陸斗に夕食に誘われた伊月が餃子を口に運んでいると、玄関の扉が勢いよく開き、ポニーテールを揺らす遠藤美樹が軽快な足音でキッチンに飛び込んできた。『おばさん、こんばんは!来ちゃった!』その声に、伊月の箸が一瞬止まった。
「あら、美樹ちゃん。ちょうど焼けたところだから、たくさん食べて」
遠藤美樹と陸斗の母親とのやり取りから、彼女が長谷川家と近しい間柄である事が窺えた。遠藤美樹は陸斗をからかうように、ニヤニヤと笑いながらダイニングテーブルに座った。そんな遠藤美樹の姿に、陸斗は声を張り上げた。
「美樹!なに勝手に入って来てるんだよ!」
「おばさんから、餃子食べにおいでってLIMEあったし」
(陸斗くん、遠藤さんのこと・・・美樹って呼ぶんだ)
伊月の心はざわついた。満面の笑みの遠藤美樹は、熱々の餃子を摘むと一口で頬張った。
「調子こいてんじゃねぇし」
「隣に住んでるんだから来るの当たり前じゃん」
2人の会話に、箸を置いた伊月は目を伏せた。そして、遠藤美樹が隣に住んでいることを知り、伊月は胸はチクリと痛んだ。すると、リビングテーブルに座る伊月を見つけた遠藤美樹は、目を丸くして驚いた。
「なんで大谷くんが、あんたの家にいる訳!?」
遠藤美樹は伊月ににじり寄ると、その面差しを穴が開くほど眺めて溜め息を吐いた。『大谷くんって、ほんとに綺麗な顔してんじゃん』遠藤美樹はニヤリと笑い、陸斗に振り向いた。
「大谷くんと並ぶとあんた、マジ猿よね!?」
「なんだよ!母ちゃんも美樹も、俺は猿じゃねぇ!」
陸斗は眉間にシワを寄せ、声を大にした。
「大谷くんの美しさに比べれば、あんたは猿」
「なに?おまえ、伊月のこと知ってんのか?」
遠藤美樹は2個目の餃子を頬張り、烏龍茶でそれを流し込んだ。陸斗の3人の妹たちは彼女に懐いているらしく、恵美は背中にぶら下がり、百合香と莉子はポニーテールを触ったりしている。遠藤美樹はもやしを噛みながら、呆れた顔をした。
「そりゃ、休み時間に屋上に行ってる”ぼっち”には、分かんないよね」
「俺は”ぼっち”じゃねえ!うるせぇのが嫌なんだよ!」
一時期、伊月は陸斗を探してクラスを訪れていた。けれど、いつ行っても会えず仕舞いだった。それが屋上で休んでいたと知り納得したが、その行動を遠藤美樹が把握していたことがショックだった。
(当たり前だよ、幼馴染なんだから)
そんな伊月の思いを置き去りにして、陸斗と遠藤美樹は言い争っていた。
「なんだよ、分かんないって!」
「3-C組の大谷伊月といえば、ミステリアスな美しさで学年人気NO.1なんだからね!」
「え、そうなの!?」
陸斗が振り返ると、伊月は顔を赤らめ下を向いていた。本人にもその噂は届いていたが、学年で人気NO.1。どこに行っても注目され、それは少し重たく感じていた。遠藤美樹は興味津々で、リビングテーブルで前のめりになった。
「大谷くんは、陸斗とどこで知り合ったの?」
(陸斗って呼ぶんだ)
「それは」
伊月は目を逸らした。遠藤美樹の明るい声が、なぜか胸にチクッと刺さった。
(遠藤さん、なんだか苦手だな。陸斗くんとあんなに話せるなんて、ずるい気がする)
以前、伊月は素行の悪い同級生から、五千円札を巻き上げられそうになっていた。その時、伊月は陸斗に助けられた。それが2人の出会いだった。伊月は、陸斗が取り返してくれた五千円札を、そっと生徒手帳に忍ばせていた。
「ねぇ、どこで知り合ったの?」
「あの・・」
伊月は言葉を濁した。この思い出は、陸斗と自分だけの宝物で、遠藤美樹に踏み込んでほしくなかった。気が付けば、胸の生徒手帳をギュッと押さえていた。
「山田だよ」
陸斗の軽い言葉に、伊月は振り向いた。すると陸斗は冷えた餃子を頬張りながら、得意げに笑った。そして、伊月の顔をじっと見る目には、どこか懐かしいものを感じた。
「こいつ、山田たちからカツアゲされてたんだよ」
「山田?退部した、あの山田?」
遠藤美樹は目を輝かせた。
「そそ」
伊月を脅していたのは、喫煙行為で陸上部を退部させられた山田という名の同級生だった。その日、体育館の2階の窓には人だかりが出来ていた。陸斗がその群れを掻き分けて見ると、数人の生徒が1人の少年を囲んでいた。それが伊月だった。
(また山田かよ!)
