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第12話 風変わりな愛人

風間は奈緒の表情がどこか険しいのに気づき、尋ねた。

「あの女が君を怒らせたのか?」

黒川の言葉は、奈緒の心を動かすには至らなかった。

ただ、彼女が去り際に投げかけてきたあの頑なな視線が、奈緒の胸に小さな違和感として残った。本当はこの一度の対話で、余計なトラブルを減らしたかったのに。

だが、どうやら逆に新たな面倒が増えてしまったようだ。任務への影響を避けるためにも、奈緒は作戦の進行を早めることにした。

手にしていたタブレットを適当に置き、あるニュース記事を指差した。


「高橋さんが高橋邸で金婚式の晩餐会を開くんだって。

……私も一緒に行っていい?」

人目の多いパーティー、しかも会場は高橋邸。

内部の偵察にはうってつけの機会だった。


だが、風間の顔色が変わった。目の柔らかさが消え、代わりに疑念の色が浮かぶ。

再び、鋭い視線が奈緒を射抜く。

「……どうして君が高橋誠の金婚式に行きたいんだ?」

奈緒の胸がヒヤリと冷えた。

これまで風間は自分に対して寛容で、何でも受け入れてくれると思っていた。

だからこそ、軽い気持ちでこのお願いを口にしてしまったのだ。しかし、冷静に考えれば、今の自分はただのカジノのディーラーにすぎない。

高橋誠と直接関わる立場ではない。そんな自分が、なぜ突然金婚式に出席したいと言い出したのか——

それは、彼にとって十分に怪しまれる理由だった。もしここで疑いが深まれば、任務どころではない。

正体が気づかれたら、すべてが水の泡に帰す。


部屋には奈緒の心音が響くほどの静けさが漂っていた。

なるべく平静を装い、タブレットを手に取った。

「……そこまで行きたいわけじゃないけど、あんたの奥様が言ってたの。

私のこと、あんたが“隠してる”って。……本当なの?」

視線を落とし、彼を見ようとしないまま、奈緒は不安げに問うた。

風間は察した。

「……黒川の言葉に影響されたか。

この宴会に出席すれば、“隠されていない”と証明できる……そう思ったんだろう?」


奈緒は黙ったまま顔をそむけ、抱き枕の飾りを無言で指でつまみながらこうつぶやいた。

「……あの人、本当にうるさいの」

正面から答えることはなかったが、それが答えと同じだった。

飾りをぎゅっと握る仕草は、奈緒の苛立ちと混乱の心情を物語っていた。

計画通り、風間はそれを嫉妬に駆られた少女のすねた態度だと勘違いした。

目に再び柔らかさが宿る。

「……まずは食事にしよう。宴会のことは、そのあと考えよう」

奈緒はこっそり彼の顔をうかがい、疑いが晴れたことを確認すると、あっさり調子を合わせた。

「じゃあ、食べたら連れてってくれるってこと?」

風間は、彼女が飾りをいじるのをやめたのを見て微笑んだ。

「……まずは食べよう」

奈緒はさらに押した。

「ちゃんと答えて。連れてってくれるの?」

風間の顔が少し厳しくなる。

「……ご飯食べてから、行くかもしれない。

食べなければ、絶対に連れていかないよ」

奈緒は仕方なくおとなしく箸を取った。

けれど、食後、風間俊介ははっきりと彼女の提案を拒否した。

「……金婚式の晩餐会には多くの記者が来るだろう。

君が一緒だと注目されすぎる。君にとって良くない」

もっともな理由だった。

奈緒にとっては世間の目などどうでもいいが、顔写真を撮られるのは致命的。

任務にも支障をきたすし、以後の行動にも影響が出る。

素直にこの理由を受け入れ、別の方法で高橋邸に入り込む策を考え始めた。

「じゃあ、あなたは一人で行くの? それとも……黒川さんと?」

風間は、一人で出席するつもりだった。


しかし翌日——

黒川が会社に現れ、高橋邸に行く際のドレス選びについて俊介に聞いてきた。

ドレスの話は表向きで、本当は自分を連れて行く気があるかを探るためだった。

「……ドレスはいらない。君も、同行の必要はない」

その言葉に、黒川はつい言い返しそうになった。

——まさか、あの“代役”を連れて行くつもりじゃないでしょうね?

