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第10話 ジェットコースター

 伊月と陸斗は遊園地の芝生広場で、遠藤美樹が作ったサンドイッチを頬張っていた。サンドイッチが詰められた籐のバスケットの中には、遠藤美樹がメモを忍ばせていた。それを見た伊月は頬を染めた。


(仲良くなるって、どうすれば良いんでしょう!?)


 こっそり隣を窺うと、口の端にフリルレタスの葉っぱを咥えた陸斗が『これも美味いな、美樹すげぇな』とご機嫌で辺りを見回している。伊月はひとりで緊張している自分が滑稽に思えた。メリーゴーランドが軽快な音楽を奏で、子どもたちの笑い声が響く。伊月は、もそもそとサンドイッチを齧った。


「お、伊月」


 ふと呼ばれて振り向くと、おもむろに陸斗の指先が伊月の口元に触れた。一瞬の出来事だったが、甘い感触がその場所に集中するのを感じた。陸斗の指先が触れる瞬間、伊月の時間が一瞬止まったようだった。温かい感触が、伊月の頬から心臓まで一気に駆け巡った。


「マヨネーズ付いてるぞ」

「・・・・!」


 陸斗はそのまま指についたマヨネーズを舐め取り、悪戯っぽく目を細め、肩を竦めて笑った。伊月は言葉を失うと、驚いた顔で陸斗を凝視した。彼は、陸斗のこういう無造作な仕草にいつも心臓が跳ねることを、最近少しずつ自覚していた。


(陸斗くんと・・仲良く・・・か)


 伊月はメモの言葉を思い出し、胸の内で小さく反芻した。でも、目の前の陸斗を見ると、そんな言葉なんて簡単に吹き飛んでしまう。伊月が目を伏せると、ポップコーンが足元に転がっていた。


「なに・・・伊月、もう食わねぇの?」

「たっ、食べます!」


 バスケットの中には、2種類のサンドイッチが残っていた。陸斗はニヤリと笑い、『お前、いつもおとなしいから、ちょっと本気出してみろよ』と煽った。


「おまえ、ハム好きか?」

「はい、ハムは大好きです」

「よし!勝負だ!」


 陸斗は半袖を肩まで捲り上げると、芝生に寝そべって肘を突いた。浮かび上がる二の腕の程よい筋肉に、伊月の目が釘付けになった。陸斗のグレーの瞳は、いつもグラウンドを駆け抜ける彼そのものだった。伊月は、こんな風にまっすぐな陸斗から、なぜか目を離せなかった。


「な、なんですか」

「知らねぇのか、腕相撲だよ」

「知っていますけど」


 陸斗は、早くしろとばかりに顎をしゃくった。


「なら、早く準備しろよ」

「は・・・はい!」


 伊月はシャツの袖を捲ると、躊躇いながら恐る恐る芝生に寝そべった。伊月はこれまでシャツを汚すことはなく、ローファーを泥だらけにすることもなかった。伊月と陸斗は肘を突き、力強く手を握った。陸斗の掌の温かさが伝わり、伊月の心臓が一瞬早く跳ねた。


「よーい、ドン!」


 陸斗の力がグッと押し寄せ、伊月はそれ受け止めた。肩に力が入り、指先の色が白く変わった。陸斗は容赦なく腕に力を込めたが、意外にも伊月はそれに耐えた。伊月は歯を食いしばり、腕に力を込めた。自分でも驚くほど、陸斗の力に抗った。


「なんだよ!力つぇぇじゃねぇか!絵、ばっかり描いてるくせに!」

「それは・・・っ!関係ありませんっ!」


 その攻防はしばらく続いたが、やはり普段から鍛えている陸斗には敵わなかった。伊月の手の甲は、芝生のチクチクとした茂みに倒れ込み、やがて土の香に心地よさを感じた。陸斗は口を尖らせてぶっと吹き出すと、腹を抱えて笑い出した。


「俺ら、なにやってんだよ!」

「陸斗さんが始めたんじゃないですか!」

「で、どっちのサンドイッチ食う?」


 伊月は遠藤美樹のメモを思い出し、ふと笑った。遠藤美樹はいつも、伊月が自分から踏み出せないことを見透かしている気がした。


(仲良くなるってこういう事なのかな)


 伊月と陸斗はどこまでも高い青空を見上げると、両手両脚を大きく広げて笑った。その時、頭上で、つんざく絶叫が通り過ぎて行った。


「もしかして、あれに乗るんですか?」


 伊月は地上45メートルのジェットコースターを仰ぎ、顔を顰めた。


「当たり前だろ!」

「私に拒否権はないんですね」

「あれに乗るために来たんだからな!」


 その傍を、笑顔の子どもたちが父親の手を引き走って行った。そこには、乗り物ぬいぐるみがあちらこちらで尻尾を振っていた。『おっ!マジか!』陸斗はそのアトラクションに駆け寄り、ふかふかの手触りを楽しんでいた。そして、パンダとクマの顔を見比べ、腕を組んでいる。伊月が信じられない思いで見ていると、陸斗が伊月へと手を振った。


(まさか・・・だよね!?)


