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灰燼 編

Regiofol ①

 自治組織レギオフォル――それは、混迷の時代を生き抜くために結成された共同体。

生存のため、危険な生物と戦い、食料と資源を確保する。戦場の最前線でもあり、人々の最後の砦でもある。

薄暗い通路を進む。壁沿いに設置された誘導灯が淡い青白い光を断続的に放ち、金属製の床に歪んだ影を映し出していた。湿った冷気が頬にまとわりつき、歩を進めるたびに靴音が低く響く。そのわずかな音すら、妙に耳に残った。重い金属扉が目の前に現れる。まるで行く手を阻む壁のように威圧感を放っている。マリナは少しだけ立ち止まり、震える呼吸を整えた。心臓の鼓動が痛いほど早まり、頭が熱を帯びるようだった。


「……ふぅ」


 胸の奥のわずかなざわめきを押さえ込むように、静かに息を吐き出した。彼女の手は握りしめられ、指先がひんやりと冷たく感じられる。


「行くしかない。私がやらなきゃ」


 小さな声で自分を奮い立たせる。背筋を正し、震える手を抑えながら扉をノックした。金属の冷たい感触が指先に伝わり、それが少しだけ彼女を落ち着けた。


「どうぞ」


 扉の向こうから聞こえた低く響く声に、思わず背筋が伸びる。その声は冷静そのもので、わずかに感情を隠しているように思えた。押し開けると、団長室が視界に広がった。壁一面に貼られた作戦図や地図、それを留める無数のピン。そのすべてが整然としていながらも、同時に混沌とした印象を与えていた。机の上に並べられた資料や端末、片隅に放置された空のカップ。部屋全体には金属と古びた紙の匂いが漂い、戦場の縮図のようだった。


