「どっちも選ばない」
「そう……」
黒服の人物が顔を上げた。どこか機械じみた整った顔立ち。その無表情はあまりにも冷たく、青い瞳だけが異様なまでに澄み切っている。それは人間味を完全に排除した、冷徹な輝きだった。
「逃げられると思っているの?」
鋭い女の声が廃墟の空気を切り裂き、空間全体を支配する圧力となる。
「イービル!」
ユトスが叫ぶと同時に、腕が閃いた。散乱したガラス片が足元で砕け散り、彼の突進が廃墟の空気を切り裂く。鋭い一撃が女に向かうが、それはまるで虚空を裂こうとするかのように無力だった。刀身が触れる前に、女の冷たい瞳がわずかに動き、次の瞬間、鋼の刃が粉々に砕け散る。
――ッ!
気づけば女が彼の懐に入り込んでおり、重く鋭い一撃は肺が焼けるような痛みを胸に刻みこむ。そのまま後方へ吹き飛ばされ、瓦礫の山に叩きつけられた。砂埃が彼の周囲に降り注ぐ。
「ユトス!」
「いいから……先に行け!」
喉の奥から響く低い唸り声が、空気を震わせる。
『カッコつけやがって、このバカ野郎が!』
アランとメリックの身体は無理やり掴み上げられ、視界がぐんぐん上昇していく中で、E.Sの姿が遠ざかっていく。 血の気が引くような感覚に襲われながら、震える腕を地面につけ、ゆっくりと立ち上がる。
「どこ見てんだ。俺はまだ……死んでッ……ないぞ」
存在そのものを否定するような目。その視線を、真っ向から睨み返した。
朦朧とする意識の中でも、ユトスは再び突進を試みる。炎のような意志が彼を突き動かす。だが、その意志さえも、女にとっては取るに足りないものだった。彼が放った拳は女に届く直前で掴み取られた。そして、女は無造作に力を込め、ユトスを地面へ叩きつけた。衝撃で地面が砕け、瓦礫が飛び散る。彼の意識が薄れかける中、女は冷たい瞳で彼を見下ろしていた。
「滑稽ね。ヒーローになったつもり?」
女は薄く笑いながら、鋭い一撃を振り下ろした。ユトスの身体が衝撃に震え、口から鮮血が溢れる。これまでに経験したことのない痛みが全身を襲い、視界が揺らぐ。
「いつまで茶番を続ける気だ、イリス」
男が怪訝そうに呟く。その名前が意味するものを考える余裕すらない。ユトスは歯を食いしばり、立ち上がろうとする。彼の身体は限界を超えていたが、最後の力を振り絞る。拳を握り締め、女に向かって突進する。しかし、その動きはあまりにも遅い。青白い閃光が廃墟を切り裂き、ユトスの拳は空を切る。女は軽々と彼の攻撃をかわし、逆に彼の首を掴み上げた。
「もういいわ」
女の冷たい声が響き渡る。彼女の指先は、まばゆい輝きを放ち、視界は真っ白に染まった。
*
イリスは一歩前に進み、ユトスを見下ろした。その表情には冷淡さが漂い、感情の影は一切映らない。彼女の手がそっと耳に触れた。
「サフィ、聞こえる?」
『聞こえるよー』
「逃げたE.Sは任せるわ」
『はいはーい』
軽快な声が通信越しに響き、再び静寂が戻った。
イリスがユトスに視線を戻す。その瞳には冷酷な輝きが宿り、月光に照らされてきらめいている。
「連れていくぞ」
短く告げる声は、廃墟の冷たさそのものだった。
一瞬の沈黙の後、黒服の男がわずかに唇を歪め、皮肉めいた視線をユトスに投げかけた。
「お前、殺す気だったろ?」
「そう? 手加減してあげたつもりよ」
月光の下で二人の視線が交差し、廃工場の風が二人の間を吹き抜ける。それでも、何かが静かに壊れる音が聞こえるような余韻がその場を支配していた。