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第10話 本能が動くとき

周囲の視線の中で、俊介だけは違っていた。奈緒に何かを囁いていた。その瞳に宿る感情は、黒川が一度も見たことのないものだった。

初音は……生きているの?

黒川はすぐにその可能性を否定した。

火葬場へ運んだのは執事だったし、俊介も遺体を確認している。

あの朝倉でも、俊介の確認を欺けるはずがない。

だから——あの女は初音ではない。

ただ似ているだけ。

だが、それだけで心臓が煮えたぎるような怒りが込み上げてくる。


黒川は奥歯を食いしばっても、その怒りを抑えることができなかった。

初音が死んで半年も経つというのに、風間俊介はまだ引きずっている。しかも、似た女を身代わりにして連れ歩くなんて……

これでは、自分が侮辱されているようなものではないか。

黒川は前へ出て、俊介に言った。

「クルーズも十分楽しんだでしょう? そろそろ家に帰るべきよ」

奈緒はできるだけ自分の存在感を薄めたかった。風間夫婦が自分のことで争うのを避けたかったのだ。

計画に支障をきたす争いは望んでいない。


黒川というと、あからさまな侮蔑の視線で奈緒を見下した。

シンプルで飾り気のない服、無造作に下ろした髪。

やっぱり身代わりは身代わりね——本物よりも田舎臭いわ。

見下されたのは分かったが、奈緒は気にしなかった。衝突は極力避けたい。


けれど黒川真奈はそれを許さなかった。言葉は鋭く、刺々しい。

「拾ってきた女なんてペットにでもしておけば? でも、病気持ちだと厄介よ?」

どんなに俊介が彼女を庇っても、情報が少しは漏れていた。

——奈緒はカジノのスタッフ。

俊介は眉をひそめ、ちらりと奈緒を見やる。

彼の横にいたはずの奈緒は、いつの間にか手を伸ばしても届かない距離に下がっていた。

彼はその距離に不満を覚えた。

「こっちに来い」


黒川真奈のこわばった表情と険しい顔色を見て、奈緒は近づくのをためらった。

3秒待っても奈緒が一歩後ろへ下がったのを見て——

「おまえは帰れ」

そう俊介は、黒川に言い放った。

口調は穏やかに聞こえたが、彼をよく知る者なら、それが“警告”であると分かるだろう。

——この場から立ち去れ、そして奈緒に近づくな。


黒川の瞳が揺れた。信じられないといった表情で、俊介を見つめた。

身代わりのために、妻である自分にそんなことを言うなんて。

俊介はもう彼女を見ず、奈緒を引き連れてその場を離れた。

その手には、容赦のない力がこもっていた。あの日、服を引っ張られた時よりもずっと強く、拒否も抵抗も許さない。

奈緒は黒川の隣を通り過ぎるとき、彼女が風に吹かれながら泣いているのが見えた。

だがその涙を見ても、奈緒は別に何の快感も覚えなかった。ただ胸に鬱々とした重さが残った。

——きっと昔、前妻もこんな風に扱われたのだろう。

所詮は、用済みになれば捨てられる駒。

奈緒は黒川に同情はしなかった。彼女は“略奪愛”でその座を得たのだ。こうなるのは自業自得。

クズ男を選んだなら、クズのように扱われる覚悟もすべきだ。


車に乗ると、風間は秘書に命じた。

「周辺を徹底的に調査しろ。さっきの一件がニュースになったりしたら困る」

秘書は頷き、指示を受けて車を降りた。

奈緒は窓の外を見ながら、ふと風間に問いたくなった。

——やっぱり、彼は黒川の方が大切なのでは?

