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第11話 この夫婦、おかしい

奈緒は、自分に向けられた視線に気づいて振り返ると、鏡越しに風間のまなざしと目が合った。

彼の瞳には微笑みが浮かんでおり、どうやら彼女が自らアクセサリーまで選んだことを良しとしているようだった。説明しようかと迷ったが、それも無意味に思えた。

もともと奈緒は、風間に“前妻”として扱われることを望んでいた。彼が前妻に抱える罪悪感や未練を利用することで、目的を果たそうとしていたのだから。

今の状況は、まさに願った通り。奈緒は目を伏せたまま、ふと彼のシャツが開いているのに気づいた。

服の上からは細身に見えたが、実際は筋肉の盛り上がった大柄な体格ではなく、芯の通った引き締まった体。

視線をさらに上げると、風間は相変わらず余裕の笑みを浮かべながら、奈緒をじっと見つめていた。

その視線に、向こうは見られていることをまったく気にしていない様子だった。気にされないなら、自分も遠慮はしない。淡々と見返し、そのまま更衣室を出た。


「たぶん、今夜は一緒に食事できない。待たなくていいよ」

彼がそう言うが、奈緒はもともと待つつもりはなかった。

口ぶりから察するに、前妻は彼の帰りをいつも待っていたのかもしれない。

だとすれば、自分も待つべきなのだろうか——そんな迷いがよぎったとき、執事が声をかけてきた。

「森川様、黒川様がお見えです。お会いになりたくなければ、お断りいたしましょうか?」

奈緒は疑問に思った。

ここは風間俊介の家……つまり妻・黒川真奈の家でもあるはず。

彼女が訪れるのは自然なことでは? なのに「会わなくていい」と言われる立場なのか?それに、なぜ執事は彼女のことを「黒川様」と呼び、「奥様」とは呼ばないのか。

主寝室のクローゼットを見る限り、風間はここを拠点にしている様子。

ならば黒川真奈は、どこに住んでいるのだろう? もしかして別居中?

次々と湧き上がる疑問に突き動かされそうになるが、奈緒はその好奇心を抑え込んだ。

今は任務が最優先——彼らの私生活に深入りする時ではない。正面から黒川真奈と対峙したくはない。

断ろうと口を開いたそのとき、鋭いヒールの音と家政婦・田中緑の慌てた声が響いた。

「黒川様、そこは立ち入り禁止です!」

……どうやら、もう断るタイミングは過ぎてしまったようだった。


次の瞬間、黒川が主寝室に入ってきた。

奈緒がベッドに腰掛けているのを見るなり、黒川真奈の表情はさらに険しくなった。

執事が前に出る。

「黒川様、旦那様からこの別荘への立ち入りを禁じられております」

——立ち入り禁止? なぜ?

その疑問に対し、黒川真奈が言葉を返す。

「彼女がいなくなってから、私はここに入れなくなった。

……でも今、戻ってきたんでしょ?」

奈緒はようやく理解した。風間は“前妻”がいなくなったことを理由に、黒川の立ち入りを禁じていた。

——それならば、彼女の離別と黒川真奈は無関係ではないのかもしれない。

それにしても、夫がすぐに次の女を連れ込んだ家に、前妻が戻ってくるなんて——


「私と話したいことがあるんでしょう?」

黒川は、風間の警告を無視してまで会いに来た。

今日会わなくても、いずれまた訪れるだろう。ならば今、彼が不在のこのタイミングが最善だ。奈緒は執事に声をかけた。

「席を外していただけますか? ドアも閉めてください。ありがとう」

執事は一瞬ためらったが、彼女の指示に従って部屋を後にした。

室内には二人きり。

黒川はすぐには話さず、まずは部屋の様子を眺め始めた。

インテリアは温かみのある落ち着いた空間だが、部屋の隅に置かれたサボテンだけが場違いだった。

しかもそのサボテンはすでに枯れていた。

乾燥に強いはずのサボテンをここまで弱らせるとは、この別荘では誰も植物に気を配っていないらしい。黒川がサボテンに手を伸ばす。

奈緒は止めようとしたが、声をかける前に彼女の指先が棘に刺さった。

痛そうに顔をしかめた黒川真奈は、微笑みながら言った。

「絆創膏、持ってきてくれる? ベッド脇の引き出しにあると思うの」

奈緒は言われた通りに引き出しを開けた——

そこにあったのは、身に覚えのない身分証明書。

顔写真は自分と瓜二つだが、それは自分のものではなかった。

朝倉初音のカードだった。——彼女のカードがここにある? 風間はまだそれを手元に残していた?

そして、思い出す。黒川と執事の会話から察するに、この別荘は朝倉初音——つまり前妻の痕跡を保管するための場所。

ならば彼女の物があっても不思議ではない。

奈緒は薬箱を取り、黒川に手渡した。

黒川は、彼女が何も反応を示さなかったのを見て、まだカードを見ていないと判断したのか、続けた。

「絆創膏、ないね。もう一度探してくれる?」

薬箱を開けることなく、再び探すよう指示する。

奈緒は言った。

「本当に絆創膏が必要なんですか? それとも、あの引き出しの中身を見せたかっただけ?」

——つまり、それが目的。自分が“身代わり”であることを、わざと気づかせたかったのだ。

もし自分がただの愛人なら、傷ついたかもしれない。

でも、彼に近づいたのは任務のため。

身代わりであることが任務を遂行する手段になるなら、構わない。


「後者なら、私はもうあれを見たわよ」

黒川は動揺する。見たのに、どうしてこんなに平然としていられるの?

彼女は笑い、薬箱を放り投げてポケットに手を突っ込む。

「他人の代わりでここにいることに、何も感じないの? 彼に気がないのに、なぜ近づくの?」

奈緒は答えず、代わりに質問を投げた。

「あなたは言ったわね。彼女がいなくなってから、この別荘には入れなかったって。

じゃあ、どうして引き出しの中に何があるか知ってるの?」と問い詰める。

「彼の禁止令が出る前に来てた? それとも彼女が出て行く前に?」

黒川はその勢いに押され、思わず後退り。

壁にぶつかって、ようやく我に返った。

目の前の女は朝倉にそっくりだが、決して朝倉じゃない。

本物の朝倉は自分に対していつも怯えていた。だが今目の前にいる女は——自分に怖れるどころか、恐怖すら与えてくる。


「……そんなこと知ってて、何になるの?」

喉を詰まらせながら、黒川は妙に低い声で言った。

「身代わりになるのはやめた方がいい。傷つくだけよ」

その言葉は、一見優しげで真摯だった。

まるで迷子になりかけた妹を心配する姉のよう。でも、朝倉と風間が離婚する前にすでに妻という立場で社交の場に現れていた黒川が、そんな人物であるはずがない。

奈緒は、その偽善を一目で見抜いた。

だが、あえてそれを否定せず、静かに答える。

「人は、自分で壁にぶつかってみないと、痛みなんてわからない。

……もし限界まで痛みを感じたら、そのときは彼の元を離れるかもよ」

黒川の目がわずかに鋭くなった。

——“限界まで痛みを”?


風間は、黒川がこの別荘を訪れたと聞いて、すぐに戻ってきた。

だが彼女はすでに立ち去った後だった。田中が声をかける。

「森川様はまだ夕食を取っておりません。ご一緒になさいますか?」

時計の針はすでに七時を過ぎている。

風間は夕食を手に取り、寝室に入った。

奈緒はソファに腰を下ろし、ニュース番組を見ていた。

彼が入ってくると、一瞥だけして、すぐに目を戻した。

挨拶も、言葉も、なかった。そのまま、画面に目を落とし続けた——。


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