ソファーの上で目が覚めると、鈍い痛みが広がっていた。
そっと身を起こしながら、腰をさする。柔らかすぎるクッションが快適さを通り越して身体をじわじわと蝕むような感覚だ。
食堂に足を踏み入れると、鍋から立ち上る香ばしい香りが部屋全体に広がり、ほんのりとした暖かさが肌に触れる。マリナは鍋をかき混ぜながら鼻歌を口ずさみ、その明るい声が空間をさらに柔らかなものにしていた。
「あ、おはこんー!」
「変な造語つくんな。挨拶する婚活か?」
「おはようこんにちわの略称」
彼女はいつもより機嫌が良さそうで、顔には自然な笑みが浮かんでいる。手早くスプーンで鍋からスープをすくい取ると、こちらへと差し出してきた。
「はい、あーん」
「あっ、あつ!」
反射的に身を引いたものの、スプーンの先が見事に頬に命中。熱々のスープがほんのり火傷寸前の刺激を残していく。
「はい、あー」
「そこ、あご!」
「正直な意見くれる人、ほかにいないんだもの」
「聞く気ないよね?」
スプーンを受け取り、一口すすると、野菜の甘みとスパイスの香りが絶妙に広がり、自然と口元が緩んだ。
「……うまい」
「でしょー!」
満足げに頷いたマリナは、素早く鍋からスープを器に盛り付け、テーブルに並べる。彼女がスプーンを手に取り、対面に腰掛けながらこちらをじっと見る。
「で、今日は何するの?」
「アランから調達物資の件で呼び出されてる」
その答えに、マリナの表情が一変した。
「せっかく休みかぶったのに……。ほんとアランは空気読めないんだから!」
ぶつぶつと文句を並べながらスプーンを動かす彼女を見て、俺は苦笑いを浮かべた。
「俺のつけだし、しょうがない」
「あっそ、何とかしてね」
マリナはスプーンを置き、少し拗ねたようにテーブルの端を指でなぞる。それでも表情にはどこか気遣う色が浮かんでいる。スープの湯気が空気に溶け込み、いつものような軽口のやり取りが続く。食事を終える頃には彼女の声が頭の片隅に残りながら食堂を後にした。
*
ユトスは深い息をついて、地下拠点の長い廊下を進んだ。扉を抜けるたび、薄明かりの照明がその姿を影のように投げかける。最後の扉を開けると、ひんやりとした外気が肌を撫でた。しばしの間、外を見つめた。眼前に広がる地上の景色は、薄暗いオレンジ色の光に包まれていた。遠くの廃墟は陰影の中に沈み、かつての文明の断片が瓦礫の山として残る。乾いた風がその間を駆け抜け、ささやくような音を立てた。数歩踏み出した瞬間、彼の目には夕焼け空が広がり、微かに輝く太陽が雲の裂け目から姿をのぞかせていた。その景色に目を留める間もなく、低い声が背後から響いた。
「よお、待たせたな」
「お前その格好でいくのか?」
「あたぼうよ!」
アランは、油で汚れたツナギに身を包み、工具を腰に下げていた。手には小さな端末を持ち、ちらりとディスプレイを覗き込む。その表情は、どこか焦燥感を帯びているようだった。
「今日は調達物資の探索を頼むって話だったよな」
「お前の壊した、大切な機械たちの、命を!」
「しつこいな……で、目的地は?」
ユトスが肩越しに問いかけると、アランは短く頷き、背後を指さす。
「この先に古い設備がまだ残ってる可能性がある。そこに行くぞ」
「ほぉ」
ユトスの目がわずかに鋭くなった。喉元でつぶやいた言葉が風に溶ける。
「俺一人じゃ心もとないからな。メリックも呼んだ」
「起きてるのかあいつ? 寝坊の常習犯だろ」
「頼めそうなのあいつだけだった」
アランの口元が微かに引きつる。
ユトスは微笑むわけでもなく、ただじっとその言葉を噛み締めるようにして頷いた。夕焼け空に目を向け、深く息を吸い込むと、一言だけ返した。
「来てないけど……」
「来るだろ」
十分経過。三十分経過。一時間経過。
「ほんとに呼んだ?」
「叩き起こしてくるわ」
すると、静かな足取りであくびをしながら近づいてきた人物。カールのかかった赤髪が夕陽を受けて柔らかな光を放ち、彼女の落ち着いた視線が一行を見渡す。彼女が穏やかな微笑みを浮かべながら挨拶をする。
