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Sleep ①

 シャワーを浴びた後、彼女は髪をざっとタオルで拭きながら、肩に引っかけるようにかけていた。湿った髪が肩に触れるたび、わずかな水滴が肌を滑り落ちるのが見える。マリナが電気を消して寝たのだろう。唯一の光源はベッドサイドの小さなランプだけ。壁には彼女の影がぼんやりと映り、かすかに揺れている。


 ため息をつきながら、デスクの端に置かれたランプの光をぼんやりと見つめた。その微かな光が整頓された机、本棚に並ぶ書物、ベッドの傍に置かれた救急箱を静かに照らしている。シャワーの香りがほのかに漂い、穏やかな清涼感が部屋の空気に溶け込んでいた。その香りは柔らかく、どこか懐かしくもあり、胸の奥に小さな波を立てる。

ベッドに目を向けると、彼女は静かな寝息を立てていた。肩をわずかに丸め、枕に広がる濡れた髪が光を受けて鈍く輝いている。その寝顔は、普段の張り詰めた表情とはまるで別人のように穏やかだった。眉間の皺もなく、まるで何もかもから解放されたかのような顔をしている。


――お前だって、無理してるだろ。


いつも気丈に振る舞い、弱音を吐かない。痛みも、恐れも、悲しみも、すべて一人で抱え込む。それが彼女の強さであり、同時に脆さでもある。俺はそっと前屈みになり、額を組んだ手の甲に預けた。


(傍にいたのに何も……)


崩れ落ちる瓦礫の中、伸ばした手が届かなかった記憶が蘇る。焼け焦げた空の下、冷たくなった手を握りしめたあの日。

何度、夢に見ただろう。

そのたびに、喉の奥が焼けるような感覚に襲われる。罪悪感が形を持つなら、それは俺の影のように常に寄り添い、決して離れないものなのだろう。

彼女の唇が微かに動いた気がした。寝言か、それともただの寝息か。確かめるつもりもなく、そっと顔を近づける。彼女の呼吸が、微かに肌をかすめる距離。


「……ごめんな」


 かすれた声は、まるで届かない祈りのように、空気の中へと静かに消えていった。

彼女の寝息が微かに波打つ音。それを確かめると、ゆっくりと上体を起こした。足元には、ダクト口から吹き抜ける風がわずかな冷気を運び、床を撫でるように流れていく。その感触が胸に、不意に現実の重みを押し戻してくる。


 ふと目の端に光る机の上の写真立てが映った。その中に収められた小さな世界。指先が引き寄せられるように写真立てへ触れる。ガラスの冷たさが肌を通じて、遠い記憶を呼び起こした。

笑顔を見せる幼いマリナ。そしてその隣には、俺を囲むマリナの両親が並んでいる。目は自然と写真の中の自分を捉えた。かつての俺――無邪気で、未来に何の疑念も抱かなかった頃の自分だった。

あの日々はもう戻らない。知っている。だが、それを手放すことも忘れることもできなかった。


――それでも。


目に映るマリナの寝顔が、再び現在へと意識を引き戻す。肩を小さく丸め、安心しきったその姿。彼女は今、何を見ているのか、何を望んでいるのか。


(もうすぐ誕生日だな)


何も言わない彼女に、答えを探るのは難しい。今日だって単独行動したのもそれを探すためだ。どんなものでも見つけてみせる。たとえそれが存在しなかったとしても、自分の手で作り出してみせる。

オルゴールの時のように。


脳裏には、あの夜の光景が浮かぶ。傷ついた手を隠しながら、壊れかけた部品を丁寧に磨き上げていた日々。完成したオルゴールのメロディが彼女の笑顔を引き出し、それがどれだけ俺の胸を満たしたか、今でも覚えている。彼女の歌声と合うように、母さんにたくさん聞いて。


(約束だ)


そっと写真立てを元の場所に戻し、ベッドの傍に目をやった。彼女が目を覚ますその瞬間まで、自分ができることを考える。それがどんな些細なことであっても、必ず彼女のためになると信じて。


(今度こそ……)


風が再び吹き抜け、体温をさらっていく。静かに立ち上がり、無意識に拳を握りしめた。

ベッドの上、安心しきった彼女の寝息がわずかに聞こえる。


ベッドサイドのランプの柔らかな光が、壁に揺れる影を落とす。風が微かに流れていた。

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