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第2話 氷の公爵と不穏な影


 アドリアナがアイゼンベルク公爵邸に迎えられてから、初夜という名目の夜は不在の公爵をただ待つだけで明けてしまった。夜具に身を横たえながら、いつ訪れるとも知れない彼の足音に耳を澄ませても、結局朝まで一度も扉が開くことはない。まるで、そこに初めから“夫”など存在しなかったかのような夜だった。

 そして迎えた翌朝——。

 結婚式翌日の朝にしては、あまりに静かで拍子抜けするほどの時が流れていた。街の喧騒や祝辞などもなく、公爵家の大広間にも派手な祝宴や客の訪問はなかった。もちろん、本来なら新婚夫婦がお互いを確かめ合うような甘い空気など皆無で、アドリアナの胸にはぽっかりと穴が開いたような感覚が残る。

 しかし、いつまでも寂しさに浸ってはいられない。公爵夫人としての務めは山ほどある——そう思いながらアドリアナは朝早く起床し、自分でできる限りの身支度を整えた。もっとも、アイゼンベルク家の侍女たちが必要以上に手伝ってくれるため、彼女が自分で何かをする隙はあまりない。それでも、すぐには何も覚えられないし、細かな作法の違いもあるだろう。早めに新しい生活に慣れるためには、進んで手を動かし、館内を把握したいという思いがあった。

 部屋の扉を開けると、キアラが朝食の準備を整えたワゴンを押して立っている。昨日から、彼女は常にアドリアナを気遣い、必要な情報をこまめに伝えてくれる頼もしき存在だ。


「奥方さま、おはようございます。朝食をお持ちいたしました。公爵様はすでに執務室にこもられておりますが、いつもどおりのご様子で……夜明け前からお仕事を始められているようですよ」


「……そう。おはよう、キアラ。ありがとう。わざわざこんなところまで持ってきてくれたのね」


 朝食用の小さなテーブルは既に部屋の中にセットされ、香り高い紅茶と温かいスープ、ふわりと焼き上がったパンのかおりが漂っている。どれも質の良い食材を使っているのだろうと一目でわかる贅沢な品々だ。ローラン家では、ここまでの豪華な朝食はめったに出なかったので、アドリアナは戸惑いながらも礼を言った。

 だが、せっかくの食事を一人きりで口に運ぶのは寂しくもある。結婚したとはいえ、夫の姿が傍にないのだから。それでも、苦い思いを押し隠すようにアドリアナはスープをすくう。口当たりが滑らかで、胃の奥から温まっていくのがわかる。味は申し分なく、さすがは公爵家の料理人というところだろう。

 朝食をほとんど終えかけたとき、キアラが何か気になったように声を低めて言う。


「実は、先ほど公爵様が使用人を通じて『奥方さまに、午前中のうちに応接室へ来るように』とお知らせがありました。お部屋の方へ直接お伺いしようとしたところ、ちょうど奥方さまがご朝食中ということでしたので、タイミングを見計らってお伝えしようかと……」


 昨夜はあれほど冷たい態度を取られたのに、いきなり呼び出しがあるとは。アドリアナは思わず顔を上げて、緊張した面持ちで問う。


「午前中……って、もうすぐかしら。私は何をすればいいの?」


「おそらく、公爵様と改めて今後のことをお話しされるのだと思います。昨日は何かとお忙しそうでしたし、挙式直後ということもあって、詳しい説明がないまま終わりましたものね。……ああ、それから応接室には、少し後で“あるお客様”もいらっしゃるとか」


「お客様……?」


 アドリアナは紅茶のカップをテーブルに戻して、小さく首をかしげる。いったい誰がこのタイミングで訪ねてくるのだろう。思い浮かぶのは、公爵の親族や、あるいはこの国の政務に関わる要人かもしれない。政略結婚という以上、何らかの政治的取引が絡んでいるなら、そういった人間が頻繁に出入りしても不思議はない。

 いずれにしても、公爵夫人の立場として失礼のないよう、きちんと挨拶しなければならない。特に、相手が公爵家にとって重要な取引相手だったり、王族に近い存在だったりすれば、なおさらのことだ。

 朝食を済ませたアドリアナは、キアラの手を借りて淡いグレーのドレスに着替える。袖口と襟元に細かなレースがあしらわれ、上品な雰囲気を醸す一着だ。動きやすく、それでいて地味になりすぎない色合いに心が落ち着く。

 それから髪をきちんと整え、鏡に映る自分の姿を確認した。顔色は悪くない。寝不足のためか、若干目の下に疲れが浮かんでいる気もするが、化粧でうまくカバーできている……はず。

 何度か深呼吸を繰り返し、心の準備を整えてから部屋を出た。キアラに案内されるまま、昨日も通った長い廊下を進む。ところが、執務室の方へ行くのかと思いきや、途中で曲がる回数が少し違う。

 やがて辿り着いたのは、シャンデリアが輝く高い天井と、壁一面の美しい絵画が目を引く応接室。床には赤い絨毯が敷かれ、重厚感あるソファセットがゆったりと配置されている。

