周囲の視線の中で、俊介だけは違っていた。奈緒に何かを囁いていた。その瞳に宿る感情は、黒川が一度も見たことのないものだった。
初音は……生きているの?
黒川はすぐにその可能性を否定した。
火葬場へ運んだのは執事だったし、俊介も遺体を確認している。
あの朝倉でも、俊介の確認を欺けるはずがない。
だから——あの女は初音ではない。
ただ似ているだけ。
だが、それだけで心臓が煮えたぎるような怒りが込み上げてくる。
黒川は奥歯を食いしばっても、その怒りを抑えることができなかった。
初音が死んで半年も経つというのに、風間俊介はまだ引きずっている。しかも、似た女を身代わりにして連れ歩くなんて……
これでは、自分が侮辱されているようなものではないか。
黒川は前へ出て、俊介に言った。
「クルーズも十分楽しんだでしょう? そろそろ家に帰るべきよ」
奈緒はできるだけ自分の存在感を薄めたかった。風間夫婦が自分のことで争うのを避けたかったのだ。
計画に支障をきたす争いは望んでいない。
黒川というと、あからさまな侮蔑の視線で奈緒を見下した。
シンプルで飾り気のない服、無造作に下ろした髪。
やっぱり身代わりは身代わりね——本物よりも田舎臭いわ。
見下されたのは分かったが、奈緒は気にしなかった。衝突は極力避けたい。
けれど黒川真奈はそれを許さなかった。言葉は鋭く、刺々しい。
「拾ってきた女なんてペットにでもしておけば? でも、病気持ちだと厄介よ?」
どんなに俊介が彼女を庇っても、情報が少しは漏れていた。
——奈緒はカジノのスタッフ。
俊介は眉をひそめ、ちらりと奈緒を見やる。
彼の横にいたはずの奈緒は、いつの間にか手を伸ばしても届かない距離に下がっていた。
彼はその距離に不満を覚えた。
「こっちに来い」
黒川真奈のこわばった表情と険しい顔色を見て、奈緒は近づくのをためらった。
3秒待っても奈緒が一歩後ろへ下がったのを見て——
「おまえは帰れ」
そう俊介は、黒川に言い放った。
口調は穏やかに聞こえたが、彼をよく知る者なら、それが“警告”であると分かるだろう。
——この場から立ち去れ、そして奈緒に近づくな。
黒川の瞳が揺れた。信じられないといった表情で、俊介を見つめた。
身代わりのために、妻である自分にそんなことを言うなんて。
俊介はもう彼女を見ず、奈緒を引き連れてその場を離れた。
その手には、容赦のない力がこもっていた。あの日、服を引っ張られた時よりもずっと強く、拒否も抵抗も許さない。
奈緒は黒川の隣を通り過ぎるとき、彼女が風に吹かれながら泣いているのが見えた。
だがその涙を見ても、奈緒は別に何の快感も覚えなかった。ただ胸に鬱々とした重さが残った。
——きっと昔、前妻もこんな風に扱われたのだろう。
所詮は、用済みになれば捨てられる駒。
奈緒は黒川に同情はしなかった。彼女は“略奪愛”でその座を得たのだ。こうなるのは自業自得。
クズ男を選んだなら、クズのように扱われる覚悟もすべきだ。
車に乗ると、風間は秘書に命じた。
「周辺を徹底的に調査しろ。さっきの一件がニュースになったりしたら困る」
秘書は頷き、指示を受けて車を降りた。
奈緒は窓の外を見ながら、ふと風間に問いたくなった。
——やっぱり、彼は黒川の方が大切なのでは?
