目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第8話 日曜日の朝

 日曜日は快晴。伊月は、陸斗と遊園地に遊びに行くため、長谷川家を訪れていた。隣の長谷川工務店と表示された木造製作所からは、以前と同じく、杉独特の爽やかで重みのある香りが漂ってきた。


(うう、緊張する)


 伊月は躊躇いがちに恐る恐る手を伸ばし、緊張の面持ちで玄関の扉に手を掛けた。指先に力を込め把手をグッと横に引く。扉が開くと、その家の独特の匂いが伊月の鼻先を掠めた。伊月は深呼吸をすると上擦った声でその名前を呼んだ。


「おはようございます!陸斗くんいますか!」


 相変わらず玄関の中は、陸斗のスニーカーやピンクのズックが散らかり放題だった。それは大理石が艶めく整然とした伊月の家とは大違いで、家族の温かみを感じた。伊月が下駄箱の上のたぬきの置き物を眺めていると、白いTシャツに紺色のステテコを履いた中年男性がリビングから顔を出した。


「おや、あんたが伊月くん?」

「はい、大谷伊月です。はじめまして」

「入って、入って」


 伊月は玄関先の靴を綺麗に並べ直し、その端に自身のローファーを脱いだ。


「あー、ぐちゃぐちゃですまんな」

「いえ、お邪魔します」


 中年男性の髪は緩やかなウェーブで黒縁眼鏡、陸斗の父親だと言った。陸斗の数十年後を垣間見た気がした。父親は長谷川工務店の社長だと言った。


「すごいですね」

「なーんも、こんな小さな町工場じゃ、たいしたもんじゃねぇ」


 父親は団扇で扇ぎながら、朗らかに笑った。伊月は、(同じ社長でもこんなに違うのか)と翔吾伊月の父親の厳しい面持ちを思い出した。父親は冷蔵庫から冷えた麦茶をグラスに注ぎ、伊月に手渡した。グラスに触れた指先から、心地よい冷たさが広がった。伊月は、麦茶に一口つけたところで周囲を窺った。


「あの、陸斗くんは?」

「陸斗は歩きに行っとるから、しばらく待ってくれんか?」

「歩き・・・ですか?」


 父親は拳を作ると両腕を前後に振って、上半身を揺らせて見せた。


「あぁ、ウォーキング。リハビリだと」

「リハビリ・・・怪我の調子、良くなったんですね」

「あぁ、そう言っとる。待っとってな?」


  父親がそう言うと、ソファにどっかり腰を下ろした。伊月は『はい』と頷きながら、そっとグラスをテーブルに置いた。


(・・・・・)


 本来、父親は無口なのだろう。静かな時間が続き、父親がおもむろにテレビのリモコンを握った。テレビには、甲子園球場の白熱した決勝戦が映し出された。バッターが空振り三振でベンチに戻ると、父親は肩を落として小さく溜め息を吐いた。伊月が壁に目を遣ると、可愛らしい絵が飾られていた。


(あ・・これは恵美ちゃんたちが描いたのかな?」


 数日前に夕飯をご馳走になった時は気付かなかったが、壁には顔から手足が生えた似顔絵や、赤や黄色の折り紙のチューリップが飾られ、どこからかカレーの残り香が漂っていた。


「あ・・・」


 伊月は思わず小さな声を漏らしてしまった。リビングを見回していると、障子の桟に表彰状が掲げられていた。伊月は眉間にシワを寄せた。その表情の変化に気付いた父親が、新聞紙をリビングテーブルの上に置いた。


石川県体育大会中学生の部 陸上110メートルハードル走 

第二位 長谷川陸斗


 表彰状の日付は2024年8月、2年生の夏の大会のものだった。


(陸斗くん、第二位・・・二位だったんだ)


 伊月がそれをじっと見ていると、父親は黒眼鏡のツルを上下させた。


「今年が最後の大会やったから、陸斗も頑張っとったんやけどなぁ」

「そうだったんですね」

「まさか、怪我をするとか・・・思わんかった」


 あの日、美術室で『俺って、走るしか能がないんだな』と呟いた、陸斗の悔し気な横顔を思い出した。


(陸斗くんは、第一位、優勝を目指してたんだ、当たり前か)


 そもそも、陸斗の怪我の原因を作ったのは伊月だった。伊月が陸斗の練習試合をスケッチに行った時、陸斗は顔色の悪い伊月を気にしてよそ見をした。次の瞬間、陸斗はハードルと共に砂煙をあげてグラウンドに倒れ込み、左膝に怪我を負った。伊月は胸がギュッと掴まれる思いがした。