 キアラが扉をそっと開けると、その奥にヴァレリウスの姿があった。黒のタイトな礼服を纏った長身の青年は、窓の外をちらりと見やっている。

 アドリアナが入室すると、公爵の金色の瞳が一瞬だけこちらを向くが、すぐに視線を外されてしまう。冷たい態度は昨日と変わらない。

 気まずい沈黙が落ちる中、アドリアナはもう一度深く礼をして声をかける。


「公爵様……本日は私をお呼びいただき、ありがとうございます。ご用件とのことですが、どういったお話を……」


 言葉尻が少し震えてしまうのを自覚して、アドリアナは急いで呼吸を整える。するとヴァレリウスは相変わらずの無表情で口を開いた。


「昨日はゆっくり話す時間もなかったからな。お前には、早いうちに“やるべきこと”を理解してもらわねばならない。この結婚は、何度も言うように政略の一環であり、お前に愛情を注ぐつもりはない。お前もそれを望んではいないだろう」


「……はい、私もそう理解しています」


 事実、アドリアナは結婚に夢やロマンを抱いてはいない。後ろめたさや悲しさはあるが、今はまだ公爵との関係を無理に深めようとする気もなかった。うかつに感情をぶつければ、なおさら彼から疎まれてしまうかもしれない——そう思うと、自然と身を慎んでしまうのだ。

 ヴァレリウスは鋭い眼光を向けながら続ける。


「ならば話は早い。今後、お前が果たすべき務めは大きく二つある。まず一つ目は、都で行われる“公爵夫人としての社交”に出席することだ。俺は政務で王宮に顔を出すことが多く、そういった場で夫人を伴う必要がある場合がある。お前は、そういう場に同行し、俺の妻として最低限の礼儀をわきまえていればいい。……お前にできるか?」


「……はい、承知しました。私も貴族としての作法は身につけておりますし、ローラン家で培った経験なら多少はあります。もし不足があれば、すぐにでも勉強します」


 そう答えると、公爵は「当然だ」というように小さくうなずく。

 たしかに、貴族の娘としての礼儀作法は子どもの頃から徹底的に仕込まれてきた。舞踏会のステップに通じているわけではないが、挨拶や基本的な会話術であれば問題ないはずだ。

 ヴァレリウスは続けて、二つ目を口にする。


「もう一つは、このアイゼンベルク公爵家の管理だ。といっても、使用人たちは有能だから、お前が直接仕切るわけではない。ただ、公爵夫人として家の中を見回り、何か不都合があれば使用人や執事に伝えるなり、迅速に対処するなり、そういった監督役を担ってほしい。お前自身が必要以上に働く必要はない。指示を出すだけでいい」


「監督役……ですね。はい、かしこまりました」


 アドリアナは少し意外に思いながら返事をする。冷たく突き放すように見えて、ヴァレリウスは一応「公爵夫人には夫人の務めがある」と認めているようだ。蔑ろにするわけでもなく、ただ“共に生きる”わけでもなく——そのあたりの温度差が、やはり彼らしいというべきか。

 しかし、話はそれだけで終わらなかった。ヴァレリウスがふと横目で時計を確認し、少し顔をしかめる。


「……そろそろ来るはずだ。お前に紹介しておくべきか迷ったが、いずれにせよ自分で対応できるようになってもらわないと困る。……入れ」


 最後の二文字はドアの外に向けて放たれた言葉。すると、待っていたかのように執事のサミュエルが扉を開け、ある人物を引き連れて部屋へと通した。

 艶やかな金髪を揺らしながら入ってきたのは、上質なターコイズブルーのドレスを纏った女性だった。年の頃はアドリアナと同じか、少し年上だろうか。透き通るような肌と整った顔立ちは、一目見て「美人」とわかる。

 だが、彼女がアドリアナに向ける視線は鋭く、その口許にはわずかな歪みがある。決して友好ムードではないと、本能が察知する。

 公爵はその女性を見ても表情一つ変えず、淡々と紹介する。


「コーデリア・フォン・フライベルク。俺の……幼馴染だ」


 幼馴染。それを聞いた瞬間、アドリアナの胸にささやかな警戒が走る。単なる幼馴染、というだけなら今この場にわざわざ呼びつける必要はないはず。あるいは政略関係のやり取りか、公爵家の抱える何らかの事情が絡んでいるのか。

 一方で、コーデリアと呼ばれた女性はヴァレリウスを見つめたまま、口元に挑発的な笑みを浮かべている。


「ご紹介、ありがとう。けれど、まだきちんとご挨拶もしていなかったわね。……初めまして、アドリアナ・ローラン……じゃなかったわ。今は“アイゼンベルク公爵夫人”のアドリアナ様、かしら?」


 言葉遣いは丁寧だが、どこか上から見下すような響きが含まれている。アドリアナはそれを受け止めて、内心の緊張を押し隠しながら礼を返す。


「はい、アドリアナ・ローランと申します。公爵家に迎えていただいてからまだ日が浅いもので、不行き届きの点がありましたらお許しください。コーデリア様も公爵様と昔から親しいようで……本日はお越しいただき、ありがとうございます」


