伊月と陸斗は放課後の美術室にいた。放課後の美術室は静かで、初夏の風がカーテンを揺らしていた。遠くで野球部員の掛け声が聞こえる。伊月にとって、ここは日常の騒めきから切り離された特別な場所だった。
「陸斗くん、疲れませんか?」
「ん?まだ大丈夫。でも早めに頼むわ、退屈すぎ」
「はい」
陸斗は先日の怪我で陸上部を休んでいる。そこで時間を持て余した陸斗は、伊月の願いで絵のモデルをしていた。モデル料は購買の焼きそばパン、安いものだ。
(それに、陸斗さんと一緒にいられるし)
一緒にいる。その思いに伊月のパステルを握る手が止まった。あの春の日、体育館の2階から飛び降りて来た、陸斗の真剣な眼差しが忘れられない。授業中も伊月の目は、中庭を挟んだ向かいの校舎でうたた寝をしている陸斗の横顔に釘付けになっていた。
「どうしたん?手ぇ、動いてねぇぞ」
「すみません、ぼんやりしていました」
「なんだよ、急に止まって」
すると陸斗は揶揄うようにニヤニヤと笑いを浮かべ、『そんなに俺ってカッコいい?』と髪を掻き上げた。
「ち、違います!」
伊月の声は上ずり、クロッキー帳で顔を隠すように扇いだ。夕焼けのような熱が頬を染めた。
「ほら、続き描けよ」
「はい」
伊月は油彩画に使うテレピン油の臭いが漂う部屋で、陸斗の輪郭を描いた。イーゼルに立て掛けたキャンバスに、力強い線が浮き上がる。陸斗の、肘を木製のテーブルに突き、顎を乗せた薄い唇は魅力的だった。陸斗の無防備な瞬間が伊月の心を掴んで離さなかった。思わず見惚れてしまい、伊月は何度も首を振って意識をキャンバスに戻した。
「ふぅ・・・」
陸斗が大きな溜め息を吐いた。よほど退屈なのかとイーゼルから顔を覗かせると、陸斗は鼻先をポリポリと掻いていた。そして今度は、大きなあくびをした。
「陸斗さん、休憩しましょうか?」
「いや、大丈夫」
陸斗は『俺って、走るしか能がないんだな』そう言って、窓の外を見た。その目にはいつもの自信に満ちた色が感じられず、どこか頼り気がなかった。伊月がパステルを持った手を振って否定したが、陸斗は小さく笑って、窓の外を見た。
「でも!あの時、助けてくれたじゃないですか!」
「・・・・あぁ」
「驚きましたが、感動しました!」
「馬鹿だろ?」
伊月が複数の同級生に絡まれていた時、陸斗は躊躇うことなく身体を張って助けてくれた。伊月にとって、陸斗はヒーローだった。けれど、陸斗は自嘲的な笑みを浮かべた。その彼が自身を『馬鹿だ』という言葉に、伊月は胸が切なくなった。
「怪我するかもしれなかったのに」
伊月の声は少し震えた。陸斗は一瞬黙り、肩をすくめて『芝生だからイケると思ったんじゃね?ほんとに馬鹿みたいだよな?』と笑った。
「怪我がなくて良かったです」
伊月の胸はその言葉をそっと刻んだ。あの日、生徒たちの悲鳴で空を仰ぐと、陸斗が飛び降りて来た。そのカッターシャツは風をはらみ、白い羽根のように見えた。あれから伊月は、天使をモチーフにした陸斗の絵を描き続けていた。それ程までに、陸斗との出会いは衝撃的だった。
(・・・・)
伊月はパステルを握り直した。キャンバスに陸斗の輪郭をなぞる手が、いつもより大胆な線を引いた。陸斗はふとイーゼルに目をやり、軽く身を乗り出して『どんな絵描いてんだ?』と呟いた。『まさか、また羽根が生えてんじゃねぇだろうな?』彼の口調は軽いが、目にはほのかな好奇心が光っていた。
「大丈夫です、生えていません」
伊月は答えたが、胸の中であの日の陸斗の姿が鮮やかに蘇った。伊月はパステルを強く握ると、キャンバスに大胆な線を重ねた。陸斗はイーゼルに近づき、「へえ、結構マジじゃん」と小さく呟いた。
「みっ!見ないで下さい!」
「なんだよ、減るもんでもなし」
キャンバスを持った陸斗は、その才能に感動すると共に、照れ臭さを感じ、軽く髪をかき上げた。
「俺、おまえから見たらこんな顔してんの?」
彼の声には、驚きとどこか嬉しそうな響きが混じっていた。
「は・・・はい」
伊月は目を伏せ、首まで赤くした。それは夕焼けの中でも分かる程に赤く、胸は高鳴った。伊月の目に映る陸斗は、グラウンドを駆け抜ける豹のような面差しと、あの日の天使のような自由さを併せ持っていた。その魅力がキャンバスから溢れ出し、伊月の心を掴んで離さなかった。
「でもさ」
伊月は陸斗の呟きで我に返った。顔を上げると、陸斗は不安気な面持ちで伊月をじっと見つめていた。その表情に、伊月は不穏なものを感じ取った。
「おまえ、父ちゃんに絵、描くなって言われてたんじゃねぇのか?」
