伊月は、陸斗の自宅からバス停ふたつ離れた自宅、いやそれは、邸宅と呼ぶべき建物の、門前に立っていた。そこには陸斗の家で感じた賑やかで温かな雰囲気は欠片もなく、ひっそりと静まり返り、いつもに増して冷たさを感じた。伊月にとって、美しい針葉樹を囲う鉄格子は、檻のようにも思えた。
ピンポーン
伊月がインターフォンを押すと、『はい』と家政婦の雅子さんの落ち着いた声が事務的に響いた。カメラの視線を感じる間もなく、人感センサーがカチリと鍵を解除した。セキュリティー対策は万全だ。手にするとヒヤリと冷たいアルミ製の玄関扉、中に入ればアルミニウムの窓枠、味気のない遮光ガラス。亡くなった母が愛した、エミール・ガレのランプがやわらかな灯りを点しているが、その光は温もりを映さず冷え冷えとしていた。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさいませ、リビングで旦那さまがお待ちです」
伊月が階段を上ろうと段に足を掛けた瞬間、雅子さんの背後から突き刺さるような視線を感じた。伊月の脇にジワリと汗が滲んだ。この時間帯に、父親が帰って来ることは珍しい。なにがあったのだろうかと、恐る恐る脚を進めた。フローリングの冷たさが足裏から伝わり、リビングからは微かなアルコール消毒液の匂いがした。リビングのドアノブに手を掛けると静寂を切り裂く、『伊月、帰ったのか』と地を這う蛇のような声が響いた。
「ただいま帰りました」
「入りなさい」
伊月はその厳しい声色に息を呑んだ。
「はい」
黒い革のソファーにどっしりと腰掛けた父親、
「お父さん、遅くなってすみません」
「座りなさい」
「はい」
伊月がソファーの端に腰掛けると、翔吾の顔付きが厳しいものに変わった。
「伊月、おまえは何処から帰って来たんだ?」
「じゅ・・・塾からです」
「なんでこんなに遅いんだ」
「補習があったんです」
翔吾の鋭い視線が伊月を貫き、思わず声が上擦った。
「嘘を言うな」
「嘘じゃありません」
伊月は目を伏せ、膝を掴むと言葉を震わせた。
「塾の講師から連絡があった」
「・・・・え」
「おまえが塾に来ていないと言っていた」
伊月の背中は自然に伸び、制服のズボンにシワが出来るまで強く握った。そして、驚きの表情で翔吾を凝視した。
「僕のことを・・・監視していたんですか?」
「人聞きの悪い事を言うな、大事な一人息子だ。なにかあっては困るからな」
こうして伊月は、夜毎、翔吾から『おまえは大谷の次期社長だ』と言い聞かされて来た。その重圧は、まだ中学生の伊月にとっては計り知れないものだった。そこで伊月はパステルを握り、クロッキー帳に日本海の荒々しい海を描き、父親の声が届かない世界を創り上げていた。
(・・・そんな)
翔吾の目が伊月の服に止まり、鼻をひくつかせた。
「おまえ、なんだその臭いは」
「・・・・え」
それは、陸斗の家で食べた手作り餃子のニラの臭いだった。伊月の脳裏に陸斗や陸斗の母親の笑顔がよぎった。
「それは何処でつけて来たんだ」
「これは」
潔癖症の翔吾は、消臭スプレーのボトルを取り出すと、『その臭いをなんとかしろ!』と怒鳴りつけた。伊月はおずおずと立ち上がり、消臭スプレーのハンドルを握った。スプレーの冷たい感触が、陸斗の家の温もりを消し去るようだった。
「まさか一般人の家に行ったんじゃないな?」
「一般人・・・」
その言葉に、スプレーを握った伊月の指先が震え、拳を握った。
「おまえは選ばれた人間なんだ!一般人の家に出入りするなど以ての外だ!」
翔吾の激しい言葉に、伊月の胸が締め付けられるように疼いた。陸斗と一緒に作った歪な形をした餃子、餃子を焼く陸斗の母親の笑顔、足元にまとわりつき戯れる陸斗の妹たち。妹たちの笑い声は、伊月が知らない家族の絆を思い出させた。
(一般人って、なんだ?)