 陸斗は真剣な顔で腕組みをした。


「伊月、パンダとクマ、どっちが好きだ?」

「ど、どっち?」

「パンダか!?クマか!?」


 断るという選択肢はなく、伊月は白と黒のコントラストが可愛らしいパンダの乗り物を選んだ。すると陸斗は迷う事なくパンダに跨り、小銭入れを取り出した。『300円か、やっす!』伊月がバスケットを抱えて茫然としていると、陸斗は当然とばかりにパンダの尻を叩いた。


「なにやってんだよ、早く乗れよ」

「乗るんですか?」

「遊園地って言ったらこれだろ!乗れよ!」


 伊月はおずおずとパンダの尻に跨った。チャリンチャリンと気恥ずかしさが硬貨になって落ちてゆく。パンダがガクンと揺れ、伊月は思わずハンドルを握りしめた。”森のクマさん”のメロディーが響く中、乗り物が左右に揺れるたび、伊月の心臓も一緒に揺れた。伊月がバランスを崩しよろけると、陸斗の手が伊月の腕を引っ張った。


「おまえ、しっかり掴まれよ」

「え!あ、はい!」


 陸斗の背中に頬を埋めた瞬間、伊月は彼の無邪気な笑顔がいつも自分を引っ張ってくれることに気づいた。こんな気持ち、初めてだった。柑橘系のヘアワックスの香が鼻先をくすぐり、思わず目を瞑った。胸の鼓動がうるさい、心臓が跳ねる音が陸斗に伝わるのではないかと照れ臭さが込み上げた。


「なぁ」

「はい!」

「なんでパンダなのに”森のクマさん”なんだよ」

「はぁ」


 300円分の緊張は、伊月の大切な思い出になった。陸斗とこんな風に笑い合えたこと、それが彼の心に小さな光を灯した。





パンパンパンパン パンパンパンパン


 賑やかな手拍子と笑い声、そして感極まった悲鳴が響く暗いドームの中を、伊月と陸斗を乗せたジェットコースターは地上45メートルの頂上まで向かっていた。伊月は声も出さずに足を踏ん張り、眉間にシワを作り目をギュッと閉じていた。陸斗は平然とした顔で笑みを漏らしながら腕を伸ばして手を叩いている。


「うおぉ、とうとうこの時が!」

「ああ、もう駄目!もう駄目です!」


 陸斗は万歳しながら、伊月が隣で叫ぶ姿に、なぜか胸が軽くなるのを感じた。こんな風に誰かとバカ騒ぎするのは、怪我以来初めてだった。


「・・・・・・・・」


 上昇する陸斗の目の前にオレンジに輝く夕焼けの日本海が眩しく煌めいた。


「伊月!すげーぞ!海だ!海!」

「・・・・え?」


 コースターが頂上で一瞬止まり、伊月の胃が浮くような恐怖に襲われた。隣で陸斗は『うおぉ!』と叫び、目を輝かせていた。伊月が目を開けると、黒いアスファルトに吸い込まれる視界と顔を殴る風が襲い、なぜか地上で手を振る人々が異様にはっきり見えた


「あああああああああああああ!」


 急降下の瞬間、伊月は、父親の期待に縛られていた日々を思い出し、胸が締め付けられるようだった。ただ、生まれて初めて感じる重力加速度に、それがどうでもいいことに思えた。陸斗は、怪我で超えられなかったハードルの悔しさが、90km/hの風に吹き飛ばされるのを感じた。


「うわあーーーーーーーーー!」


 陸斗は腕を高く万歳をして、風に髪をなびかせ、目を輝かせた。ジェットコースターは夜を流れる星のように軌跡を残し、最後は輝く螺旋を描いて光のトンネルの中で、急停止した。


「お。終わりましたか?」

「おう、もう止まったぜ。歩けるか?」

「ちょ、ちょっと・・・無理そうです」


 伊月は立ち上がる事もままならず、膝をガクガクさせながらスタッフにしがみついた。ようやくコースターから降りた伊月は階段に座り込み、力なく微笑んだ。


「陸斗くん、綺麗でしたね」

「あぁ、海か!すごかったな!」

「はい」


 伊月は瞼の裏に焼きついたオレンジの日本海を思い出していた。まるで絵の具を溶かしたようなその色を、いつかキャンバスに描きたいと思った。


「陸斗くん、ありがとうございます」

「なに、もう一回乗る?」

「い、いえ!それはもういいです!」


 そしてもう二度と、父親への不平不満を荒々しい日本海の波に例え、クロッキー帳に描くことはないだろう。壁に寄りかかった伊月は、ヒヤリとしたコンクリートの手触りに身を任せた。


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