ゴツン――
――カツン。
淡い月光が大地を薄く覆い、隣では人工の光が機械的な明滅を繰り返している。
冷たい空気が肌に触れるたび、彼の感覚は鋭敏さを増していった。
廃墟の中を駆け抜けていく人影。瓦礫を飛び越え、躓きそうになる足を踏ん張り、息を切らしながらも走り続ける。迫りくるヴァジュタス。その巨体が風を切り、鋼鉄の鱗には、枝や
宵闇の中に浮かび上がる青年。それを見つめる影が、月光を受けてわずかに輪郭を浮かび上がらせる。
「エーテル!」
その声と同時に、飛行ユニット『
荒い息を整えていると、遠くから地面を叩く音がかすかに聞こえ始めた。最初は微かだったその音が、次第に間隔を詰めながら近づいてくる。自然と音の方へ振り向くと目の端に影が揺れ、徐々に形を成していく。
「ユトス……やっと、見つけた」
「マリナか」
風が吹くたびに、黄金色の髪が揺れ、彼女の心配そうな瞳がちらりと見え隠れする。
「ケガは?」
その手が触れる前に、身を引いてそっと避ける。
「してない」
倒れた鹿に向き合り、短く息を吐きながら冷静さを装ってとどめ刺しをする。それでも、彼女の視線はずっとこちらに注がれていた。
「慣れた頃が一番危ないのに……」
「一人で」
「そういう問題じゃない」
彼女は大きくため息をつき言葉を遮る。
軽く肩をすくめながら、慎重な足取りでしゃがみ込むと、小枝を拾い鹿をつつく。目を細めてじっくりと観察し始めた。
「血液採取するね」
「まだそんな無駄なことしてんのか?」
「無駄じゃないし……」
彼女はそう言いながら、真剣な面持ちで針を刺していく。呆れていると、後ろから声をかけられる。部隊長のウィル、がたいのいい男だ。
「シグナルを出さなかった理由はなんだ?」
「……」
「まったく。一人でやろうとするな。協力しろ」
ウィルは優しく肩を叩く。その手には温もりがあった。
「……すみません」
うなずきはしたが、俺ならできるという気持ちが勝っていた。
すると、マリナに背中を叩かれ「ウグッ」と背筋が伸びる。
「終わったよ! 運ぼう!」
結構な力だったので、咳き込む。この子最近、力強くなってない?
ともかく、手を伸ばし、彼女に物を頼む。すると、嫌そうな顔をする。
「……マリナ、ロープ」
「ほいっ」
「投げるなよ」
落ちたロープを拾いなおし、ロープをしならせてビシッと伸ばす。彼女の目線は、俺の手に向けていた。
「その汚い手に触りたくない」
手に返り血はついていない。彼女は、次第に顔色を悪くして、距離を取ってくる。その態度、少し傷つきますよマリナさん。
俺たちは狩猟した鹿を運ぶ準備を進める。まずは運びやすくするために内臓を取り除いた。余計な重さがなくなり、肉の質を保つことにも役立つ。慣れた手つきで作業を進めていると、ウィルの視線が何度か同じ茂みに止まった。
「なにかいました?」
と聞くと、彼は軽く首を横に振った。
「……いや。気のせいだ」
短く答える声には、わずかな警戒が残る。それならいい。気を抜かずにいこう。ロープをしっかりと締め終え、俺が立ち上がる。
「準備できましたよ」
ウィルが最後にもう一度周囲を確認しながら「行こう」と言い、俺たちは鹿を運び出し始めた。
マリナは小さく頷いて、俺の隣に立った。二人で一斉に力を入れ、鹿を持ち上げる。鹿の重みが一瞬体にのしかかったが、俺たちはしっかりとバランスを取りながら、ゆっくりと運び始めた。
「こんなに重いとは思わなかった」
「何を今さらっ」
「最高記録、更新じゃない?」
「そう……だな。ていうか、探査車、今日に限ってないの?」
「整備に出してるから」
「まだ使えるだろ?」
「ユトスが乱暴な運転するからでしょ? 破損した部品から浸食したら、大変じゃん」
額には汗が滲み、じわじわと視界が曇っていく。返す言葉もない。
浸食――それはヴァジュタス化することを意味している。亀裂に溜まったヴァジュタスの粒子が種子となり、そこから幼体が誕生する。初期段階ではゆっくりと成長するが、ひとたび成体になれば周囲の物質を瞬く間に変容させてしまう。
研究は進んでいるとはいえ、決定的な解決策にはまだ程遠い。ヴァジュタスの管理は厄介だ。病原体と似た存在ではあるが、その扱いははるかに困難を極める。観察しようと試みても、時間が経つにつれ消失するばかりだ。大量に採取しても、冷凍保存しても、その努力は虚しい結果に終わる。