 あくまでも丁重に対応する。それが貴族社会で身を守る唯一の術だということを、アドリアナは幼い頃から叩き込まれてきた。しかし、コーデリアはアドリアナの深々とした礼に対して、やや小馬鹿にするような笑いを返す。


「まあまあ、そんなに畏まらなくていいのよ。私とヴァレリウスは……そうね、姉弟のようなものだもの。あなたとは対等にはなれないかもしれないけれど、気安く接してちょうだいな」


 この言葉の真意は、「あなたは私と釣り合わないかもしれないわね」ということだろうか。それとも「私のほうがヴァレリウスとは近しい関係よ」と誇示しているのか。

 どちらにしても、コーデリアの態度は決して好意的ではない。けれど、アドリアナはそうした“貴婦人たちの皮肉合戦”には慣れている。深く息をつきたくなる思いをこらえ、微笑を保ち続けた。

 しかし、そのとき、ヴァレリウスが眉をひそめて二人の間を見遣る。


「コーデリア。お前、俺に何の用だ?」


 その言い方からして、決して歓迎しているわけではないようだった。やはり不意の訪問者、というわけでもなさそうだ。すると、コーデリアはまるで自分の庭を散策するように優雅な足取りで部屋の中央へと進み、答える。


「用事、というよりは“確認”をしに来たの。ヴァレリウス、あなた本当にこの結婚をしたのね。皆が噂しているわ。『ヴァレリウスが王宮でローラン子爵の娘と政略結婚を結んだらしい』って。まさか、あのあなたが……と驚いている人は多いのよ?」


「だから何だ? 俺が誰と結婚しようが、他人の勝手な噂話などどうでもいいだろう」


 冷ややかな口調に、コーデリアは「ふふっ」と笑う。そして、今度はわざとアドリアナのほうへ顔を向け、一歩ずつ近づいてきた。

 その瞳には“探る”ような光が宿り、言葉の端々に小さな棘が混ざる。


「ヴァレリウスはあなたを愛しているのかしら? いいえ、それともあなたがヴァレリウスを心から想っている……? どうにもそうは見えないのだけど、私の勘違いかしらね」


 目の前でそんなことを言われ、アドリアナは心臓がどきりと高鳴る。だが、動揺を表に出すわけにはいかない。

 実際のところ、アドリアナ自身もヴァレリウスに対して愛情があるとは言えないし、彼のほうも同じだろう。けれど、いきなりそんな核心を突かれるのは不快を通り越して困惑するばかり。

 なんとか平静を保ちながら口を開く。


「私たちの間に愛情があるかどうか……それは私にも、正直まだわかりません。ですから、コーデリア様がどう推察されようと自由ですわ」


「まあ、強がるのね。……でも、仕方ないわ。ヴァレリウスは昔から誰に対しても冷たい男ですもの。幼馴染の私にもそうだったくらいなのだから、いきなり現れた貴方なんかには、もっと壁を作るに決まっているわ」


 コーデリアは口元を歪め、見下すような笑みを浮かべる。その物言いには、“幼馴染の私だからこそ彼をわかっている”という優越感が透けて見える。

 だが、その瞬間、ヴァレリウスが苛立ったように眉間に皺を寄せた。


「……コーデリア。余計なことをぺらぺらと喋るな。俺とお前はただの幼馴染に過ぎない。自分でもそう言っただろう?」


「わかっているわ。でも、あなたがまさかこんなに早く結婚するとは思っていなかったの。確か……昔は『結婚など興味ない』と何度も言っていたでしょう?」


 その問いに、ヴァレリウスはさらりと答えを返さない。少し目を伏せ、舌打ちでもするかのように唇を引き結ぶ。

 それを見て、コーデリアはさらに面白がるような笑みを浮かべる。おそらく、彼女はヴァレリウスの心境を知りたくて仕方がないのだろう。

 そして、不意にコーデリアはアドリアナの手を取ろうと近づく。身を強張らせるアドリアナの前で、彼女はあくまで優美な仕草を保ちながら、意地悪そうに囁いた。


「アドリアナ様。この公爵邸での暮らしは退屈でしょう? もしあなたが望むなら、私がヴァレリウスを慰めてあげても構わないのよ。ほら、夫婦仲が円満じゃないのなら、むしろその方があなたも楽になるんじゃなくて? どうせ形ばかりの結婚なのでしょう?」


 あまりに大胆な挑発。アドリアナは驚きと戸惑いを隠せず、目を瞬かせる。

 いくら愛のない政略結婚だからといっても、「夫を譲れ」というような言葉を面と向かって突きつけられるなど想像していなかった。

 一瞬、胸の奥で何かがチクリと痛む。実際、ヴァレリウスがコーデリアに惹かれているかどうかは知らないが、仮にそうだとしたら、彼女が言うようにアドリアナにとっても楽になる可能性はある。

