の掛け声が途切れ途切れに聞こえてきた。
(父が・・・)
伊月は戸惑いながらも、重い口を開いた。葉桜の並木が夕暮れの風に鳴き、伊月の心の騒めきを表しているようだった。
「父が・・・僕が絵を描くことを、反対しているんです」
伊月は階段の途中で立ち止まり、ローファーの先を見つめた。陸斗は一瞬言葉に詰まり、首を傾げた。
「なんだそりゃ」
「絵を描く時間があれば、勉強をしろと」
陸斗はうんざりした面持ちになり、伊月の首に回した手のひらで肩を叩いた。伊月はその動きに、飛び上がって驚いた。
「おまえ、父ちゃんの言いなりなんだな?」
伊月は唇を噛み、スクールバッグを担ぐ手に力がこもった。父親にクロッキー帳をゴミ箱に放り込まれた夜の記憶が、胸の奥でチクリと疼いた。陸斗は伊月の顔付きが変わったことに慌てて作り笑いをして見せた。
「あ、悪ぃ。つい本音が・・・・って、本音じゃ・・って!」
「良いんです、本当のことですから」
「俺はおまえの絵、嫌いじゃないぜ。父ちゃんに内緒で描いちゃえよ」
伊月は諦めにも似た、悲しげな笑みを浮かべた。校門を出た2人の頭上には、紺色のグラデーションが広がっていた。伊月の揺れる心を映すように、葉桜の並木道に街灯が淡い光を投げかけ、陸斗にも似た一番星が煌めいていた。
「で、おまえ、そんなに勉強してどの高校に行くんだよ」
伊月は、油彩画科のある県立工業高等学校への進学を希望していた。ところが、『金大附属以外に行くなら学費は出さん!』進路指導三者懇談で父親は声を荒げた。父親に敷かれたレールに従う自身を嘲笑するかのように、伊月は吐き捨てた。
「金沢大学附属高校です」
「マジかよ、金大って・・・すげぇな」
陸斗は足を止め口をあんぐりとさせたが、すぐにニヤリと笑った。
「・・・・・」
「俺なんかどこでもいいや、進学校なんて絶対無理だわ」
「でも、僕は・・・行きたい訳じゃありません」
伊月は唇を噛んだ。油彩画のテレピン油の臭いを思い出し、それを父親が踏みにじった。
「・・・・そっか、おまえも大変だな」
葉桜の並木道を歩く2人の足元に、街灯がポツポツと点り始めた。アスファルトに伸びる伊月と陸斗の影は寄り添い、まるで陸斗が伊月を支えているようだった。遠くのコンビニエンスストアの看板が、夜の始まりを明るく照らしていた。
「陸斗くんの家はどこですか?」
「
「ああ、近いですね!僕は
寺町の住宅街を抜ける道で、行き交う自動車の白いヘッドライトが眩しく2人を照らし出した。歩行者用信号機が青の点滅から赤へと変わる。
「近いかよ、バス停ふたつは違うだろ」
「ふたつしか違いませんよ」
「俺、ここからひとりで帰るわ」
陸斗は片足を引きずりながら目を細めた。伊月は陸斗の怪我を心配したが、それ以上に離れ難い気持ちが胸を締めつけた。遠藤さんの明るい声が頭をよぎり、腰に回した手に思わず力が入った。
「送って行きます」
「そ、そうか?」
陸斗は痛みを庇いながら、照れ臭そうに笑った。
「はい」
伊月からは断り難い力強さを感じ、陸斗はその言葉に甘えた。自動車の赤いブレーキランプが点り、歩行者用信号機が青にかわった。
「陸斗くん、渡りますよ」
「おう」
足を踏み出したその瞬間、陸斗の足が車道と歩道の境目にある縁石に乗り上げた。身体のバランスを崩した陸斗の腕は伊月の首からスルリと離れ、アスファルトへと崩れ落ちそうになった。
「危ないっ!」
「うわっ!」
伊月は肩に担いでいたスクールバッグを放り出した。筆入れの中の鉛筆がガシャガシャと音を立て、歩道に叩き付けられた。伊月の心臓は一瞬跳ね、両腕は咄嗟に陸斗を抱き締めていた。指先に縁石の冷たいコンクリートを感じた。陸斗の柑橘系の整髪料の香が包み込んだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
「おまえこそ、怪我ねぇか!?」
「大丈夫です」
腕の中に感じる陸斗の程よい筋肉質の胸と身体の重み。伊月は緊張で額に汗が滲み、鼓動は早鐘を打つように乱れた。
「わ、悪い。もう大丈夫だから」
「アッ!すみません!」
伊月は放り投げたスクールバッグを拾い上げると、肩に担いだ。そしてもう片方の肩に、軽々と陸斗の腕をまわした。
「重いだろ」
陸斗は、伊月の腕の力強さに一瞬目を丸くした。そして、気遣う声にかすかな照れが混じっていた。
「そうでもありません」
泉野の街灯もまばらな住宅街を、伊月は別れを惜しむようにゆっくりと歩みを進めた。木造家屋の建ち並ぶ、細い路地には焼き魚や煮物の匂いが漂っていた。その匂いが、伊月の胸に一瞬、父親との冷たい食卓を思い出させた。
「なぁ、俺んちでメシ食っていかねぇ?」
陸斗は笑ったが、怪我の足を気にするように一瞬目を伏せた。
「お前と話すと、なんか気が楽なんだよ」
「えっ」
目を細めて口角を上げる陸斗の言葉に、その冷ややかさは遠のいていた。