「おっ、マリナちゃん。そんな怖い顔してどうした?」


 室内の奥、ソファにふんぞり返る男――シノノメ・クーロンが、いつも通りの軽やかな笑みを浮かべて片手を挙げた。その表情に、マリナの胸の奥にわずかな苛立ちが生まれる。


「報告です。最新のヴァジュタスに関する情報をこちらに」


 彼に端末を差し出すと、彼はそれを受け取りながら軽く眉を寄せ、画面に視線を落とした。その動きはいつになく無駄がなく、素早かった。マリナはその様子を黙って見守る。


「ふむ……なるほどね。出現位置が散らばってきてる。けどさ、これってつまり……」


 言葉を続けようとする彼に、マリナはわずかに言葉を被せるようにして口を開いた。


「団長、最近のヴァジュタスの様子、気づいてますよね?」


 その言葉に、シノノメは顔を上げる。目がマリナをとらえた瞬間、彼の瞳の奥でわずかに何かが揺れたように見えた。


「気づいてるって、何のこと?」


 彼は曖昧な調子で聞き返す。その態度が、さらにマリナの胸に火をつけた。


「殺気立ってるというか……いつもと違う感じがするんです。動きも、行動パターンも」


 彼の反応を待ちながら、マリナは拳を握りしめた。シノノメは端末を机に置き、腕を組む。その仕草にはどこか余裕があり、マリナの焦りが空回りしているように感じられた。


「ほう。それ、現場の感覚ってやーつ?」

「根拠ならあります」

「その心は?」

「真面目に答えてください」


 声が少し荒くなった。その言葉に、シノノメは片手を上げ、降参するような仕草を見せた。


「いやいや、真面目だって。ただなあ、君がそんな顔してたら、美人が台無しだよ?」


 ソファにもたれかかったまま、シノノメはにやけた笑みを浮かべて軽口を放つ。


「……団長、冗談を言ってる場合じゃありません」


 マリナは冷ややかに睨み返すが、シノノメは悪びれる様子もなく続けた。


「ま、そうカリカリすんなって。君が怒ってると、隊員がみんなビビってるぞ? 鬼だね鬼」

「必要なら保護者って役も引き受けます。現場の空気を軽くするのは団長の仕事でしょう?」


 マリナの鋭い返しに、シノノメは「おっと」と苦笑を漏らした。


「しっかり者だなあ。そういうの、俺が20代の頃に出会ってたら、人生変わってたかもなぁ」


 その言葉に、マリナはわずかに眉をひそめた。


「それ、30過ぎて独り身の人間が言うと、ちょっと説得力ないです」


 一瞬の沈黙。シノノメは目を瞬かせ、やがて吹き出した。


「ははっ、それ言う? マジで刺さるやつ。……やれやれ、部下に人生ダメ出しされる日が来るとはな」

「冗談のセンスと婚期のタイミング、どっちもズレてるみたいですね」


 マリナの追い打ちに、彼は胸を押さえる素振りをしながら、芝居がかった声を上げる。


「ぐはっ……これが若さか……!」

「いい加減にしてください。真面目な話をしに来たんです」


 声を少し荒らげると、シノノメはようやく笑みを引っ込め、端末をじっと見つめた。


「……わかった。で、君が言ってた違和感ってのは、どこまで確証がある?」

「これを見てください」


 マリナはもう一度端末を操作し、記録映像と解析データを並べて表示した。ヴァジュタスとの交戦時、E.S端末が自動収集した戦闘ログと痕跡データだ。光の粒が立体的に舞い、戦闘中の敵の動きが投影される。


「E.Sの解析によると、以前の種と比べて、行動パターンに異常な偏りがあります。通常なら一直線に突っ込んでくるはずのタイミングで、一拍の間が入っている」


「ふーん……まるで戦闘訓練でも受けたみたいだな」


 シノノメがあくまで軽口の調子で言う。だが、マリナは頷いて返した。


「そうです。訓練とは言いませんが、学習している可能性はあります」


 彼女は別のデータを呼び出す。現場で採取された痕跡の解析結果だった。壁面に残された腐食痕、焼け焦げた地面の形状、撒き散らされた体液の成分……それらが、既知の情報と照合されていた。


「腐食性の体液成分には、これまでの個体には見られなかった新しい酵素が含まれています。金属への侵食速度が従来より約1.7倍。これは単なる個体差ではなく、構造レベルでの変異。つまり、適応が起きている可能性があります」


 シノノメの笑みが、すっと消える。


「単なる進化でも、突然変異でもない。行動の変化と、生理的な変化が一致して現れている以上、これは環境に応じて進化している、だけじゃない。敵に対抗するための進化です」


 マリナの声には、冷静な分析と、隠しきれない不安が滲んでいた。


「私たちの戦術や装備を学び、それに合わせて姿を変える。本能ではなく認識によって行動しているとしたら……もはやヴァジュタスは、ただの異生物じゃありません。自律的に戦術判断を下す、敵対種になりつつある可能性があります」


 室内が静まり返った。端末のモニターが放つ微光だけが、マリナの瞳を照らしていた。


「……仮説としては、十分価値がある。上に報告する。正式に、警戒レベルを引き上げる口実にもなるしな。俺の名前、使っていい」

「ありがとうございます」


 マリナが頭を下げる。その瞬間、団長がふと苦笑しながら言った。


「しっかし、君みたいなのが部下だと、俺の独身生活にもそろそろ終止符が打たれる気がしてくるな」

「は……?」

「いや、ほら。アンダーネストで一人暮らししてる独身のアラサー男に、優秀で真面目な年下女子が毎日レポート持ってきてくれる生活。……なかなか悪くないだろ?」

「団長」

「ん?」

「失礼します!」


 バシンと音を立てて扉を閉めると、シノノメは頭をかきながら、ひとり言のように呟いた。



 シノノメは壁にもたれながら微かにため息をついた。その軽やかな姿勢からは想像もつかないほど、彼の目は鋭く細められ、何かを深く考えているようだった。


「……適応ねぇ」


 天井に向けられた言葉は、まるで自身への問いかけのようだった。短く鼻で笑い、革靴の底で金属の床を軽く叩く音が小さく響く。その音が室内の静けさに溶け込んでいく。

彼は懐から携帯端末を取り出し、操作を始めた。表示された地図には、ヴァジュタスの出現地点が赤いマーカーで示されている。それをじっと見つめる目には、いつもの余裕の影が消えていた。


「こりゃあ、思ったよりややこしいことになってきてるな……」


 画面を操作しながら、何かを探るようにマーカーを順番に確認する。その途中で立ち止まり、口元にわずかな笑みを浮かべた。


「セカンドアース……お前らが何をしようとしているのか、もう少し手がかりが欲しいところだな」


 呟く声には皮肉と慎重さが混ざっていた。彼は端末を再びポケットに収め、軽く肩を回した。しばらくその場で立ち尽くし、何かを計算しているかのように視線を巡らせてから、軽く手を叩いて自分に言い聞かせるように言った。

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