 ——しかし、それでも。

 アドリアナは少しだけ口元に笑みを浮かべながら、冷えた声で答えた。


「あなたに彼を譲る……? ご自由にどうぞ」


 予想外の言葉だったのか、コーデリアの瞳が一瞬驚きに見開かれる。しかしアドリアナは続ける。


「私と公爵様は、あくまで契約による夫婦。愛情などなくても構わない。それに、私も強引に取り繕うつもりはありませんから……もし、本当に公爵様があなたを選びたいのならば、そうなるしかないかもしれません。けれど、あなたも分かっているはず。ヴァレリウス公爵は誰の言うことも聞かない。ましてや、心の奥底を読み解ける人など、私もあなたも含めて存在しない——そうではなくて?」


 淡々とした物言いに、コーデリアは一瞬言葉を失う。まさか抵抗や取り乱しを見せるでもなく、こうもあっさり“ご自由に”と言われるとは思わなかったのだろう。

 部屋の空気が一気に重苦しいものへと変わる。そんな中、ヴァレリウスが大股で二人のそばに寄ってきた。その金色の瞳には、はっきりとした苛立ちが宿っている。


「コーデリア、お前はもう帰れ。俺は忙しいんだ。これ以上の茶番に付き合う気はない」


「……ふふっ、わかったわ。ほんの冗談半分よ、気を悪くしたならごめんなさいね。ただ、ヴァレリウスが結婚なんてするから、ちょっと気になっちゃっただけ。——じゃあ、ごきげんよう。アドリアナ様もね」


 コーデリアはあっさりと踵を返し、軽やかにドレスの裾を揺らして部屋を去っていく。去り際に振り返ったその横顔には、底知れない企みのようなものがちらりと伺えたが、アドリアナはそれ以上追及しなかった。

 しんと静まり返った応接室に、かすかな緊張が漂う。アドリアナは深い溜息をつきたい気分だったが、目の前には夫であるヴァレリウスがいる。彼がどう思ったのか、まったく表情からは読み取れない。

 すると、ヴァレリウスが不意に口を開く。


「……お前は、俺を譲ると口にしたな」


 その声は低く、どこか怒りを抑えているかのようにも聞こえた。アドリアナはぎくりとしながら、なるべく平静を装って答える。


「ええ。私たちの関係は政略結婚です。あなたがもし別の女性を選ぶなら、私はそれに執着するつもりはありません。……それが正直な気持ちです」


 それを聞いたヴァレリウスの表情が、ほんの一瞬だけ変わったように思えた。揺れる瞳。だが、それはすぐに固い氷のような冷厳さを取り戻す。


「……そうか。お前がそう思うのは自由だ。だが勘違いをするな。俺は、お前を選んだ。政略であろうと、結果的に結婚という形を取った以上、責任は取る」


「責任、ですか」


 アドリアナは自分が投げかけた“ご自由に”という言葉が、ここまで公爵を苛立たせるとは思っていなかった。責任という言葉には幾通りもの解釈があるが、ヴァレリウスが言うそれは「契約相手として放置はしない」という程度なのか、それとももう少し別の意味が含まれるのか。

 いずれにしても、ヴァレリウスが強調しているのは「俺は好き勝手にはしない。お前も俺の行動を勝手に他人に譲るな」という主張のように感じられる。まるで、契約上の“所有権”は俺が持っているんだ——と言わんばかりの態度だ。

 そんなヴァレリウスの様子を見ていると、アドリアナは複雑な感情に駆られた。彼の言う責任というのは、単に「公爵家の体面を損なわないようにする」というものだろうか。あるいは、その底には少しだけでも彼自身の心が混じっているのだろうか。

 自分でもどう返事をすればいいかわからず、アドリアナは「あの……」と口火を切るものの、結局何も言葉が出てこない。


「……言いたいことがないなら、それでいい。もう行け」


 唐突な dismissal。ヴァレリウスはそれだけ言い捨てると、窓辺に視線を戻してしまう。まるで、もうこれ以上は話すことなど何もないかのような態度だ。

 アドリアナは、少し迷いつつも、黙って一礼して応接室を出た。外にはキアラが控えていて、どこか困惑気味の表情で迎えてくれる。


「奥方さま、お疲れではありませんか……? お顔の色が少し……」


「……平気よ。ありがとう、キアラ」


 微笑みを返そうとするが、口元が強張っているのが自分でもわかる。先ほどのコーデリアの挑発や、公爵の不機嫌そうな態度が頭を巡り、どうにも落ち着かない。

 このまま手持ち無沙汰で過ごすのは気が滅入る。アドリアナは少し考えた末に、キアラへ申し出る。


「……もし可能なら、この邸の中庭や庭園を見せてもらえないかしら。確か、昨日部屋から見えた噴水がとても綺麗だったわ。外を歩いて気分転換したいのだけど、構わない?」


「あ……もちろんです、奥方さま。じゃあ、こちらへどうぞ。中庭ならそこまで広くありませんし、気晴らしにちょうどよいかと」


 キアラはそう言って、アドリアナを案内してくれる。公爵邸の正面庭園とは違い、中庭は建物の中央付近に位置し、周囲を回廊が囲む造りになっていた。そこには可憐な花々が咲き誇り、中央には白い大理石の噴水がしとやかに水を湛えている。

