数日前
陸上部を引退した陸斗は暇を持て余していた。そこで陸斗は『花火大会に一緒に行かないか?』と伊月を誘った。けれど伊月は、塾帰りの寄り道を禁じられていると言った。陸斗にとって、伊月はいつも落ち着いた雰囲気で、陸上部の騒がしい日常とは違う特別な存在だった。『花火、陸斗くんと見たかったです』と言った伊月の声に、ほんの少しの寂しさが混じっていた。それに気付いた陸斗の胸は、なぜかキュッと締め付けられた。
土曜日
自動販売機の明かりに羽虫が飛んでいる。真っ暗な神社の境内では、ようやく地上に這い出たアブラゼミが忙しなく鳴いていた。行き交う車の白いヘッドライトに、黒いキャップを被った陸斗の姿が浮かび上がる。陸斗は、打ち上げ花火を伊月と歩きながら見ようと考え、迎えに来た。
国道の向かい側には、東京大学合格8名!京都大学合格3名!などと、ラミネートされた文字が、窓一面に貼られている。ここは伊月が通う有名進学塾だ。土日祝日関係なく、この塾には明かりが点いている。
(伊月って、すげぇなぁ・・・こんなとこで勉強してんのか)
陸斗は塾の明かりを眺めながら、胸の内で小さく溜め息を吐いた。伊月があの窓の向こうでシャープペンシルを走らせている姿を想像すると、なんだか自分の時間が止まっているような気がした。
陸斗は塾の明かりから目を離し、オレンジに染まり始めた空を見上げた。すると、パーンパーンと昼花火が、夕暮れ間近の空に空砲を響かせた。
パーンパーン
(高校かぁ)
陸斗は昼花火の音を聞きながら、ふと思った。伊月が塾の明かりの下で頑張っているのに、自分は夏休みの宿題さえ手付かずのままだ。陸上部の選手としてグラウンドのハードルだけを見て来た陸斗だったが、進学勉強のため中学3年の夏休みで部活動は引退となった。
(俺も・・・なにか、なにかって分かんねぇけど!)
陸上部でハードルを跳ぶときはゴールが見えたが、進学試験のゴールはどこにあるのか、さっぱり分からなかった。高校入試まであと半年もない。陸斗は、これまで感じたことのない、焦りを感じた。花火の音が空に響くたび、陸斗は胸の奥で何かが弾けるような気がした。伊月が追いかける夢ははっきりしているのに、陸斗の夢はまだあの空の向こうにぼんやりと浮かんでいるだけだった。
(伊月、まだかな)
陸斗は自動販売機の明かりの下で、そわそわと足を動かしながら伊月を待った。黒いキャップを深く被り、行き交う車のヘッドライトに照らされるたび、胸の鼓動が少し速くなった。スマートフォンでゲームをしていると、塾の入り口の扉が開いた。見たことのない制服を着た生徒が次々と帰り支度をし始めた。
(伊月いるかな、まさか休みじゃないよな?)
陸斗はキャップを脱ぎ、爪先立ちで扉を見た。すると他の生徒よりも上背のある伊月が、塾の講師に頭を下げて挨拶をしているのが見えた。次に伊月はスマートフォンを取り出し画面を確認すると、肩の凝りをほぐすように首を回した。
(伊月だ!)