翔吾の横柄な言動に、伊月は家族の団欒が踏み躙られたような気がした。
「どうなんだ!」
伊月は唇を噛み、スプレーを握ったまま立ち尽くした。すると、翔吾は伊月の手首を捻り上げ、指先を凝視した。
「痛っ!」
翔吾の顔色がみるみる赤らみ、眉が吊り上がった。
「これはどう言うことだ!」
伊月の爪の間に、薄っすらと黒い色が見て取れた。それに気付いた伊月は咄嗟に翔吾の手を振り払った。それはパステルだった。翔吾は、伊月に絵を描くことを禁じていた。
「そんなものを描く暇があれば勉強しろ!」
翔吾は伊月のスクールバッグを奪い取ると、勢いよくファスナーを開けた。
「アッ!」
スクールバッグの中には、教科書やノート、筆箱が入っていたが、その他に翔吾には決して見られてはならない物も入っていた。それは、スケッチをする時に使うパステルだった。
「まだこんな下らんものを持っていたのか!」
翔吾はパステルを掴むとゴミ箱に投げ入れた。パステルがゴミ箱に落ちる音に、伊月の胸は張り裂けそうだった。そこで一枚の紙が絨毯の上にハラリと落ちた。
(それは!)
それは、伊月が素行の悪い生徒に絡まれていた時、陸斗が体育館の2階から飛び降りて助けてくれた時のイメージ画だった。
「なんだこれは!」
凛々しい眼差し、噛んだ唇、風をはらんだカッターシャツは白い羽根に見えた。その絵は、伊月と陸斗の絆そのものだった。伊月の心臓が一瞬止まった。
「お父さん!やめて下さい!」
翔吾はその絵を拾うと両手で持った。伊月の手が震え、喉が詰まった。精一杯手を伸ばしたが間に合わず、次の瞬間、羽根を生やして宙を舞った陸斗はビリビリと破られた、その破片は、伊月の心そのものを砕いた。
「あ、あ」
「男が男を描くなど気持ちが悪い!」
伊月は雪のように舞う陸斗を掻き集めようと座り込んだが、翔吾の視線に凍りついた。悔しさで伊月の指先は震え、項垂れた。そこに翔吾の脚が振り下ろされ、彼の足は非情にも陸斗を踏みにじった。
「お父さん!やめて下さい!」
舞い散る紙の中で、怒りに震えた伊月は顔色を変え、ゆっくりと立ち上がった。伊月の身長は、いつの間にか翔吾をはるかに超えていた。
「な、なんだ。文句があるのか!」
「・・・・・・」
翔吾は声を大にして、伊月へと詰め寄った。
「文句があるなら言ってみろ!」
伊月の怒りは頂点に達し、指先から身体中に燃え広がった。襟元を掴む瞬間、陸斗の笑顔が伊月の胸を突き刺し、怒りと希望が交錯した。
(陸斗くん!)
伊月は、視界が滲むのを必死に堪えた。そして伊月の大きな手はスーツの襟元を掴むと捻り上げた。
「お、おい!なにをするんだ!」
伊月はこのまま翔吾の首を締め上げたい衝動に駆られたが、大きく息を吸い呼吸を整えると、彼を黒革のソファーへと座らせた。
「こんなことをしても良いと思っているのか!」
伊月はソファーで小さくなる父を見つめ、震える声で一言だけ呟いた。
「お父さん、僕は社長になります。でも、2度とこんなことはしないで下さい」
伊月は陸斗の破片を丁寧に拾い集めた。破片を拾う手は、陸斗が与えた自由を握りしめるようだった。
「い、伊月」
伊月はゴミ箱からパステルを取り出した。パステルは粉々に崩れていたが、ただ1本のパステルは原型を留めていた。そのパステルは亡くなった母親が大切にしていたランプの色によく似ていて、まるでそれは、本来の自分を取り戻した伊月を表しているかのようだった。
「もう2度と、無断で塾を休んだりはしません」
声を震わせながらも、伊月の目は翔吾をしっかりと見つめた。
「あ・・・ああ」
翔吾の目には一瞬の戸惑いが浮かんだが、すぐに硬い表情に戻った。
「ごめんなさい」
「ああ」
「おやすみなさい」
伊月は深々と頭を下げるとリビングのドアを閉めた。ドアを閉めた瞬間、伊月はポケットの破片を握りしめ、陸斗の笑顔を思い出していた。