口をついて出そうになった問いを、奥歯を噛んで飲み込んだ。

俊介に歩み寄り、甘い声で囁いた。

「……ゴシップ誌が、“初航の夜に美女と密会”って報じてたわね?」

大手メディアが報じず、噂止まりで終わっているのは、俊介の手回しによるものだろう。

つまり、彼は“あの女”を守っている——黒川の胸は焼けつくような嫉妬で満たされた。

「……私たち夫婦が仲睦まじく見えれば、その噂も打ち消せる。

あの子にとっても、かえって守りになるのよ」


俊介は静かに彼女を見つめた。

その視線には不信と、圧が込められていた。黒川は息が詰まりそうになりながらも、声を振り絞った。

「……私の気持ちを信じてなくてもいい。でも、あなたに喜んでもらいたいのは本心よ。

彼女のことも……できれば傷つけたくない」

その哀しげな瞳に、風間俊介はふと過去の記憶を思い出していた。

胸の奥が少しだけ軋んだ。——そして、ついに彼女の提案を受け入れた。


その晩——

奈緒は田中が切ってくれたフルーツカットを抱えてソファに座り、晩餐会の生中継を見ていた。

高橋邸の構造を、記者のカメラを通して探ろうと試みる。

だが、建物の内部は映らなかった。代わりに、風間が黒川と腕を組んで登場するシーンが映る。

リポーターがふたりにインタビューを求めた。

風間は乗り気ではなさそうだったが、黒川が足を止めると、彼もそれに倣った。

そして——

奈緒と風間の関係を問われたとき、黒川の目がカメラ越しに奈緒をとらえた。

眉をほんのわずかに上げ、穏やかな口調で言った。

「私たち夫婦はとても仲が良いんです。外の噂に左右されるような関係じゃありません」

それは、カメラを通じて「あなたは部外者よ」と奈緒に言っているようだった。

奈緒は甘酸っぱいパイナップルを一口。

そんなことより、早く記者が邸内に入ってくれないかと、心の中で願っていた。

そのとき——テレビの電源が切られた。

振り返ると、執事が無言で立っていた。

「森川様。あの方と黒川様が一緒に出席したのは……理由があるのです」

執事は初音と俊介の関係がすれ違った原因を知っているからこそ、今度はまた同じ過ちが繰り返されないようにと説明したかった。

だが同時に——その説明が奈緒が俊介への気持ちを深めてしまうのではないかという懸念もあった。

迷う彼に、奈緒は冷たく言い放った。

「……それより俊介と高橋家って、そんなに親しいの?」

なぜそんなことを聞くのかと、不思議そうな執事。


奈緒はテレビをつけ直し、さらりと言った。

「私もね、正式に招かれて高橋邸に行きたいのよ」

画面の中では、風間と黒川が高橋邸へ歩いていた。

執事は、彼女が悔しさから対抗心を燃やしていると理解した。

本当はそんな必要はないと思ったが、彼は静かに説明を始めた。

「……両家は古くからの付き合いがありまして、頻繁に取引もございます」

奈緒はうなずいた。

なるべく早く、高橋邸に入る手段を見つけなければならない。

できることなら——風間俊介に連れて行かせるのが一番いい。

そう思いながら、奈緒は執事との会話を続けた。


話の中で、執事が奈緒のことを“前妻”としてよく知っていることに気づく。

前妻について詳しく知ることは、きっと今後の助けになる。

「……あなたから見て“朝倉初音”って、どんな人だったの?」

思いがけない質問に、執事は一瞬言葉を失った。

さらに驚いたのは、奈緒の声に何の感情も込められていなかったことだった。

まるで——「今夜の夕飯、何がいいかしら?」とでも言うような、他愛のない調子だった。


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