「メリック……」
「予定通りでしょ?」
メリックがすっかり暗くなった月明かりの中で微笑むと、アランが食ってかかった。
「どこがだ! 理由を言え、理由を!」
「面倒くさかったから」
「真顔で言うなよ!」
「アランが、面倒くさくて起きる気失せた」
「なんで俺が原因なんだよ!」
「なるほど」
ユトスが頷いた。
「納得するな!」
「うるさい」
メリックはさらりと手を伸ばし――アランを突き飛ばした。
ドサッとしりもちをつくアラン。メリックはその様子を一瞥もせず、端末をいじりながら、廃墟の奥を指す。
「ここに重要な設備が眠っているはず。周囲にはヴァジュタスの痕跡も確認されているから、警戒を忘れずに進みましょう」
「最近、増えてきたよな」
ユトスがベンチマークエリアを送信する。最新の情報が反映されると、赤い点が画面の三分の一を埋めた。
「帰るわ」
アランが口にした瞬間、メリックに冷たい視線で睨まれた。慌てて持ち場に戻る様子に、ユトスが思わず小さく笑っていると甲高い声が空気を切り裂くように響き渡る。
『お待ちどうさま! 主役の俺様、
突如として夕空から現れたのは、滑らかで鋭いフォルムを持つ飛行ユニット、E.Sだ。そのボディは光沢を放ち、夕陽の光を受けてまるで舞台の上のスターのような存在感を漂わせていた。
「誰が主役だよ」
ユトスが不機嫌そうに眉をひそめる。
『お前だって今いないだろ? 自分のE.S。整備中にしてる時点で、俺様に頼るしかないんだからな』
メリック専属のE.Sは、空中で軽やかに旋回しながら冗談ともつかない挑発を口にした。
彼女は、何食わぬで端末で操作している。
『それにしても、お前らの手際の悪さには毎回感心するぜ。特にメカニックのあいつだ』
「誰のことだ?』
『あのー、その、あいつ! 油まみれのツナギが象徴的な奴だ』
アランの眉がピクッと動いた瞬間、メリックが静かにE.Sをたしなめた。
「イービル、報告を優先して。ヴァジュタスの痕跡はどう?」
『へいへい、冷たいな! 俺様のカリスマを少しは尊重してほしいってのに』
それでもE.Sは命令に従い、軽快に空中を滑る。その後部ユニットが廃墟の奥を照らし出し、細かい埃や浮遊粒子を鮮明に浮き上がらせる。その様子を見て、ユトスが小さく息をつきながら準備を整える。
「報告。ヴァジュタスの痕跡を数箇所で確認。自己防衛レベルは高めだな、頼れる俺様がいなきゃこの先は厳しいぞ!」
ユトスはそれを無視しながら、背後で動き出すメリックに短く言った。
「行くぞ」
彼が一歩踏み出した瞬間、E.Sがすかさずツッコミを入れる。
『待て待て! 何か忘れてないか? 俺様への感謝の一言が抜けてるぞ!』
「……」
『おいおい、その態度でいいのか? こんな危険地帯で俺様がいなかったらどうなるか、想像してみろよ。ほら、想像して~』
「俺のE.S整備終わったら速攻でお前を黙らせる」
その一言に、E.Sは一瞬停止し、小刻みに震えるようなモーションを見せた。
『ははーん、ヤキモチか? そういうの、カッコ悪いぞ』
「おい、メリック、これ本当に正常運転か?」
「正常よ」
メリックはさらりと答えながら、端末を操作しつつ先を指し示した。
「でも、たまに黙らせたいと思うけど」
その言葉にアランが思わず吹き出し、E.Sは空中を軽快に旋回しながら大げさに抗議する。
『おいおい、俺様はチームに必要不可欠な存在なんだからな! いつか俺のいない寂しさを思い知る日が来るぞ!』
「こないな」
ユトスがそう吐き捨て、メリックが肩をすくめると、アランは「やれやれ」と言わんばかりの表情を浮かべながら道具を手に持ち直した。
廃墟へと向かう道の上空では、E.Sが相変わらず生意気な言葉を繰り返している。それでも、不思議と空気は和らぎ、一行は次第に笑いを噛み殺しながら歩みを進めた。