陸斗は押しボタン式信号の赤いボタンを押し、黒いキャップを被り直した。青信号を待つ間、伊月の背中を目で追いながら、胸の鼓動がさらに速くなった。信号が変わると同時に、陸斗は白線を踏みながら駆け出し、勢いよく伊月の背中に飛び付いた。
「ワッ!」
「えっ!?」
伊月は驚いて肩を竦めたが、陸斗だと気づくと、疲れた目元に小さく笑みを浮かべた。少し乱れた髪を掻き上げながら、彼はスクールバックを肩に担ぎ直した。陸斗も会えた嬉しさから自然と笑みが溢れ、目を細めた。
「陸斗さん、どうしたんですか?」
「へへ、びっくりしただろ」
「驚きました、なんでこんなところにいるんですか?」
陸斗は人差し指を空に翳して見せた。オレンジの空は濃紺のグラデーションを描き、西の空には一番星が輝いていた。夏祭りの街はどこか浮かれた雰囲気で、浴衣を着た子どもが母親の手を引き、犀川方面のバスに飛び乗った。すると、打ち上げ花火の硝煙の臭いが川面を駆け上がって来た。
「一緒に花火、見ようと思って待ってた」
「え・・・だから、お父さんが」
伊月は困り顔でスクールバックを肩に担ぎ直した。自宅では、父親が厳しい面持ちで待っているに違いなかった。けれど、陸斗との楽しい時間にも心が揺らいだ。その戸惑う表情に、陸斗は伊月の肩を叩いた。
「ほら、ここからでも見えるんだぜ」
「・・・・ここ、ですか?」
「公園があるんだ」
伊月と陸斗は大通りを逸れ、細い道を歩いた。陸斗は伊月の少し疲れた横顔を盗み見て、『塾、キツい?』と聞くと、伊月は小さく笑って首を振った。街灯には虫が集まりチラチラと影を落としていた。コオロギの鳴く
ヒュルルルル ドーン パラパラパラ
濃紺の空に光の花が咲き、陸斗の隣を歩く伊月の胸は高鳴った。
「ちょっと登ってみ?」
「は、はい」
陸斗が滑り台を指さすと、伊月の頬は暗がりでも赤らんで見えた。伊月はスクールバックを肩から下ろすと、それをブランコに置いた。ブランコは、伊月の少し速い鼓動を映すように、前後に揺れた。伊月は錆びた手摺りを掴み、ゆっくりと滑り台の階段を上った。すると、星が輝く夜空が大きく広がった。
ヒュルルルル ドーン パラパラパラ
「アッ!花火!花火ですね!」
伊月はまるで子どものように目を輝かせ、手摺をグッと握り、滑り台から身を乗り出した。
「落ちんなよ!」
「大丈夫です!」
次々と咲く大輪の花火は、伊月と陸斗を明るく照らし出した。陸斗は伊月の嬉しそうな横顔に目を細めた。伊月の笑顔を見ていると、塾の明かりの下で頑張る彼の姿が頭をよぎり、自分の手付かずの宿題を思い出した。
「なぁ!おまえさ、そんなに勉強して大人になったら、なんになるんだ!?」
その声には、伊月への好奇心と自分への焦りが混じっていた。けれど伊月は、その問いにすぐに答えることが出来なかった。父親は金沢大学附属高校への進学を強く推しているが、伊月は美術芸術の道を歩みたかった。
「それは・・」
「どうしたん」
伊月は手摺を掴み、後ろ向きにゆっくりと階段を下りた。ローファーの靴底に、砂利を感じた。大人の前ではなすすべがないとばかりに、花火の音が下腹に響いた。
「伊月、おまえ・・金大附属に行くんだろ?」
伊月はスクールバックを肩に担ぐと、ブランコに腰掛けた。そしてローファーで地面を蹴り、漕ぎ始めた。その揺れは小さかったが、伊月の心の中の迷いを表すかのように、前後した。筆箱の中のシャープペンシルがカチャカチャと音を立てる。その気配は暗がりでも分かるほどに沈んで見えた。陸斗は隣のブランコに座ると伊月に向き直った。
「なんだよ、違うのかよ」
陸斗は、伊月がてっきり夢を叶えるためのゴールに向かって進んでいると信じていた。その姿が羨ましかった。けれど今の伊月からは迷いが感じられ、陸斗は残念だった。陸斗は、自分の将来がまるで霧に包まれたようにぼんやりしていることに苛立っていた。伊月のまっすぐな姿が、どこか眩しくて、羨ましかった。
「本当は・・絵が描きたいんです。誰もが息を呑むような絵を」
伊月は、白いカッターシャツを羽根のようにはためかせた陸斗の姿を思い描いて夜空を見上げた。
「描きゃいいじゃん」
「本当は・・・県立工業高校の油彩画科に行きたいんです」
「なら、行きゃ良いじゃん」
ヒュルルルル ドーン パラパラパラ
「俺なんか、どの高校に行きゃいいのか、分かってねぇし」
けれど伊月の将来は既に決まっていた。やがて大人になり、父親の跡を継いで大谷工業株式会社の社長になる。その思いに胸が締め付けられた。花火が散るたび、伊月の夢も同じように消えてしまいそうだった。伊月は思い切り地面を蹴り上げた。ブランコが軋む。花火が夜空を裂くように、心の中で何かが弾けた。
「お、おい!大丈夫かよ!」
「大丈夫です!」
ヒュルルルル ドーン パラパラパラ
伊月と陸斗の夏はゆっくりと、けれど確実に時を進めていた。