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第9話 三角関係、再演

俊介は、奈緒に「浮気男」と言われたことをまったく気にしていなかった。

むしろ、彼女がこっそりと毒を吐くその様子が、どこか可愛らしく感じられた。

「じゃあ、また今度ね」


風間が去る姿を奈緒は目で追った。

テーブルを片づけ、チップを整理してフロントへ預けに行った。

物事は思ったよりも順調に進んでいる。

彼は自分が近づいてくることを気にしていないようだったし、自分の正体にも疑いを抱いていないようだった。

それは奈緒にとって警戒すべきでもあり、同時に妙な好奇心を掻き立てられる理由にもなっていた。

その夜、奈緒は改めて「元・風間奥様」の情報を調べた。

しかし公開されている情報は極めて少なく、目立ったのは結婚の報道と風間の浮気スキャンダル程度。

断片的な噂から彼女の人となりを把握することは難しく、奈緒は不安を覚えた。


翌日、風間は再び個室を予約していた。

彼は奈緒にふわふわのケーキを差し出した。皿の上で揺れるそれは、まるで浮かぶ雲のようだった。

奈緒は少し驚いた。

客がディーラーに物を贈るのは珍しくないが、多くは煙草や酒、あるいはチップ。ケーキなどという優しげな贈り物は滅多にない。

それを受け取りながら「今日は何を遊ばれますか?」と訊くと、風間はゆるいパーカーにラフなパンツ姿で、威圧感のない親しみやすい印象を与えていた。

「俊介って呼んでくれ」


“風間社長”から“俊介”へ。ふたりの距離が一歩縮まったようだった。

奈緒はその意図を理解していた。だから彼の望み通りにもう一度尋ね直した。

けれど「俊介」と口にした瞬間、なぜか胸の奥が沈んだ。

風間の表情が変わったのは、彼女が感情なくその名前を呼んだからなのか、それとも記憶の中にいる初音の言い方と違ったからなのか。

同じ声でも、感情のあるなしで全く違って聞こえる。

そこから風間は、かつて初音が自分に向けていた深く抑えた愛情を思い出した。

彼はグラスを持ち上げる。

今日のワインは奈緒が選んだもの。やや酸味のある赤ワインで、今自分の心情にぴったりだった。


前日の軽い“お仕置き”のせいか、あるいは彼自身の気分が沈んでいたのか、今日の彼は容赦なかった。

奈緒は最善を尽くしたが、勝利を掴むことはできなかった。

これが現金勝負だったら、自分の任務資金は大きく赤字になっていたかもしれない。

ふと気づけば昼食の時間になっていて、風間は奈緒をランチに誘った。

断らなかった。

海上とは思えないほど、彼の選んだ料理は蒸し物や湯引きなど、あっさりとした健康的なものばかりだった。

テーブルいっぱいに並んだ白っぽい料理を見て、奈緒はどう評価していいかわからず、「素材本来の味がお好きなんですか?」と尋ねた。

風間は蟹の殻を割る手を止め、「君が好きだったと思って」と答えた。

彼が言った「君」はもちろん奈緒ではなく、前妻のことだった。

彼女は小さくため息をついたが、昨日のように「私は違います」とは言わなかった。

自分を前妻の代わりと見てくれているのは、任務上、むしろ都合がよかった。

「……好きです」

そう口にしながらも、箸はほとんど進んでいなかった。

風間は、それに気づいた。

彼女が本当は好きではないことを。

風間はまた気持ちが沈んだ。初音の好みすら自分は知らなかい。

たとえば、初音がいつも食べていたというケーキでさえ、今日はほんの少ししか口にしていなかった。


午後、ふたりはカジノには戻らず、ショッピングエリアを見て回った。

風間は奈緒に服選びを頼み、それで奈緒は気づいた——彼の服はブカブカで、デザインも古臭い。

風間の立場や財力を考えれば、そんな格好は明らかに不釣り合いだった。

だが、彼自身はまるで気にしていない様子だった。

風間の好みがよく分からなかった奈緒は、自分のセンスでいくつか選んだ。

高級ブランドの既製品は、その場でサイズ調整やアクセサリーの変更もできる。

店員がカフスボタンやブローチをどうするか尋ねてくると、風間はすべて彼女に任せた。

奈緒は無難なカフスを二つ選んだ。派手すぎず、控えめなデザイン。


けれど、風間はどこか物足りなさそうだった。

そこで奈緒は思いきって、自分の好みでルビーのカフスを選んだ。鮮やかな色合いが、カジュアルなスーツによく映えていた。

風間は、微かに笑った。

もしかすると彼は、前妻の好みを本当には知らないのかもしれない。自分の好みを、勝手にその朝倉さんのものだと勘違いしているだけ。

奈緒は何度も確かめていた。

風間は、思い出の中の“初音”に閉じ込められ、そこから動けずにいる。

そのことは、彼女にとって有利なはずだった。

なのに、心は妙に重たかった。まるで嵐の前の静けさのように。

もしかすると——風間が語った“前妻”への想いが、彼女の心を揺らしていたのかもしれない。

夫に捨てられ死んだあの女性を思うと、奈緒は気の毒でたまらなかった。

気づけば、クルーズの試航イベントも終盤に差しかかっていた。

風間は奈緒に「これからの予定は?」と訊ねた。

奈緒は笑って、「引き続きディーラーをやるつもりです」と答えた。

彼は何も言わなかった。


その晩、マネージャーが奈緒に告げた。

「航海終了後、風間様と一緒に下船していただきます」

“共に下船する”という言葉の裏には、さまざまな意味がある。

従業員として? それとも愛人として?

この手の場所では、後者が一般的だ。

奈緒は驚かなかった。

風間がそう決めたのなら、彼に近づくための苦労はぐっと減る。

下船の日、奈緒は風間と一緒に岸に上がった。

だが彼の表情は複雑で、何度か口を開きかけては言葉を飲み込んだ。

奈緒には理解できなかった。自分で決めたことなのに、なぜ彼はそんな顔をしているのか。

その答えは、桟橋に立つ人影を見てわかった。

迎えに来たのは——彼の今の妻だった。


奈緒と風間があって以来、黒川真奈はすでに情報を入手していた。

風間が女を徹底的に守っていたため、詳しい情報をつかむことはできなかった。

だが「彼がその女を連れて帰る」と聞いて、黒川は怒り狂い、風間が絶対に嫌がることを実行に移した——港へ迎えに来たのだ。

風が強く、彼女のスカーフが吹き飛ばされ、クルーズ船の方へと舞っていった。

そのスカーフが風間の肩に落ちかけたその瞬間、背後から伸びてきた白く細い手がスカーフを受け止めた。

風間体を傾け、その背後に立つ女性の顔が露わになる。

黒川がその顔をはっきり見た瞬間、瞳孔が大きく開いた。

手から落ちた本革のバッグが風で倒れ、音を立てて転がり、周囲の人々の視線を集めた——。


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