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Trace ③

 瓦礫の隙間にしゃがみ込んだマリナの視界が、一瞬、滲んだ。血の匂いの奥に、ふと――懐かしい風が吹いた気がした。昔、ユトスとアラン、メリックと一緒に、まだ崩れていなかったこの辺りの工場跡地で「探検ごっこ」をしたことがあった。


「マリナはまた地図係ねー! 道間違えたら怒るからな!」

「あんたたちが勝手に走るからでしょ!」

「ほら見て、ここに秘密基地って書いたんだ。誰にも見つからないように」


 鉄くずの山に隠した空き缶の箱。それが、子供たちの世界のすべてだった。

あのときの笑顔。砂埃の中、何も怖いものなんてなかった。


 今、同じ場所に立っているのに、誰も笑っていない。

鉄と血の匂いの中に、あの空き缶も、あの笑顔も、見当たらない。

瓦礫の下には、思い出すのも苦しいほどの「前の世界」が確かにあった。



 夜空に瞬く星々は、あまりにも静かだった。無数の光点が冷たい銀を撒き散らすように荒野を照らし、瓦礫に落ちる影が、世界の輪郭を浮かび上がらせる。風は低く唸り、乾いた砂塵を巻き上げては、肌に張りつくようにまとわりついていく。血と鉄の匂い――それは、戦場の匂い。何度嗅いでも慣れることのない、生と死の境界にある空気が、マリナの胸に鋭く突き刺さった。


「……ここだよね、ユトスたちが最後に確認されたのは」

『はい。廃工場に向かったという通信が、最後です』


 胸の奥が、じりじりと焼けるように痛い。焦燥と不安が波のように押し寄せてきて、まともに息ができない。酸素はあるのに、喉が詰まる。目を閉じれば、あの笑顔が浮かぶ。ユトスの、無邪気な――あの表情が。


「E.A、状況を更新して」


 マリナの背後で、シノノメの声が通信機越しに低く響いた。張り詰めた声には、感情を殺した覚悟と、指揮官としての責任が滲んでいる。


『ジャッジ……エスケープシグナル、このエリアで捕捉。瓦礫の中に、複数の破片を確認。ユトスの装備に一致する痕跡、あり』


 短い応答。そのたった一言が、マリナの鼓動を止めかけ、次の瞬間には跳ね上げた。希望――だが、それは刃のように鋭く、痛みと隣り合わせだった。


「……瓦礫の隙間、全部見て。小さな破片でも見逃さないで」

『ジャッジ』


 声が震える。だがその震えを押し殺すように、彼女は前を向いた。強く、静かに。

 隊員たちが動き出す。懐中電灯の光が闇をかき分け、瓦礫の影が揺れる。踏みしめる砂利が耳障りなほどに音を立てた。全員が黙ったまま、ただ必死に目を凝らす。


「……何かあるぞ!」


 ウィルの声が、沈黙を破る刃のように響いた。マリナは一気に駆け寄る。その視線が吸い寄せられたのは、錆びた鉄片に絡みついた、布。灰色に染まった布切れ。それは、血と埃で固まり、かすかに見覚えのある模様が浮かんでいた。


「これって……服の……」

「紋章がある。間違いない」


 指が、自然と伸びる。触れた瞬間、硬く冷たい感触が指先を凍らせる。思考が追いつかない。心が拒絶しようとする。


「これは……E.Sの装甲……?」


 手のひらに伝わる現実に、唇が自然と開いた。だが、思い描いた最悪の想像とは、少し違った。


「この焼け焦げ……ヴァジュタスの爪痕じゃない。角度が違う……何か別の圧力で壊された痕跡」

「つまり、何か別の要因があった……?」


 マリナの拳が、無意識に震えた。

その瞬間、E.Aの照明が、瓦礫の奥を照らし出した。倒れ伏す二つの影。アランとメリック――血と泥にまみれたその姿は、生々しく、あまりに静かだった。


「アラン……! メリック! 返事して!」


 マリナは叫び、膝をついて彼らに駆け寄る。彼らの胸が、かすかに上下しているのを見たとき、喉の奥から熱い何かがせり上がってきた。


「瓦礫をどかせ! 負傷部位に触れるな、慎重に!」


 ウィルの指示が飛び、金属の軋む音が再び鳴り響く。空気が騒がしくなった。

 そのとき。


『廃工場付近にて端末を発見。ユトスのものと一致する可能性、極めて高』

「っ……!」


 E.Aの報告に、マリナは立ち上がった。胸に熱がこみ上げる。これは、希望か、それともさらなる絶望か――。


「……廃工場に向かいます! 案内して!」

「待て、マリナ、単独行動は――」

「時間がない! ユトスが……ユトスが待ってるかもしれないの!」


 言葉が出た瞬間、彼女の足はもう動いていた。誰の制止も聞こえない。ただ、光の中に彼の姿を探している。

 月光が、崩れた鉄骨を白く染めていた。静まり返った廃工場の内部は、まるで時間が止まったかのように静かで――異様だった。風が抜けるたび、崩れた梁が微かに揺れ、きぃ、と泣くような音を立てる。


 E.Aのスポットライトが暗闇を切り裂き、その光は静かに一点を射抜いた。視線がその先で止まる。

床に散らばる泥と乾いた血の跡。その中に横たわるのは一つのつか。ユトスのものだと直感した。冷たい鋼の触感が未だ残っているような気がしたが、実際は静かにそこに「在る」だけだった。

リュックサックも乱雑に投げ捨てられていた。これら全てが、彼が「ここにいた」という冷酷な証拠として凍りついている。


「……ユト……ス……」


 マリナは震える手でそれを拾い上げた。生地の冷たさが、喪失を現実に変えてゆく。触れてはいけない現実を、触れてしまった。


「うそ……やだ……」


 呟きが、空気に溶ける。涙が落ち、手元の上着を濡らす。その湿り気が、まるで彼の体温の残滓のようで、苦しかった。隣に立ったシノノメが、低く言った。


「焦るな。まだ死んだと決まったわけじゃない」

「……でも、こんなの……っ」

「ユトスは簡単に死ぬやつじゃない。そうだろ?」


 その一言に、マリナは目を閉じた。唇を噛み、涙を拭う。そしてもう一度、空を見上げる。 まだ終わっていない。終わらせるわけにはいかない。


 ――絶対に、見つける。 その誓いが、静かに、確かに彼女の胸で灯った。

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