考えを巡らせることで気を紛らわせてみたものの、そろそろ限界が近い――その思いが胸をよぎった。
「ウィルさん、ちょっと押してください」
「周囲の警戒も必要だ」
「それは……。エーテルに任せておけばいいって……」
その瞬間、機械的な音声が空気を切るように響く。
『重量制限を超過しています。この個体の重量は許容範囲外です』
「次のアップデートで重量制限を外しとけ」
俺が皮肉混じりに言うと、即座に無感情な応答が返ってくる。
『リクエストを送信……反映は不可』
「使えねえな」
『疑問。使えないとは? 定義不明。我々はすでに役割を果たしています』
「この状況を見て言え、見て」
『ジャッジ……ユトスならできます』
「なにその信頼」
感情に近いシミュレーションをする電脳がインストールされたエーテルアシスト。これがあることで機械と人との距離は確実に縮まった。対話は驚くほど自然だが、それが逆に腹立たしいこともある。俺が持っているエーテルアシストは特に反論好きで生意気だ。それが使い手に似る性質を持つという話なら、こいつは間違いなく反面教師にふさわしい。そんなやりとりを見ていた、二人は苦笑している。
「だからいつも言ってるだろ、機械には頼るな。進歩と弱体は表裏の関係にあると」
「聞き飽きましたよ。その教訓」
「いつも授業を寝ていたお前がよく言う」
ウィルの言葉が耳に入る。それを否定する余裕はもうない。ただ、じわじわと体力が削られ、全身に疲労がまとわりつく。足を動かしている感覚が、だんだんと曖昧になっていく。
「も……う、限界。一回止まろう……」
「鍛え方が甘い。このままじゃ、朝日が昇るぞ? ヴァジュタスも活発になるぞ」
「だったら手伝ってくださいよー」
俺は立ち止まり、額に滲む汗を手で拭いながら、眉間に深い皺を寄せた。息を整える間もなく、仕方なしに足を前へと踏み出す。重い……まるで、この鹿がどこかで鉛を食べてきたんじゃないかと思うほどだ。錆びた金属の車輪がギシギシと不快な音を立て、台車は薄暗い部屋の中をぎこちなく揺れながら進む。
「ねぇ、マリナさん」
「なにかな、ユトス君」
二人で力を合わせているはずなのに、それでもなかなか前へ進まない。その隣に目をやると、彼女の細身の体が視界に入った。少なくとも一人で押すよりはマシだと思ったが、ふと彼女の手元に目を凝らす。動きがどこかぎこちない。こいつ……やっぱり、やってるな。
「ちゃんと引いてる?」
「引いてるよ」
「離すわ」
すると、台車の持ち手側が上に上がり、後輪側に鹿が勢いよく落ちた。
「……」
「手伝えよぉ」
「うるさいな~」
苛立ちを抑えながら詰め寄ると、マリナはふてくされ気味に耳を抑える。それから二人は再び鹿を台車に乗せるため、協力して持ち上げた。彼女が慎重に鹿を持ち上げ、俺は台車の位置を調整する。
「せーの!」
二人の掛け声と共に、鹿を台車に乗せ直す。重みが再び肩にのしかかる。鹿の体はまだ温かく、息を引き取ったばかりの重みが伝わってくる。ウィルさんは、この重みを忘れさせないために俺たちに任せているのだ。台車を挽き始めると、マリナも口元を引き結び、険しい表情で前を見つめていた。
道中、俺たちは何度も立ち止まり、慎重に休息を取りながら前進した。足元の枝葉がカサカサと音を立て、風に揺れる木々が不気味な影を落とす中、俺たちは黙々と歩き続けた。
*
朽ち果てたビルの廃墟。その奥、闇と同化するように佇む二つの影。
風がほのかに吹き抜けると、わずかに揺れる輪郭が、人間とは異なる形状をしていることに気づく者はいなかった。
『彼らの様子は?』
低く湿った声が闇の中から響く。
「問題ない。このまま観察を続ける」
もう一方の影が答える。その声には奇妙な響きがあった。まるで金属同士が擦れ合うかのような、人工的なノイズを含んでいる。廃墟の上から、ユトスたちを見下ろしていた。
「ヴァジュタスの影響……あれらには、まだ表れていないようだな」
「いや――、時間の問題だろう」
影の片方が静かに動く。その動きはあまりにも滑らかで、人間の関節の可動域を超えていた。
『……ならば、予定通りに進める』
影は静かに後退し、再び闇へと溶けていった。