 思っていたよりも落ち着いた雰囲気で、静かに水音が響く。芝生の生え揃った小さな広場にはベンチがあり、そこに腰掛けると、心なしか少し風が涼しく感じられた。

 アドリアナはため息をつき、少しだけ背もたれに体重を預ける。すると、キアラが申し訳なさそうに切り出す。


「その……先ほどのあの方、コーデリア様は領内でも名のある家柄の方で、公爵様と幼い頃から親しくされてきたそうです。以前はご婚約の噂もあったほどで……。でも、最終的にはうまくいかなかったようで、それ以来コーデリア様はずっと独身を貫いておられるんですよね」


「婚約の噂……そう。なるほど、それであんなに挑発的な態度だったのかもしれないわね」


 アドリアナは少し納得する。コーデリアは以前、ヴァレリウスの婚約者候補だったということだろうか。関係が破談になった理由はわからないが、それなりにドラマがあったのだろう。

 そして、今でも「自分が特別な存在である」という自負を、彼女は捨てきれないでいるのかもしれない。

 一方、ヴァレリウスにしてみれば、コーデリアをどう扱うかは“決着済み”のことかもしれないが、それでも彼女との因縁が完全に消えたわけではないのだろう。コーデリアは公爵家の政務に何らかの影響力を持っているのか、あるいは個人的な感情からまだ諦めていないのか——そのあたりは定かではない。

 こうしてみると、公爵家を取り巻く事情は思ったより複雑そうだ。自分が嫁いできたことによって、思わぬ火種を抱えることになるのではないか。そんな予感がアドリアナの胸をよぎる。

 風に乗って、ふわりと花の香りが鼻をくすぐる。緑の葉が揺れ、水面がきらめく。穏やかに見える中庭の光景とは裏腹に、アドリアナの心は乱れていた。

 (私……これからどうなるのかしら。あの公爵様がコーデリアを拒むのは、単に政略的に合わないから? それとも、本当に彼女が嫌いなの……?)

 ヴァレリウスという人間が見えない。愛など求めていない彼の言葉は真実なのかもしれないが、その胸の奥にある“何か”を知りたいと思ってしまうのは、おこがましいことなのだろうか。

 政略結婚だと自分に言い聞かせながらも、こうして胸がざわつくのはなぜか。アドリアナは噴水の水面を見つめるまま、考えをめぐらせた。


 それから数日。

 ヴァレリウスは公爵邸に居るときは大抵執務室にこもり、夜になると自室へ引っ込む生活を続けている。アドリアナとの会話は最低限の連絡事項のみ。家事や雑務の多くは使用人がこなすので、アドリアナに求められるのは“公爵夫人としての監督”という名目の見回りくらいだ。

 しかし、その見回り自体も、使用人のサミュエルやキアラが先回りして問題点を察知してくれるため、大きく困ることはない。人手が足りない時だけアドリアナが指示を出す程度で事足りるのだ。

 結果として、アドリアナは公爵邸の中で半ば“暇”を持て余していた。公爵夫人として振る舞うには、まだ社交の場にも正式に出ていないし、準備期間のようなものなのかもしれない。だが、ずっと館内に留まり、暇をつぶすしかないのはさすがに退屈で——それ以上に息苦しさを感じていた。

 そんなある朝、キアラが部屋を訪れ、嬉しそうな調子で報告をする。


「奥方さま、近々、公爵様が王城の行事に出席されるそうなんです。王太后様の主宰で、貴族を集めた昼餐会が催されるとか。……そこで奥方さまもご同行を、と公爵様が一言おっしゃったんですよ!」


「本当に……?」


 アドリアナは思わずベッドから身を乗り出す。ついに正式な社交の場へ同行するのだ。

 だが同時に、緊張も走る。王族が主宰する昼餐会というからには、相当に格式高い場となるに違いない。公爵夫人として、相応の服装やマナーが求められるのは当然だろう。

 もっとも、アドリアナにとっては願ってもない機会だった。嫁いできたばかりで実質的に何もできていない状況を、少しでも打開できる。公爵のパートナーとして外部の目に触れることで、ローラン家を助けるという本来の目的も果たしやすくなるかもしれない。

 数日後の昼餐会に向けて、邸内は急に慌ただしくなった。アドリアナの衣装を準備する仕立屋がやって来て、採寸や試着を繰り返し、昼餐会に相応しいドレスを仕立てていく。化粧品や装飾品の相談も入り、キアラと侍女たちが総出で手配を進める。

 ヴァレリウス自身は表立ってそれらに干渉することはないものの、使用人を通じて「何か不足はないか」と問うてきたり、費用面での補助を惜しまない旨を伝えてくれたりしていた。

 アドリアナは正直、その些細な気遣いだけでも少し胸が温かくなる。言葉や表情にこそ冷たさを崩さないものの、“放置してはいない”という事実は感じ取れたからだ。

 そして、迎えた昼餐会当日。

 外はよく晴れていて、王都の中心部へ向かう馬車は明るい陽光を浴びて走る。ヴァレリウスと並んで乗る馬車の中、アドリアナは金色の瞳を持つ隣人をちらりと盗み見るが、彼は前方を見据えたまま口を開かない。相変わらず無言の時間が続く。