少なくとも、黒川のことを前妻のように“笑いもの”にはしていない。


「さっき、なぜ下がった?」

車が港を離れ、風が吹いた。奈緒の長い髪がふわりと舞い、彼の頬をくすぐった。

彼はその髪をそっと掴んだ。

奈緒は正直に言った。

「私のせいで、あなたたちがケンカするのは避けたかった。意味ないから」

風間は、彼女の言葉から嘘を見抜こうとしたが、奈緒の表情は真剣そのもので、嘘のようには見えなかった。

手の中から滑り落ちる髪。彼女もまた、いつだって自分の手の中から消えてしまいそうだった。

不安と苛立ちが胸に湧き上がり——彼は彼女の手首をぎゅっと握った。

その力に、奈緒は痛みを覚え、振り払おうとしたができなかった。

風間の目を見上げると、狂気に近い執着が浮かんでいた。

直感が告げた——この状況で問いただすのは危険だ。

だから、奈緒は直感に従って静かに言った。

「ちょっと、痛いです……」

彼は手を緩めたが、放すことはなかった。


風間は奈緒を別荘に連れて帰った。

執事が奈緒を見た瞬間、思わず口をついて出た言葉は——

「奥様……?」

奈緒が説明しようとした瞬間、執事はすぐ気づいて頭を下げた。

「失礼しました。あまりにも似ていたので……」

彼が前妻ではないと気づいてくれて、奈緒は少し安心した。

「田中、彼女を部屋に案内してくれ」

風間が奈緒の荷物を手渡しながら家政婦・田中緑に命じた。


執事とは対照的に、田中は感情が顔に出る。

最初は驚き、次に悲しみ、最後は不満。

奈緒には分かった。その不満は自分にではなく、風間に向けられていた。

対して、彼はそれに気づかず、奈緒の方を振り返って優しく言った。

「ゆっくり休んでて。後で用事が済んだら行くから」

奈緒は目を伏せて頷き、田中に従って2階の部屋へ向かった。

そこが“主寝室”だとは知らなかった。

クローゼットに男女の衣服が並ぶまで——

その中にあった、一着の水色レースのワンピース。

それはかつて、奈緒が調査で見た前妻の写真に写っていた服だった。

——まだ残っているの? 黒川は気にしなかったの?


奈緒がそのワンピースの前でじっとしていると、田中が声をかけた。

「その服には触らないでください。旦那様が怒りますから」

前に風間俊介の古い服を処分しようとした時の怒りを思い出して、田中は身震いした。

「奥……」

言いかけて、悲しげな声で言い直した。

「初音様の服も、どうか触らないでください」

田中は衣裳部屋を出る際、小さく溜息を漏らした。

奈緒はふと、皆が自分を見るその“哀しげな目”に違和感を覚えた。

その理由を尋ねようとしたとき——

「彼女は奥様ではありません。もし奥様が生きていたら、自分のような女性を、代わりにはさせなかったはずです!」

執事の厳しい言葉が聞こえてきた。

けれど風間は穏やかな目で返す。

「違う。体が、魂が、彼女が初音だと訴えている」

執事は何も言わず、深い哀しみを湛えた目で彼を見つめた。


——執事も、自分と同じように、風間を狂っていると思っているのかもしれない。

田中の哀れむような目と、あの小さな溜息。

——自分は、身代わりとして哀れまれているのだ。

奈緒は主寝室に戻ると、高橋誠の別荘の見取り図を確認した。

持っているのは建設当初の図面。有力者は改装が好きなので、これはあくまで参考程度。

実際の構造や金庫の場所は、現地を調べて確認する必要がある。

彼の性格から考えて、金庫は寝室か書斎にあると推測。

その場所をマークしていると、足音が近づき、彼女はタブレットを閉じた。


すぐにドアが開き、風間が入ってきた。

「スーツを用意してくれ。会社で用がある」

奈緒は思った——なぜ自分がそんなことを。

でも指示通り、スーツだけでなく、腕時計、ネクタイピン、靴まで用意していた。

終えた後に、ふと我に返る。

——おかしいな。言われたのは“スーツ”だけなのに、なぜ自然に全部揃えてしまったのだろう?


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