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第4話 温かい家庭

 長谷川と表札が掲げられた和風家屋には、木造製作所が併設されていた。杉独特の清々しい香が、伊月を出迎えた。伊月は、陸斗の肩を支え中学校から自宅までの道のりをゆっくりと歩いた。街灯がポツポツと照らす夜の路地を抜け、大通りに面した長谷川家の玄関の扉を開けたのは、午後6時半を過ぎていた。


(・・・塾が終わるのは8時)


 伊月は、陸斗に夕飯を一緒に食べないかと誘われた時、塾を無断で休もうと考えた。小学校5年生から通い続けた塾を、1日たりとも休んだことはなかった。これは、初めての父親への反抗心だったのかもしれない。それに、なにより陸斗の無邪気な笑顔は、初めて教室で話しかけられた日の記憶を呼び起こした。伊月は、陸斗とのときめく時間を手放したくなかった。父親の厳しい声が頭に響いたが、伊月はそれを振り切った。


「ただいま!」


 陸斗の明るい声に、伊月は彼の家族を想像した。


(陸斗くんの家族、やっぱり明るいのかな)

「母ちゃん!友だち連れて来た!」


 陸斗は、伊月の肩に掴まりながら、泥だらけのスニーカーを玄関先で脱いだ。


(うわ・・・すごい)


 そこには、靴箱に入りきらない薄汚れた長靴やサンダル、ピンク色の可愛らしいズックが散乱していた。


(た、たぬき?)


 靴箱の上には、木彫りのたぬきが飾られ、うっすらと埃が積もっていた。傘立てには、キャラクターがプリントされた短い傘が3本並んでいた。その様子を見た伊月は、長谷川家の賑やかな暮らしを感じた。


「ほら!入れよ!ってこれじゃ、ピカピカの靴は脱げねぇか」


 陸斗は、隅々まで磨き上げられた伊月のローファーを指差した。そして、賑やかなテレビの音が響くリビングへと振り向き、声を張り上げた。


「恵美!百合香!莉子!靴、片付けろって!」


 リビングから飛び出してきた三人の少女は、ランドセルが似合いそうな年頃だった。ショートボブの髪を揺らし、陸斗そっくりの笑顔で駆け寄ってきた。


「お兄ちゃん!おかえり!」


 3人は勢いをつけて陸斗に飛び付いた。彼は膝の怪我の痛みに顔を顰めながら、その頭をくしゃくしゃに撫でた。そして、ニヤリと笑って伊月へと振り向いた。


「びっくりしたろ?」


 少女たちは手際よく靴を端に避け、得意げにしていた。


「妹なんだ、うるせえんだよ」

「うるさくないもん!」

「ほら、ウルセェだろ?」


 兄弟のいない伊月にとって、この賑やかな光景は新鮮だった。妹たちの賑やかな笑い声に、伊月は自分の家を思い出した。エミール・ガレのランプが点るリビングはいつも静かで、家政婦が洗濯物を片付ける音しか聞こえない。


「お兄ちゃんのお友だち?」

「そうです」

「カッコいいね!」


 陸斗の妹のひとりが目を輝かせ、制服のカッターシャツを握った。シャツには脂のシミが付いた。彼女は咄嗟に手を離したが、5本指の跡はくっきりと残った。


「あっ!ごめんなさい!」

「いいよ、クリーニングに出すから」

「こら!恵美!なにしてんだよ!」


 陸斗がゲンコツを作ると彼女は頭を庇いながらキッチンへと飛び込んだ。すると入れ違いに、ショートヘアの陸斗の母親が、キッチンペーパーを握ったまま、日に焼けた笑顔で伊月を見た。『あらら、まぁまぁ、確かにカッコいいわね』と、陸斗そっくりの口調で笑った。そして彼女は陸斗の顔を凝視すると、口を尖らせて吹き出した。


「あんた、やっぱり猿みたいよね」

「母ちゃん!なに言ってんだよ!」


 母親は目を細めると口角を上げ、伊月へと微笑んだ。


「いらっしゃい、陸斗のお友だち?」

「はい、大谷伊月です。突然、お邪魔して申し訳ありません」


 陸斗の友だちと呼ばれる度に、伊月の胸がチクリと痛んだ。あの日の、白い鳥のように舞い降りた姿、桜散る中の鋭い目つきに、ただの友だちを超えた何かを感じさせたのに、伊月はそれを言葉にできなかった。


(陸斗くんは・・・友だちだよ、なに考えてるんだ)


 伊月はこれまで感じたことのない感情に戸惑いを感じた。


「おい、伊月!おまえも手伝えよ!」

「・・・アッ・・・はい?」

「餃子、作ってるんだ」

「ぎょ、餃子?」


 伊月は陸斗に声を掛けられ、ハッと我に帰った。


「こっち、こっち」


 通されたキッチンのテーブルには、餃子の皮がズラリと並べられていた。陸斗の妹たちは、餃子の具をおぼつかない手付きで皮に乗せ、真剣な顔で包んでいた。恵美はニラの匂いを気にせず豪快に具を詰め、百合香は慎重に皮を折りたたんでいた。莉子はまだ具をこぼしながら、得意げに笑った。