 けれど、今日はいつもと少し違う——そう感じたのは、馬車に乗り込む際、ヴァレリウスがアドリアナをエスコートするように手を差し伸べてくれたことだ。あれほど冷たい態度ばかりだったのに、必要最低限の“夫”としての行動を取っているらしい。

 その手は温かかった。硬い表情を保っているヴァレリウスの内側から、ふと人間らしい体温を感じた気がして、アドリアナの心は少しだけ落ち着いた。

 やがて、王城に到着した馬車は、石畳の門前広場で停車する。衛兵の誘導に従って降車すると、もうそこには多くの貴族や名士たちが出入りしていて、昼餐会特有の優雅なざわめきが感じられた。

 ヴァレリウスはアドリアナの腕を取り、そっと軽く添えるようにして歩き出す。周囲から聞こえるひそひそ声が「公爵が……」「本当に結婚したのか」「あれが奥方……?」といった内容を含んでいるのがわかる。視線も一斉に自分たちへ集まっている気がして、アドリアナは内心落ち着かない。

 しかし、ヴァレリウスはそんな周囲の好奇の目など全く意に介さない様子で、堂々と王城の廊下を進む。その姿は圧倒的な存在感を放ち、貴族たちが思わず道を開けるほどだった。

 昼餐会の会場は、王城内でも特に格式の高い“白の間”と呼ばれるホール。白大理石の柱が林立し、壁には金色の装飾が繊細にあしらわれている。大きな窓からは太陽の光が差し込み、床や壁を明るく照らしていた。

 すでに多くの人々が集まっており、その華やかな衣装や上品な香りが、この場のステータスを物語る。男性は貴族の礼服や王宮士官の制服、女性は色彩豊かで豪奢なドレスを纏い、貴金属や宝石をこれでもかと身に着けている。

 アドリアナも、決して粗末なドレスで来たつもりはないが、こうして並ぶとやはり地味に感じられる。とはいえ、公爵夫人という肩書きだけで周囲の注目を集めているのは確かだ。

 ヴァレリウスに伴われて会場へ足を踏み入れた瞬間、静かなざわめきが広がる。その場にいた貴族たちの視線が一気に集まり、ヒソヒソと会話が交わされるのが耳に届いた。

 その中には——


「あれが噂の公爵夫人?」「さほど派手な装いでもないのに、なかなかの美しさじゃないか……」「いや、どこか物静かすぎる感じもあるな。公爵の相手としては大人しそうだが……」


 そんな勝手な評価のささやきがあちこちから聞こえてきて、アドリアナの頬が熱くなる。

 すると、どこからか誰かがヴァレリウスに声をかけた。


「やあ、ヴァレリウス公爵。お久しぶりだ。まさか、あなたが夫人を伴うとは聞いていたが、噂は本当だったようだな」


 近寄ってきたのは、淡い金髪を短く整えた端正な顔立ちの青年貴族。年はヴァレリウスと同じくらいか、やや下か。友好的な笑みを浮かべているが、その視線には好奇心が混じっている。


「……久しいな、エドアルド子爵。今は王宮でなにを?」


「今は王宮の外交局で働いている。公務の関係で忙しいが、こうして昼餐会に呼ばれるのも含めて、まあ貴重な経験というところだよ。……で、そちらが公爵夫人か?」


 そう促され、アドリアナは軽く会釈をする。


「はじめまして。アドリアナ・アイゼンベルクと申します。お目にかかれて光栄ですわ」


 エドアルド子爵は、アドリアナを隅々まで観察するように見つめ、それからにこりと微笑む。


「こちらこそ。僕はエドアルド・ド・クラインフェルトと言います。噂では聞いていたが、実際にお会いすると……なるほど、とても気品がある方だ。さすがは公爵家の新夫人といったところかな」


「お褒めにあずかり、ありがとうございます」


 社交辞令だとしても、このような場では華やかな言葉を交わすのが通例。アドリアナも慣れた調子で返礼しつつ、エドアルドの飾り気のない笑顔に少し安堵する。彼は他の貴族のようなギラギラした下心が滲むタイプではなさそうだった。

 ただ、すぐ隣のヴァレリウスは相変わらず無表情を貫いている。エドアルドの好意的な態度にも、特に興味を示す様子はない。

 そこへ、別の貴族夫人らしき女性が声をかけてきたり、知人同士が挨拶に集まってきたりして、あっという間にアドリアナたちの周囲が人で取り囲まれた。やはり、“氷の公爵”が夫人を伴うというのは、この社交界において珍事なのだろう。

 矢継ぎ早に飛び交う「公爵夫人はどちらの家柄?」「ローラン子爵って……ああ、あの中級貴族の?」「よくこの結婚をまとめたものね」などの会話の応酬に、アドリアナは丁重な微笑を保ち続けながら、それなりに受け答えをこなした。