少なくとも、黒川のことを前妻のように“笑いもの”にはしていない。
「さっき、なぜ下がった?」
車が港を離れ、風が吹いた。奈緒の長い髪がふわりと舞い、彼の頬をくすぐった。
彼はその髪をそっと掴んだ。
奈緒は正直に言った。
「私のせいで、あなたたちがケンカするのは避けたかった。意味ないから」
風間は、彼女の言葉から嘘を見抜こうとしたが、奈緒の表情は真剣そのもので、嘘のようには見えなかった。
手の中から滑り落ちる髪。彼女もまた、いつだって自分の手の中から消えてしまいそうだった。
不安と苛立ちが胸に湧き上がり——彼は彼女の手首をぎゅっと握った。
その力に、奈緒は痛みを覚え、振り払おうとしたができなかった。
風間の目を見上げると、狂気に近い執着が浮かんでいた。
直感が告げた——この状況で問いただすのは危険だ。
だから、奈緒は直感に従って静かに言った。
「ちょっと、痛いです……」
彼は手を緩めたが、放すことはなかった。
風間は奈緒を別荘に連れて帰った。
執事が奈緒を見た瞬間、思わず口をついて出た言葉は——
「奥様……?」
奈緒が説明しようとした瞬間、執事はすぐ気づいて頭を下げた。
「失礼しました。あまりにも似ていたので……」
彼が前妻ではないと気づいてくれて、奈緒は少し安心した。
「田中、彼女を部屋に案内してくれ」
風間が奈緒の荷物を手渡しながら家政婦・田中緑に命じた。
執事とは対照的に、田中は感情が顔に出る。
最初は驚き、次に悲しみ、最後は不満。
奈緒には分かった。その不満は自分にではなく、風間に向けられていた。
対して、彼はそれに気づかず、奈緒の方を振り返って優しく言った。
「ゆっくり休んでて。後で用事が済んだら行くから」
奈緒は目を伏せて頷き、田中に従って2階の部屋へ向かった。
そこが“主寝室”だとは知らなかった。
クローゼットに男女の衣服が並ぶまで——
その中にあった、一着の水色レースのワンピース。
それはかつて、奈緒が調査で見た前妻の写真に写っていた服だった。
——まだ残っているの? 黒川は気にしなかったの?
奈緒がそのワンピースの前でじっとしていると、田中が声をかけた。
「その服には触らないでください。旦那様が怒りますから」
前に風間俊介の古い服を処分しようとした時の怒りを思い出して、田中は身震いした。
「奥……」
言いかけて、悲しげな声で言い直した。
「初音様の服も、どうか触らないでください」
田中は衣裳部屋を出る際、小さく溜息を漏らした。
奈緒はふと、皆が自分を見るその“哀しげな目”に違和感を覚えた。
その理由を尋ねようとしたとき——
「彼女は奥様ではありません。もし奥様が生きていたら、自分のような女性を、代わりにはさせなかったはずです!」
執事の厳しい言葉が聞こえてきた。
けれど風間は穏やかな目で返す。
「違う。体が、魂が、彼女が初音だと訴えている」
執事は何も言わず、深い哀しみを湛えた目で彼を見つめた。
——執事も、自分と同じように、風間を狂っていると思っているのかもしれない。
田中の哀れむような目と、あの小さな溜息。
——自分は、身代わりとして哀れまれているのだ。
奈緒は主寝室に戻ると、高橋誠の別荘の見取り図を確認した。
持っているのは建設当初の図面。有力者は改装が好きなので、これはあくまで参考程度。
実際の構造や金庫の場所は、現地を調べて確認する必要がある。
彼の性格から考えて、金庫は寝室か書斎にあると推測。
その場所をマークしていると、足音が近づき、彼女はタブレットを閉じた。
すぐにドアが開き、風間が入ってきた。
「スーツを用意してくれ。会社で用がある」
奈緒は思った——なぜ自分がそんなことを。
でも指示通り、スーツだけでなく、腕時計、ネクタイピン、靴まで用意していた。
終えた後に、ふと我に返る。
——おかしいな。言われたのは“スーツ”だけなのに、なぜ自然に全部揃えてしまったのだろう?