涙が、あの骨片にぽつりと落ちた。舞い上がった骨灰が俊介の顔にふわりと降りかかる。
ぽつ、ぽつ……涙が次々と落ち続けた。
「別荘が欲しいんだろ?やるよ。ブライドメイド|を辞めたことも、もう追及しない。
だから……お願い……起きろよ」
俊介の声はかすれ、必死だった。
昨日まであんなに元気だった彼女が、たった一晩でこんな灰になるなんて、信じられない。
今、この解剖台に広がるのは、まさしくその現実だった。
彼は骨片を強く握り締めた。掌に走る痛みが、この現実を突きつける。
脳裏には次々と思い出がよみがえる。
彼女が黙って耐えていた痛み。彼女を誤解した数々の瞬間。
あのとき、少しでも違う選択ができていたなら──
いや、もう遅い。
後悔と共に、喉から搾り出されるような嗚咽が狭い部屋に響き渡る。
執事はその姿を見て、再び目に涙をにじませた。
初音の葬儀が終わると、俊介は高熱を出し、ひと月も寝込んだ。
うわ言はすべて、初音の名前だった。
夢の中で彼女を追いかけ、彼女に何度も拒まれ、目が覚めれば、家の中を探して彷徨った。
けれど──彼女はもう、いない。
彼はすっかり痩せこけ、オーダーメイドのスーツすらぶかぶかだった。
家政婦の田中緑が、合わなくなった服を処分しようとしたところ、彼はそれを厳しく叱責した。
俊介が使用人に怒鳴ることはほとんどなかった。唯一、彼が理不尽に当たった相手──それが、朝倉初音だった。
田中は戸惑いながら服を戻すと、彼は丁寧にそれを畳み、かつて朝倉初音がしていたように、クローゼットへ並べた。
「これからは、ここの服には触らないでくれ」
夕食を聞かれても、彼の答えはいつも同じだった。
「何も食べたくない」
病気の後、何を口にしても砂を噛むようだった。
「奥さま──朝倉様が作ったブルーベリージャムがまだ冷蔵庫にありますよ。パンを焼きましょうか?」
「……あいつのジャム?」
瓶を見た瞬間、彼女がキッチンで黙々と鍋をかき回す姿が脳裏に浮かぶ。
瓶には、黒川真奈が来た翌日の日付が書かれていた。
どんな気持ちで、彼女はそのジャムを作ったのだろう。
一口、口に含む。ちょうどいい甘さ。彼の好み、そのままだ。
六瓶分も用意してあった。時間が限られていることを、彼女は自覚していたのだ。
でも──それもいつか、なくなる。
「全部食べ終えたら……また、戻ってきて作ってくれるか?」
返事はない。
彼はひとり苦笑し、最後のひと口まで食べ終えた。
ジャムが尽きたころ、屋敷の草木も水を絶たれたように枯れていった。
初音のいない屋敷は、生気を失った。
風間俊介も同じだった。
外から見れば、彼は以前と変わらぬ姿に見えるだろう。
だが、長年仕えてきた執事と秘書だけは知っていた。彼の生命は、枯れた緑と同じように色褪せていた。
そして半年が過ぎた。
俊介は、豪華客船の試運転イベントに招待された。
責任者が自ら案内し、彼を船内に招き入れる。
三階のカジノに着いたところで、責任者が笑顔で声をかけた。
「風間様も一勝負いかがですか? 公海上ですし、制限はありません」
俊介は興味がなかった。適当に断ろうとしたとき──
視界の端に、見慣れたシルエットが映った。
その瞬間、彼の心臓は大きく跳ねた。
反射的に駆け寄り、その人物の腕をつかむ。
悲鳴とともに振り返ったその顔──
日夜思い続けた、初音の顔だった。
怒りと衝撃が同時に押し寄せた。
「朝倉初音! 一体どこへ行ってた!」
「……あなたは?」
その目は冷たく、よそよそしく、まるで初対面のようだった。
心臓にナイフを突き立てられたような痛み。
「ふざけるな……死んだふりして、面白かったか?」
女は後ずさる。三歩も進めば、背中は壁にぶつかった。
逃げ場を失い、俊介を見上げた彼女は、静かに名札を見せた。
そこには「森川奈緒」と記されていた。
「申し訳ありませんが、私は朝倉初音という人ではありません。
必要であれば、同僚にお聞きしてみますか?」
他人事のような優しい口調が、俊介の怒りを煽った。
「まだとぼけるか?」
彼は奈緒の右肩の服を引きちぎるように開いた。
──そこに、彼が期待した傷痕はなかった。
あるべき場所に、何の痕跡もない。
その仕打ちに、奈緒は怒り、思いきり彼の頬を叩いた。
乾いた音と頬の痛みが、ようやく俊介を正気に戻した。
彼女の赤くなった頬、必死に服を押さえる姿を見て、俊介は己の過ちに気づく。
謝罪のつもりで、ジャケットを脱いで女の肩にかけようとした。
奈緒はそれをはねのけ、名札を地面に落として立ち去った。
俊介は名札を拾い、写真を撮り、秘書へ送った。
──朝倉初音は、本当に死んだのか。
違ったなら、なぜ森川奈緒として生きているのか。
彼の中で、再び執念が目を覚ます。
「今度こそ……絶対に、離さない」
俊介が平然と狂気じみた言葉を口にするのを聞いて、責任者は思わずため息をついた。
彼は最初、朝倉の死に風間が狂うほど悲しんだという話を信じていなかった。
誰もが知っている――朝倉は風間家にとって、ただの飾り物のような存在だったと。
だが今となっては、その噂にも多少の信憑性があるのかもしれない……そう思えてきた。
一方で
森川奈緒はカジノを離れた後、一階の乗組員用宿舎には向かわず、監視カメラを避けて貨物用エレベーターでVIPフロアへと上がった。
今回の任務の目的は、富豪・高橋誠の部屋に潜入し、彼が所持している機密書類を盗み出すことだった。
このクルーズ船のVIPフロアには、かなりの警備が敷かれている。
アクセスには専用の権限カードが必要で、通常の手段では辿り着けない。
奈緒は、セキュリティシステムへのハッキング、外壁のよじ登り、通気口からの潜入など、あらゆる手段を検討していたが、どれも高リスクだった。
一度でも捕まれば、そのまま海に沈められるかもしれない。
彼女がリスクをどう回避するか思案していると、そこに風間俊介が現れた。
風間がVIPリストのトップに載っていることから、彼のカードには間違いなくそのフロアのアクセス権限があるはず。
そして奈緒は、風間が彼女の服を引き裂こうとした瞬間──その混乱に乗じて、彼のポケットからカードを抜き取ったのだった。
このカードは彼に気づかれる前に返却しなければならない。
猶予は多くない。
カードを使って、奈緒は無事に高橋誠の部屋へ到達した。
金庫の暗証番号を解除しようとボタンを操作していたとき、廊下から人の足音が近づいてきた。
その足音は、暗証番号入力の音をかき消すほどに慌ただしかった。
高橋誠の声がドア越しに聞こえてきた。
「急ぎの用件が入った。ヘリで迎えが来ることになった。また日を改めて、正式にお詫びさせてもらうよ」
──彼は、間もなくこの船を離れるつもりらしい。