陸斗は父親から、”男は強くなくてはならない”、”不公平や不正を見過ごしてはならない”と幼い頃から言い聞かされて来た。陸斗は、山田たちから伊月を助けるため、体育館の窓から飛び降りた。あの姿が、今も伊月の胸に焼き付いている
(あの時はびっくりしたけど)
伊月は、遠藤美樹の『それって、カッコ良すぎない?』という声で、我に返った。遠藤美樹はポニーテールを指でくるくる巻くと、肩を竦めて笑いながら伊月を見た。
「まじ?カッコ良すぎない?ね?」
「・・・・・」
伊月は同意を求められたが、素直に頷くことが出来なかった。遠藤美樹は伊月の顔を覗き込み、軽く笑った。伊月は、胸のざわつきに言葉を飲み込んだ。
「そういえばさ!」
遠藤美樹は陸斗へと向き直った。突然、振り向かれた陸斗は驚いて顔を赤らめた。伊月はその瞬間を見逃さず、不安が胸を締め付けた。伊月は、いつも誰かと親しい人を見ると、取り残される気がしていた。
(まさか、陸斗くんは・・遠藤さんのことが好きなの!?)
遠藤美樹は、包帯が巻かれたその脚に、心配そうに視線を落とした。
「あんたさ、その膝・・・大丈夫なの?」
陸斗は今日の部活動中に激しく転倒し、膝に怪我を負った。その処置をしたのが、マネージャーの遠藤美樹だった。彼女は酷く慌てふためき、大袈裟なほどに包帯を巻いた。
「おまえ、巻きすぎなんだよ」
「なによ、心配してやってんのに!」
「これじゃ膝、曲げれねぇだろ!」
遠藤美樹は、陸斗の背中を軽く叩き、2人は顔を見合わせて笑い合った。そして遠藤美樹は拗ねたような面持ちで、『待っていてくれれば一緒に帰ったのに!』と唇を尖らせ頬を膨らませた。
「おっ、女なんかと帰れるかよ!」
「私と陸斗の仲じゃない、なにを今更、恥ずかしがってんのよ」
「うるせえ!」
陸斗は耳まで赤くして、遠藤美樹の言葉を遮った。
「で?誰と帰って来たの?」
「こいつ」
陸斗は伊月を指差した。遠藤美樹は、意外そうに伊月を凝視した。
「へぇ、大谷くんと帰って来たんだ」
「なんだよ、悪ぃかよ」
遠藤美樹は、伊月がクラスメイトと関わらず、いつもひとりで絵を描いていることを耳にしていた。
「噂と違うなって思って」
「噂?」
「そ、噂」
その言葉に、伊月は遠藤美樹の明るさの裏に、どこか自分を試すような視線を感じた。それからも、陸斗と遠藤美樹は楽しげに会話を続けた。伊月は居心地の悪さと孤独感に苛まれ、そっと生徒手帳の角に触れた。
トントントン
キッチンから軽やかな包丁さばきの音が聞こえて来た。その音が、伊月の孤独感を拭い取り、少しばかり安堵した。『はい、デザートよ』母親がリンゴの皮を剥いてリビングテーブルの上に置いた。それは可愛らしいウサギの形をしていた。
「お兄ちゃん、美味しいね」
「美味しいね」
伊月は作り笑いでリンゴをかじったが、舌の上に残るそれはどんな味なのか分からなかった。和紙に染みるようにドス黒い感情が広がるのを感じた。
(遠藤さんと陸斗くん・・・もう、見ていたくないな)
すると、遠藤美樹が爪楊枝を持ち、それをリンゴに突き刺した。そして、陸斗の口元に差し出した。
「はい、あ〜ん」
「なにやってんだよ!」
陸斗は伊月の表情の変化に気付き、遠藤美樹の手を振り払った。
「いつもしてるじゃん」
「してねぇよ!」
伊月は、遠藤美樹が自分をチラリと見たような気がした。伊月は俯き、唇を噛むと膝を手のひらでギュッと握った。
「はい!食べなさいよ!」
「自分で食えるって!やめろよ!恥ずかしいだろ!」
伊月の指先は震え、頭の中が真っ白になった。そこで携帯電話のアラームが鳴った。伊月が通う塾が終わる午後8時を知らせるものだった。伊月は、この場から解放される安堵の息を吐いた。
「陸斗くん、もう遅いから帰ります」
「あ、そうなん?」
「門限があるので」
伊月の父親の厳しい眼差しが脳裏に浮かんだ。
「そうなんだ、バイバーイ」
遠藤美樹は屈託のない笑顔で手を振った。伊月は、陸斗と遠藤美樹の戯れる姿から目を逸らし、『ごちそうさまでした。美味しかったです』と立ち上がった。ニラの匂いが立ち込めるキッチンを覗くと、エプロンで手を拭きながら母親が目を細めて笑った。
「また遊びにおいでね」
「ありがとうございます」
伊月は、遠藤美樹の赤いサンダルが玄関に揃えられているのを見つけ、まるで自分の居場所がそこにないかのように胸が締め付けられた。
「じゃあ、また明日な!」
陸斗は目を伏せ、言葉を探すように口を開きかけたがそれは見つからず、伊月へと手を振った。
「気を付けて帰れよ!」
「はい、また明日・・・おやすみなさい」
その背後には、口角を上げる遠藤美樹の姿があった。その笑顔に息を呑んだ伊月は踵を返し、泉野の大通りを足早に自宅へと向かった。陸斗の笑顔と遠藤美樹の赤いサンダルが頭から離れず、生徒手帳の五千円札にそっと触れた伊月は、涙をこらえて歩き続けた。