目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

Stability ①

 薄曇りの空を裂くように、漆黒と銀の巨躯が滑る。静寂を引きずるように、飛行船はゆっくりと進んでいた。

エンジンの低い唸りだけが、宙に漂う沈黙を切り裂いている。窓の外には、地平線に沿って広がる赤い霧――アンダーネスト。その境界は、まるで生き物の息遣いのように揺れ、少しずつ、確実に地表を飲み込んでいく。


 イリス・エルヴェはその光景を黙って見下ろしていた。

窓の内側に揺れる、淡い己の影。目元がすっと細くなり、視線の奥に何かが沈んだまま動かない。感情は、まだ水面の下にある。襟元の小さな金具が、空調の風にふわりと揺れた。


「濃くなってる」


 背後で声がした。声の主は、椅子に体を預けたまま片肘をついている。栗色の髪が揺れ、唇に浮かぶ笑みは、いつもの軽さと少しの好奇心でできていた。


『前回の観測時より、濃度で8.6%増加』


 E.Aの言葉に応じるように、壁面モニターの一つが小さく点滅し、数値が流れる。


 船内には三人だけ。金属と機械の光に照らされた会議室に、人間の気配はそれだけだった。もう一人、背の高い男が、腕を組んだまま壁に背を預けている。黒い服の肩がわずかに動き、視線だけがゆっくりとモニターをたどる。静寂が、再び戻る。


「……時間だ」


 男が口を開くと、空気がすっと引き締まった。

 スクリーンが一斉に動き出す。中央の立体映像に、アンダーネストの赤い霧が拡がっていく様子が投影される。端末が規則的に警告音を鳴らし、データが切り替わるたび、光が床にゆらめく。

その中で、ひとつの声が重く響いた。


「ヴァジュタスの侵食は予測を超えている。物資支援は意味をなさない。第二移住計画を、正式に始動する」


 映像が切り替わる。移住予定者のリスト。赤いマークがいくつか、容赦なく打ち込まれていく。

視線が交差する。誰も言葉を継がない。イリスは一歩、窓から離れた。手元の端末が小さく震え、更新された命令が表示される。彼女の指先は止まらない。迷いも、問うこともない。ただ静かに、その内容を読み取る。


「……精査対象が増えてるわ」


 栗色の髪の女が、楽しむように呟く。


「やりすぎじゃない?」

「秩序の維持が最優先だ」


 誰かの声が返す。男の声か、会議室のスピーカーか、それさえ曖昧になるほど、空間は無機質だった。

 映像が切り替わる。

スクリーンの中央に映し出されたのは、短く刈られた髪と、鋭い双眸。頬に刻まれた斜めの傷跡が、過去の暴力の名残を主張している。


「対象、ユトス・マクシムス。彼だけは例外だ」


 低く、冷たい声が響く。

 イリスの指が、端末の上でぴたりと止まった。モニターの映像を、別の三人が見つめている。遠隔地からのリンク。別室の光が彼らの顔を斜めに照らし、それぞれの反応を浮かび上がらせていた。

そのうちの一人、栗色の髪の女に向く。

彼女の唇が、にやりとほころんだ。


「どうして?」


 問いは軽やかだった。だが、あえて揺さぶるような調子もあった。


「君たちには関係ない。命令を遂行しろ。それ以上の詮索は不要だ」


 即座に返された声に、女は肩をすくめる。

淡く笑う彼女の仕草を見ながらも、イリスは何も言わなかった。

もう一人、窓際にいた長身の男が息を漏らす。低く、重く、それでいて、どこか割り切れていない気配を含んでいる。


「……捕えるのか?」

「可能ならばな」

「問題ない」


 返答は短い。まるで軍隊のようなやりとり。だが、その簡潔さが、逆に命令の重みを際立たせていた。

沈黙。刃物のような静けさ。その中に、イリスの声が落ちる。静かに、冷ややかに。


「もし、できなかったら?」


 部屋がわずかに動いたような気がした。誰かの息遣いが止まる。


「処分しろ」


 即答だった。あまりにも簡潔に、あまりにも当然のように。

イリスの目が伏せられる。まぶたの裏に、彼の顔がちらついた。写真の中の無表情が、妙に鮮やかに焼き付いていた。


「……ずいぶん極端ね」


 言葉は漏れただけだった。反論ではない。ただの、さざ波のような呟き。

それでも、胸の奥にひとつ、見えない渦が広がっていた。


 ホログラムが静かにフェードアウトする。会議室に残されたのは、機械のノイズと電子の呼吸音。誰も言葉を発しない。


「目的地に到着した。行動を開始せよ」


 冷たい声が、最後の指令を落とした。


「彼の存在が、未来の均衡を決める。それを忘れるな」


 イリスは端末を閉じ、無言で立ち上がる。冷え切った床の金属音が足元から伝わってくる。

窓の外には、廃工場が広がっていた。剥がれた壁、錆びついた梁。時間に食い荒らされたコンクリートの裂け目から、風にそよぐ新芽が顔を覗かせていた。青白い空に照らされ、その緑が淡く輝いていた。

その光景に、なぜかひどく静かな違和感を覚えた。


 なぜ、こんなにも世界は美しいのに――。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?