 こうして人前に立つと、否応なく思い知らされる。世間の目は、公爵家やローラン家の事情にはさほど興味がない。ただ、強大な権力を持つヴァレリウスが誰を妻に選んだのかという点にのみ焦点が当たるのだ。

 その目は時に好奇心であったり、時に嫉妬や揶揄の色だったりする。結局、アドリアナには“美しい公爵の所有物”というニュアンスでしか見ていない人も多いのかもしれない。

 やがて、昼餐会が始まった。長テーブルに並べられた色とりどりの料理や果物、ワインの瓶などが貴族たちの会話に彩りを添える。王太后が開いた会であるため、そこには華麗な音楽の演奏もあり、優雅に舞うダンサーも現れる。

 アドリアナはヴァレリウスの隣に座り、最低限の会話を交わしながら料理を口にした。しかし、その間もヴァレリウスはほとんど喋らず、周囲から話を振られても必要最小限しか答えない。

 けれど、それだけに余計な詮索を挟む隙がなく、アドリアナはある意味、楽だった。言葉を慎むヴァレリウスの隣で、アドリアナは丁寧に受け答えする。そこに夫婦としての“連帯感”などないが、かといって不自然に見えないのは、どこか「絶対的なオーラ」を放つヴァレリウスの存在のおかげかもしれない。

 昼餐会も後半に差し掛かったころ、エドアルド子爵が再び現れ、気さくにアドリアナへ声をかける。


「公爵夫人、よろしければ次の舞踏会にもいらっしゃいませんか? 正式な夜会ではなく、少しくだけた雰囲気のイベントなんです。王宮で働く青年貴族が中心となって企画しているもので、参加者も比較的若い人が多いですし、楽しいですよ」


「まあ……そうなのですか。舞踏会……私、まだ公爵夫人として、そういった場に出た経験がほとんどなくて……」


 アドリアナが躊躇していると、エドアルドは笑顔をさらに深くする。


「ぜひご検討ください。おそらく公爵様はお忙しいでしょうから、夫人お一人でも構いません。いらっしゃれば、僕がいろいろご案内しますよ」


 彼の誘いは、善意から来るものだろう。だが、その好意を素直に受け取るかどうかは別問題だ。既婚の貴婦人が若い男性貴族の誘いで舞踏会へ赴くとなれば、周囲が妙な噂を立てる可能性もある。

 どう答えればいいか迷い、アドリアナがヴァレリウスの顔色を窺うと、彼は少し眉をひそめている。だが、それ以上は何も言わない。

 それがまるで「勝手にすればいい」というサインのようにも見えて、アドリアナは控えめに微笑んだ。


「お心遣いは嬉しいのですが……公爵様のお許しをいただかなくては。私自身は、正直なところまだ舞踏会に慣れておりませんので……」


「そうでしたか。では公爵様、いかがです? 僕も無理強いをするつもりはありません。もし公爵夫人が興味をお持ちなら、お連れしたいと思っているだけです」


 エドアルドがあくまで柔らかい口調で問う。ヴァレリウスは、しばし沈黙した後、低く抑えた声で答える。


「……俺は行かない。夫人が行きたいのなら止めはしないが、すべて自己責任で動いてくれ。俺は知らん」


「わかりました。それで十分です。では公爵夫人、後ほど正式にお誘いの手紙を送りますね」


 エドアルドはそう言って、にこやかにその場を離れていく。

 その背中を見送りながら、アドリアナはヴァレリウスへ「すみません、迷惑でしたか?」と小声で尋ねた。愛のない契約結婚とはいえ、夫の許可なく社交に飛び出すのは良くないだろうと思ったのだ。

 すると、ヴァレリウスはグラスに口をつけたまま、視線を合わせようともせずに言う。


「……俺は別に構わないと言った。好きにしろ。ただし、余計な噂を立てたくないのなら、行動には気を付けることだ。エドアルドのように好意的な男でも、周囲からはどう見られるかわからん」


「……はい、肝に銘じておきます」


 少しだけ、アドリアナの胸に不思議な感情がわだかまる。まるで、ヴァレリウスが自分に“他の男と噂になるな”と釘を刺しているようにも聞こえるからだ。

 だがそれは、彼が夫としての独占欲を抱いているのではなく、単に公爵家の名誉や立場を考えているだけなのかもしれない。

 ——あるいは、そのどちらでもあるのか。

 昼餐会を無難に乗り切り、王城を後にした頃には、アドリアナはすっかり疲弊していた。夫婦として隣に並ぶだけでも緊張が絶えず、周囲の好奇の視線を浴び続けるのは想像以上に神経を削る。

 馬車が公爵邸へと戻る途中、アドリアナは窓の外の風景に目をやりながら、ふと先ほどの一件を思い出す。エドアルド子爵の誘いに対し、ヴァレリウスは「行きたければ勝手にしろ」と言った。あれほどまでに無関心な様子なのに、ほんの僅かに苛立ちや警告めいた雰囲気も感じられたのが妙に心に引っかかる。

