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第8話 傍観者として自分の過去を聞いた

外の足音がどんどん近づいてくる。

奈緒は知っていた——もし高橋誠がこの船を降りてしまえば、次は彼に近づくことは難しくなる。だから、暗証番号の解読を急いだ。


高橋誠が秘書にモーターボートの到着時間を尋ねるのと同時に、部屋のドアを開けた。

カーテンがそよ風に揺れているのを見て、高橋は違和感を覚えた。

出かけるときは確かにドアを閉めたはずだ。

記憶違いでなければ、誰かが部屋に侵入したということでは?

彼は慌てて金庫を開け、中の書類が無事であることを確認し、ようやく安堵の息をついた。


その頃、奈緒は猫のように静かに一つ下の廊下へと降り立った。

ヘリの轟音が周囲の視線を集めている。これでは、彼女が高橋の厳重に守られた金庫から機密書類を持ち出すなど到底不可能だった。

今回のクルーズでの計画は失敗だ。新たなプランを練り直さなければならない。


一階に降りると、高橋誠がすぐに離れたわけではなく、風間と雑談しているのが目に入った。ポケットの中のアクセスカードを指で撫でながら、奈緒の脳内に新たなアイディアが浮かぶ。

高橋は年配で保守的な性格だ。機密は必ず身の周りに置く主義。

彼女は一時、彼の家のメイドになり、職務を利用して金庫に近づく計画も考えた。

しかし高橋家の使用人のルールは非常に厳しく、決められた場所以外には立ち入れず、書斎や寝室など金庫がありそうな部屋は当然立ち入り禁止区域だった。

間取りも分からず、不慣れな環境での潜入はリスクが高すぎる。

そのため、その案は早々に却下した。

だが、メイドでは自由に動けないとしても、「客人」ならどうだろう?

客であれば邸内を自由に見学できる。今日のように金庫のある部屋に近づける機会だってあるだろう。

ではどうすれば客人になれるか?


奈緒の視線は高橋と話す風間に向けられた。もしかすると、彼が鍵になるかもしれない。

アクセスカードを握りしめ、奈緒は宿舎に戻って服を着替え、再びカジノへと現れた。

ちょうどその時、マネージャーが彼女に伝えた。

「風間様が個室を取られました。ご指名です」

個室に入ると、風間はすでに到着していた。

彼は気だるげに座りながら、指先でハートのエースをくるくる回している。

甲板から吹き込む風に髪が乱れ、その姿にはどこか洗練された雰囲気があった。

奈緒は風間のそばに近づき、腰を屈めて問いかける。

「風間様、何をプレイなさいますか?」

その手はさりげなく、椅子の背にかかっていた彼のジャケットのポケットに伸び、そっとアクセスカードを戻した。


カードのエースがくるりと一回転し、次の瞬間、彼の指の間にあったのは奈緒の社員証だった。彼はそれを人差し指と中指ではさみ、奈緒へと差し出した。

奈緒は驚いたふりをしながら両手でそれを受け取った——実はわざと残していったもの。

こういう地位の人は、彼女自ら会いに行くのは難しいが、向こうが会いに来るのは簡単だ。そのための仕掛けだった。

「拾っていただいてたんですね」

奈緒は身を起こし、風間の左頬にうっすら赤みが残っているのを見て問いかけた。

「まだ痛みますか?」

ハートのエースが再び指先で回る。彼は首を振って言った。

「気が済まないなら、もう一発どうぞ」

彼の視線は遠慮がなく、まるで蛇のように彼女に絡みついてくる。

そんな目で見つめられては、さすがの奈緒も平手打ちなどできない。

「風間様、今日はご接待ですか?」

丸テーブルを回って向かいに座る。


風間は、奈緒がロビーで会った時ほど自分を避けていないことに気づく。

ただし、目に宿るのはやはり「他人」を見る視線だった。まるで、本当に自分を知らないかのように。

半年ぶりに見る彼女は、どうやら演技の腕を上げていた。

「二人だけだ、好きなゲームを選んでくれ」

奈緒はためらわず、カードを開き、シャッフルを始める。カードが手の中で舞い、再び一つに収束していく。

「なぜ私を朝倉初音と呼ぶんです? そんなに似てますか?」

似ているどころか、まるで瓜二つだった。

奈緒は風間に会う前に「朝倉初音」の情報を調べていた。そして、写真を見て、自分とほぼ同じ顔を持つ朝倉の存在に驚いた。

それなら、風間が勘違いしたのも当然だった。自分が彼でも、きっとそうするだろう。

資料によれば、初音は彼の元妻。離婚して間もなく、彼は現在の妻・黒川真奈と結婚式を挙げた。いわゆる切り替えの早い「クズ男」だ。

だが、自分に向けたあの喜びと慎重さに満ちた目は、元妻に向けるそれなのだろうか?


「初音とは長年一緒にいた。後ろ姿だけでも分かる」

エースはテーブルに叩きつけられ、中央の大きなハートが彼女に向けられる。

風間の視線は毒蛇のように鋭く絡みつき、演技の綻びを探していたが、見つからなかった。

そして、奈緒に過去の話を語りかけ、記憶を呼び戻そうとした。

だが、彼女の記憶は消されている。

奈緒はただ他人事のように物語を聞き、

「ふうん、浮気で妻を失って残念でしたね。」

ということは、私を前妻の代わりにしたいのか?」

そのくらいの感覚だった。

――まあ、代わりなどどうでもいい。風間と一緒に高橋家へ入り、任務を果たせればそれでよかった。


風間俊介の胸が一瞬、どくんと鳴った。

奈緒を見つめる視線が、わずかに揺れる。

揺るぎない確信と、疑いをぶつけるように、彼は言い張った。

「君が……彼女なんだ」


奈緒は思わず白目をむきそうになるのを堪えた。こいつは本当に頭がおかしくなっている、そう思った。

——前妻が失踪してからの半年間、彼は自己陶酔の檻に自らを閉じ込め、偽りの“深い愛情”を演じ続けていた。

言葉は立派だが、行動は何一つ伴っていない。

彼女がその朝倉なら、出ていくのは当然だろう。


「……そう?なら、私が“初音”よ」


その一言に、俊介は一瞬だけ嬉しそうな顔をした。

けれど、奈緒が優しげな表情を装いながら、目の奥は死んだように静かだったのを見て——

その喜びは一瞬で消えた。

彼は一口酒を飲む。

半年間失っていた味覚が、初音の帰還とともに戻っていた。

たとえ向こうがどれほど否定しようと、彼の中で「奈緒=朝倉初音」である事実は揺るがない。

夜明けまでカードを交え、彼のチップは全て彼女に奪われた。

それでも彼女は、そのチップを一つ残らず彼の前へ戻した。

「受け取らないのか?」

「初戦から気づいてました。風間様がわざと負けていると」

奈緒は軽く笑い、一番大きなチップを手に取って言った。

「もし気づいてなかったら全部もらってました。でも気づいちゃったんで、もらうわけにはいきません」

「これは罰金です。次はそんな手を使わないでくださいね」

風間はつられて微笑んだ。

「また会う気か?」

本来なら、彼女は猫が犬を避けるように彼を避けるはずなのに、今は次をほのめかしている。

「風間様は面白い方ですし、話しやすいですから。なぜ会っちゃいけません?」

シャッフルする手が一瞬止まり、奈緒が聞いた。

「それとも、さっき私が“浮気”って言ったのが気になりますか?」


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