(餃子だったのか)


 伊月がカッターシャツのシミの臭いを嗅ぐと、確かにニラの匂いがした。


「ほら、手ぇ洗えよ」


 伊月が手を洗うと、陸斗がその袖をまくった。腕に触れる陸斗の指先に、伊月は緊張で息を呑み込んだ。


「なに変な顔してんだよ」

「・・・餃子、初めて作るんです」

「簡単だよ、教えてやるから」


 ところが、力加減を知らない陸斗の餃子の皮は次々と破れ、手先の器用な伊月の餃子は形も整い丁度良い大きさで皿の上に並んだ。それを見た妹たちは、陸斗の不器用さを面白おかしく囃し立てた。


「こいつ、美術部なんだよ!だから器用なんだよ!」

「そうなの?大谷くん、美術部なの?どんな絵を描いてるの?」

「それは・・・・」


 伊月は、父親の圧から逃れるために描いた荒く激しい海の絵を思い出した。その横顔には翳りが見て取れ、陸斗は餃子を包む手を止めて顔を覗き込んだ。


「俺の絵を描いたんだよな?」

「・・・・・あ」

「そうなんだよ!今日、走ってるとこ描いてもらったんだよ!」


 今日、陸斗が走る姿をスケッチしたのは、伊月が初めて心から自由を感じた瞬間だった。羽根が生えたようにグラウンドを駆ける陸斗の姿に、伊月の胸が逸った。それは、友だちを超えた、名前のつけられない熱だった。その時、なにかが芽生えた。


「どんな絵なの?見たい!お兄ちゃん見せて!」

「おまえには、まだ分かんねぇよ」


 妹たちは飛び上がって、伊月のクロッキー帳を見せて欲しいと強請った。けれどそれは美術部の棚の中に眠っている。伊月の父親は、伊月が絵を描く事を禁じていたからだ。


「また、今度ね」

「うん!絶対!絶対だからね!」

「分かりました」


 伊月は唇を少し噛みながら、妹たちに微笑んで見せた。その様子を微笑ましく見た母親が、棚からフライパンを取り出した。



ジュワッツ



 フライパンで油が跳ね、餃子が次々に並べられていく。それは円形を描き、ひまわりの花のようだった。油が跳ねる音に、伊月は目を丸くした。自分の家では聞くことのない、生き生きとしたキッチンの喧騒に、胸が温かくなった。


「はーい!第一弾の出来上がり!」


 フライパンの餃子は香ばしい匂いで焼き上げられ、手品のように皿に裏返された。伊月はその手際の良さに目を奪われた。ただ、ガスコンロの火力が強かったようで、餃子の端は焦げていた。それでも母親は、エプロンで手を拭きながら、『炭は身体に良いんだから!』と笑った。


「アッ!母ちゃん!それ乗せるのかよ!」


 餃子の中心には、茹でたもやしが山盛りになっていた。それを見た陸斗は眉間にシワを寄せ、口をへの字にした。伊月がどうしたのか尋ねると、『浜松餃子風なんだってさ』と言いつつ、取り皿と酢醤油を並べ始めた。妹たちは箸を手に取った。


「あれ、母ちゃん、父ちゃんどうしたん?」

「町内会の寄り合い」

「なんだよ、飲み会かよ」


 伊月は、リビングのローテーブルに座るように陸斗に肩を叩かれた。叩かれた部分が熱い、箸を握る伊月の指先が震えた。そこで妹たちが、伊月の隣に我先に座ろうとおしくらまんじゅうをし始めた。


「あんたたち!大谷くんが困っているでしょ!」

「は〜い」


 妹たちは肩を竦めた。陸斗はもやしを眺めながら、渋々、膝の傷を庇うようにローテーブルに座った。


「いてて」

「大丈夫ですか?」


 伊月は箸を握り直した。目の前には、もやしを口に入れて不満げな陸斗がいた。伊月は思わず笑みを浮かべた。


「美味しいですよ?」

「この、グニュって味がないのが苦手なんだよ」


 フライパンを火にかけ、次の餃子を並べ始めた母親が陸斗を振り返った。


「好き嫌いしないで食べなさい!」

「こんなもんに栄養とかあるのかよ」

「あります!」


 陸斗は恨めしそうな目で母親の背中を見た。伊月はそんな横顔すらクロッキー帳にパステルで描き留めたいと思った。伊月が3個目の餃子に箸をつけた時、玄関の扉が勢いよく開いた。


「おばさん!食べに来たよ!」

「あら、美樹ちゃん。おかえりなさい」


 廊下を軽い足音で歩いて来たのは、陸斗の幼馴染で陸上部マネージャーの遠藤美樹だった。ポニーテールを揺らし、まるで家族のようにキッチンに飛び込んできた。


(遠藤さん・・・)


 伊月の箸が一瞬止まった。陸斗の横顔をスケッチしたい気持ちが、遠藤美樹の登場で揺らいだ。

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