(僕が、グラウンドに行かなければ)

「ん?どうした伊月くん」

「あ・・・いえ、なんでもありません」


 (僕が、グラウンドに行かなければ)伊月はグラスを握る手に力を込めた。陸斗の笑顔を思い出すたび、胸の奥で何かが締め付けられるようだった。でも、今日、遊園地で少しでもその距離を縮められたら・・・そんな思いが、伊月の心を軽くした。


「あぁ、今年も負けたか」


 甲子園球場にサイレンが鳴り、負けたチームの選手たちが項垂れる姿に、伊月は陸斗の悔しそうな横顔を重ねた。その瞬間、勢いよく玄関の扉が開く音がした。


「あっちー!マジ暑いわ!」


 そして、力強い足音が廊下を歩いて来た。ウォーキングを終えた陸斗は、頬を上気させてリビングを覗き込んだ。そして、ニヤニヤと笑いながら首筋を流れる汗をタオルで拭いた。


「伊月!おまえ、遊園地に行くのにローファー履いて来たのかよ!」

「アッ、陸斗くん!おはようございます!」

「その、ございますってやめてくれよ」


 今日も伊月は、艶々に磨かれたローファーを履いて来た。翔吾は”その人となりと価値は靴で決まる”と言い、伊月にカジュアルなスニーカーやサンダルを買い与えることはなかった。伊月は気恥ずかしさを感じた。


「ないわー、遊園地にローファー、ないわー」

「すみません」

「ないわー」


 伊月が平謝りをしていると陸斗はキッチンに入って行った。そういえば、母親や3人の妹の気配がなかった。陸斗は父親に『あれ?母ちゃんは?』と尋ねていた。遊園地で伊月と食べるサンドイッチを準備して欲しいと頼んでいた。陸斗は思いついたように冷蔵庫を開けたが、その形跡はない。


「あんの母ちゃん、どこ言ったんだよ!」


 陸斗は冷えた麦茶を喉に流し込むと、バスルームへと消えた。父親は黒眼鏡のツルを上下させ、『賑やかな子ですまんね、仲良くしてやってくれ』と和かに笑った。


「はい、こちらこそよろしくお願いします」

「伊月くんは言葉遣いが丁寧だなぁ」

「父が厳しい人なので」

「そうか、そうか」


 すると玄関の扉が開いて、軽やかな足取りがリビングを覗いた。伊月は、陸斗の幼馴染である遠藤美樹のことを思い出した。いつも明るく、陸斗と気兼ねなく話す彼女を、どこか遠い存在に感じていた。陸斗と美樹の気楽なやり取りを思い出すたび、自分がその輪に入れないような気がして、どこか落ち着かなかった。

挨拶もなく家に上がり込むその親しげな距離に、伊月の胸はチクリと痛んだ。


「大谷くん、おはよう」

「おはようございます」


 まさか遠藤美樹も一緒に遊園地に行くのではないかと思った伊月は、息を呑んだ。


「なに、その驚いた顔」


 伊月は動揺を気取られないように、目を細めて口角を上げて見せた。


「腹が立つくらい、今日もイケメンね!ね、おじさん!」

「あぁ、そうだな」


 父親は新聞から顔を覗かせた。伊月が戸惑っていると遠藤美樹は籐のバスケットを差し出し、その面差しをチラリと見て頬を染めた。


「サンドイッチ!おばさんに頼まれたの!」

「あ、ありがとうございます」

「おじさんにもあるから!」


 遠藤美樹は皿に盛ったサンドイッチを父親の前に置いた。小麦とライ麦の2色の食パンに、フリルレタス、トマト、茹で卵、ハムが挟まれていた。見た目にも美しく、とても美味しそうだ。


「美味しそうですね」

「早起きして頑張ったわよ!」


 そこで父親が『美樹ちゃんも行かんのか?』とサンドイッチを頬張りながら尋ねた。すると、遠藤美樹は唇を尖らせ頬を膨らませた。


「邪魔だから来るなって言われたの!」

「邪魔?」

「大谷くんと2人だけが良いんだって!訳わかんない!」

(・・・・2人だけ)


 伊月の胸は高鳴り、首まで赤くなった。


「そうか、男の友情ってやつか。美樹ちゃん、残念だったな」

「もう、プンプンよ!」


(陸斗くん、僕と2人だけが良いんだ)


 伊月は思わず溢れる笑みに、口元を肘で隠した。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?