「それは」
「大丈夫なのか?」
伊月は、クレパスを握る手に力を込めた。
「家に帰るの遅かったし、怒られなかったか?」
陸斗の声には、さりげない心配が滲んでいた。伊月は言葉に詰まり、目を伏せた。伊月は陸斗に誘われ、長谷川家の夕食に招かれた。塾をサボって陸斗と過ごした時間は自由で幸せだったが、父親の厳しい声が頭をよぎり、胸が締め付けられた。
「少し、叱られました」
「やっぱりなぁ、悪かったな」
陸斗は申し訳なさそうに襟足を掻いた。
「いえ、大丈夫です」
昨夜のことだった。伊月と父親は激しく衝突した。それは、塾を勝手に休んだことが発端だった。そして父親は伊月の爪の間にクレパスを見つけた瞬間、目を吊り上げた。『こんなことに時間を使って!』彼の声は震え、額に浮かぶ青筋が彼の苛立ちを物語っていた。『それで大谷の社長になれるのか!この家を支えられるのか!』と声を荒げ、陸斗を描いたラフスケッチを破き、足で踏みつけた。
「お父さん!やめてください!」
破り捨てられた陸斗の絵を見た伊月は怒りを抑えられず、父親の胸ぐらを掴んだ。そのまま首を締め上げたい感情に突き動かされたが、大きく息を吸い呼吸を整えた。
「もう2度と、こんなことはしないで下さい」
父親はソファに崩れ落ちた。伊月は破片となった陸斗を拾い集め、ポケットの中の笑顔を握りしめた。伊月の自由の象徴であった陸斗の白い羽根がもがれ、それまで堪えていた涙腺が緩んだ。けれどこの笑顔をキャンバスに残すためならば、絵を描き続けることへの決意と、父親の怒りにも立ち向かえるような気がした。
キーンコンカーンコーン キーンコンカーンコーン
下校時間を告げるチャイムが廊下で響いた。伊月はそっとパステルを置くとカンバスを棚に片付け、イーゼルを壁に立て掛けた。
「今日はここまでにしましょう」
「モデルってのは疲れるな」
伊月は小さく微笑み、2人分のスクールバッグを肩に担いだ。陸斗は痛む脚を庇いながら手摺りに捕まり、階段をゆっくりと下りた。普段の軽快な動きとは違うその姿に、伊月の胸が小さく締め付けられた。伊月は逆光の中の陸斗の姿に目を細めて見た。その時は、父親の厳しい面持ちを忘れることが出来た。
(陸斗くん)
伊月の視線に気付いた陸斗は、『俺の顔になんか付いてるか?』とやや恥ずかし気に視線を逸らし、伊月は『目と、鼻と、口が付いていますよ』と軽やかに微笑んだ。『バーカ、なに言ってんだよ」静かな廊下に、2人の上履きズックの音が響いた。体育館の屋根へと沈む夕日、伊月と陸斗の間に柔らかな光がさした。
「なぁ、伊月・・・今度の日曜、暇?」
陸斗がおもむろに伊月を見上げた。一瞬、息が詰まった。伊月は、その薄いグレーの瞳に吸い込まれそうになり、盛んに瞬きをしてその視線を遮った。
「なに目ぇシパシパしてんだよ。コンタクト?」
「違います」
「そっか」
陸斗はやや照れたように唇を尖らせた。
「日曜日に用事はありませんけれど、なにか?」
「遊園地行かねぇ?」
「えっ!」
陸斗の突然の誘いに、伊月の胸は早鐘のように波打った。思わず頬が赤らんだ。
「ゆ、遊園地ですか?」
「部活でしばらく行ってないからなぁ、一緒に行かねえ?」
伊月は、陸斗と過ごす自由な時間が頭をよぎる一方、父親の怒声が耳の奥で響いた。それでも、陸斗の薄いグレーの瞳を見ると、断る言葉は喉に詰まった。
「遊園地・・・誰と、誰が?」
伊月は一瞬、聞き間違いかと思い、確認するように間の抜けたことを言っていた。それを聞いた陸斗は眉間にシワを寄せ、口をへの字にした。
「なに、俺と遊園地行くのが嫌なのか?」
「いっ、いえ!」
そう言うと陸斗は、苦々しい表情で目を伏せた。
「地区大会の選手になれそうだったのに、ただの練習中にこんな怪我してさ」
「陸斗さん」
陸斗の脳裏には、なぎ倒されたハードル、舞い上がる砂埃、背中に走った激痛、鉄臭い血の色が浮かんでは消えた。
「中学最後の大会なのにな、信じらんねぇ」
陸斗は、包帯が巻かれた左脚を軽く叩くと顔を顰めた。陸斗は誰よりも早く、力強くハードルという名の障害を超えることに意味を見出していた。今の陸斗は、目標を失った海に漂うクラゲのようだった。
「楽しいことでもしなきゃ、やってらんねぇよ」
伊月は、初めて見る陸斗の弱気な横顔に、掛ける言葉が見つからなかった。
「じゃあ、今度の日曜日な!誰んちで集合?」
伊月は即座に陸斗の家で、と答えていた。あの寒々しい自分の家を陸斗に見せるのが嫌だった。ましてや、冷たい視線の父親に会わせることは避けたかった。