 隣に座るヴァレリウスは深く考え込んでいるようで、一言も喋らない。彼の横顔に漂う影は、何を想わせるのか。アドリアナは聞きたい気持ちを抑えつつ、視線を外して静かに身をすくめた。

 やがて公爵邸の門が見え、馬車は緩やかに減速していく。帰宅した後はおそらく、ヴァレリウスはすぐに執務室にこもってしまうだろう。

 アドリアナは長い一日を思い返しながら、頭の中でこぼれ落ちる疑問を拾い集める。コーデリアの挑発、ヴァレリウスの冷たい態度、そして少しだけ感じた“独占欲”のような気配。

 “氷の公爵”と呼ばれるヴァレリウス。その心の奥には何があるのか。コーデリアが言うように、本当に誰にも心を開かない男なのか。

 契約結婚だと割り切ったはずの自分が、その謎に惹かれ始めているのだとしたら、それはどれほど無謀なことなのか——。

 答えの見えない思考を巡らせながら、アドリアナは馬車の扉が開くと、再びヴァレリウスの手を借りて地面に降り立つ。二人の距離はわずかにしか縮まっていない。

 けれど、そのわずかな距離ですら、アドリアナの心をざわつかせるのに十分な力を持っていた。


<後日談・静かな溝の中で>


 その夜。

 アドリアナは自室で着替えを終えた後、しばらく窓辺で佇んでいた。昼間の外出時とは違って、夜の公爵邸はどこまでも静かだ。遠くで人々が働く物音や、回廊を急ぎ足で通る侍女の足音がわずかに聞こえるだけ。

 窓の外には月明かりが差していて、淡く銀色に光る庭園が一望できる。昼間に見ると華やかで生き生きとしていた景観も、夜になるとどこか神秘的な雰囲気を帯びる。

 再びドアがノックされ、キアラが夜食用のハーブティーを持って入ってきた。気遣わしげにアドリアナの様子を見て、小声で尋ねる。


「今日は昼餐会、お疲れになられたでしょう? 何か甘いものでも欲しくありませんか? 厨房に言いつければ、すぐに用意できますけど……」


「ありがとう、キアラ。でも大丈夫よ。ハーブティーをいただければ、それで十分落ち着けそう」


 アドリアナは微笑み、ティーカップを受け取る。香り高いハーブの香気が心を和ませ、体の中をスッと整えてくれる感じがする。

 窓辺に腰を下ろし、一口ずつティーを飲んでいると、キアラがためらいがちな口調で切り出す。


「……あの、奥方さま。差し出がましいかもしれませんが、今日の公爵様の様子……少しだけ違って見えたように思ったのです。先日のように突き放すわけでもなく、けれど寄り添うわけでもない。もしかして、奥方さまと少しずつ歩み寄っているのではないかしら……なんて、思ったのですが」


 キアラなりに気を遣ってくれているのだろう。だがアドリアナは、苦笑を浮かべながら首を横に振る。


「さあ……どうかしら。私はまだ、公爵様がどういう方なのか、全然わからなくて。コーデリア様のこともそうだし、昔に何があったかも知らない。彼の心の内を知ろうにも、誰にも触れさせてくれないように思えて……」


「そう、ですね……。公爵様は昔からそうでした。領地に住んでいた頃から、あまり周囲に馴れ合うことを好まれなかったとか。ただ、領民には一切の妥協を許さず、厳しい統治を行う一方で、不正に苦しめられる人を助けたり、災害に遭った村をすぐに援助したり……そういう面もおありになります。だからこそ、誰もが彼を尊敬し、畏怖の念を抱いているのだと思います」


 キアラの言葉は、ヴァレリウスが単なる冷酷漢ではないことを示唆している。領民にとっては頼もしい統治者なのだろう。だからこそ“氷の公爵”と呼ばれながらも、反乱や批判の声は聞こえてこないのかもしれない。

 しかし、そうした手腕や心の在り方と、彼が“夫”としてどのような感情を抱いているかは別問題だ。アドリアナに向けられる態度は、今もなお、氷の膜に覆われたまま。

 ティーカップの底を見つめながら、アドリアナはそっと目を閉じる。ほんの少し前まで、「愛など望まない」と強く言い聞かせてきたはずなのに、どうしてこうも心に波紋が広がってしまうのか。

 そう考えるほどに、ヴァレリウスが先ほど馬車で見せた、わずかに苛立ちを含んだ表情が脳裏に蘇る。エドアルド子爵から舞踏会に誘われたときの、あの一瞬のまなざし——。

 公爵家の体面を考えているだけなのか、それとも、ほんの少しでも“妻”を独占したい気持ちがあるのか。

 アドリアナはまぶたを開き、夜闇の庭園を見つめた。ティーカップを置き、ベッドのそばに立ち尽くしていると、心の奥で小さな声がする。

 ——知りたい。あの人が、氷の奥に秘めている心を。

 それがもし儚い幻だとしても、このまま何も知らずに黙っているなんて、私にはできない。

 夜の闇は深く、静かなまま。どこかで小さく鳥が鳴く声がした。

 そしてまた、一夜が過ぎていく。





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