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Summer

 医務室の空間はひっそりと静まり返っていた。唯一、天井に取り付けられた換気扇が規則的に回転し、乾いた音を響かせている。その音はカルメンの呼吸と重なり、時間を刻むメトロノームのようだった。

目覚めたばかりのカルメンは、ぼんやりと天井を見上げた。じんと広がる鈍い痛みが体の奥に漂う。それは彼女にとって目覚めのたびに訪れる、すでに馴染み深い感覚だった。新鮮さや異質さを失った痛みは、彼女の日常の一部となっていた。

枕元の水を一口含み、彼女は再び天井を見つめる。その時、扉が静かに開く音がした。足音のリズムで、訪問者がマリナであることを知っている。


「おはよう、カルメンさん。今日は調子はどう?」


 穏やかな声が医務室に響く。カルメンは乾いた笑みを浮かべた。


「どうもこうも、生きてりゃそれで十分」

「またそんな言い方……」


 冷水ポットを手にしたマリナが、カルメンの隣の椅子に腰を下ろす。その動きは洗練されており、彼女の落ち着きを物語っていた。胸元の階級章が目に入り、カルメンは目を細めた。マリナの成長した姿を見ることは、小さな誇りと安らぎを彼女の心に灯していた。


「バイタル、少しだけ良くなってるわ。胸の痛みは?」

「まぁ、相変わらずだね。目覚まし代わりになってるよ」


 マリナが端末を操作する。その指の動きにカルメンは目を奪われた。その丁寧で細やかな仕草が、何故か医務室の空気を居心地良く感じさせた。


「デッキ、今日は換気扇の音が静かだ。気分転換に付き合ってくれんかね?」


 カルメンは乾いた笑みを浮かべながら、少し体を乗り出した。


「いいね。あの空の色が、何よりの薬だよ」



 アンダーネスト第三層のスロープを、カルメンの車椅子を押しながらマリナは進む。湿気を帯びた金属の床が車輪と靴音を吸い込み、その軋む音が空間に響く。壁際のパイプの接合部から漏れる蒸気が薄い筋を描いていた。


「この通路、いつも湿っぽいし、壊れそうで……」


 マリナがぼそっと呟くと、カルメンが肩をすくめて笑った。


「壊れてる部分なら、もう山ほどあるじゃないか。今さら気にしても仕方ない」


 その言葉に漂う乾いた諦念が、マリナの胸に小さく刺さった。


「アランが『すぐ直す』なんて言いますけどね。あの調子だと一生かかりそう」


 マリナは苦笑いを浮かべながら車椅子を押し続けた。エレベーターに乗り込むと静かにドアが閉まり、最上層への短い旅が始まる。カルメンは無言で目を閉じ、マリナはふと息を整える。

扉を開き、観測デッキに広がる景色が二人の視界を満たした。一歩踏み出すと、冷たい空気が静かに肌を撫でた。ガラス越しに広がる濃紺の空は、どこまでも深く吸い込まれそうなほどだった。その先で、セカンドアースが静かに白く輝いていた。


「……今日は、だいぶ近くで見えますね」

「キレイなもんだ」


 表面に刻まれた幾何学模様が柔らかく反射し、空の中で揺れていた。マリナはじっと見つめながら、不思議と現実から遠く感じた。


「……遠い」


 空には、ヴァジュタスが黒い羽を広げ、不規則に飛び交っていた。その周囲に漂う積乱雲は巣のような様相を呈し、威圧的に空を覆っている。灰色の大気が辺り一面を包み込み、その中で群れの影が不気味な形を成していた。 

 彼女の静かな言葉にカルメンはゆっくりと頷いた。その顔には深い憂いが滲み、どこか遠い過去を思い返すように、空を見つめている。


「若い子たちは、あれを正解だと思ったんだろうね。我先に飛んでいった……」


 カルメンは軽く笑い、その目はどこか遠い記憶を辿っているようだった。


「行きたくなかったんですか?」

「そうじゃないよ。ただ、あたしの行き場はもう、ここだった。それだけさ」


 カルメンが車椅子のステップを軽く蹴った。その動作は、過去を振り払うような小さな仕草だった。


「若い子たちを思い出すと……」

「思い出すと?」

「尻を蹴りたくなるもんだ」


 その冗談に、マリナは思わず笑い声を上げた。カルメンも目を細め、安堵のような表情を浮かべた。


 ひとしきり笑い終えたカルメンは、柔らかく息を吐き出し、肩の力をそっと抜いた。表情には、どこか穏やかな疲れが浮かんでいる。


「マリナは……行かないのかい?」


 少し間を置いてからの言葉だった。その問いかけにマリナは一瞬だけ動きを止め、視線を手元の書類に落としたまま、小さく息をついた。


「……」


 その無言の返答に、カルメンは眉尻を下げて小さく首を振った。


「ごめんよ……こんなこと聞くことじゃなかったね」


 カルメンの声は申し訳なさで滲み、そっと視線を外した。その様子を見て、マリナは顔を上げると、口元に微かな笑みを浮かべた。


「大丈夫ですよ。気にしないでください」


 その一言は静かで優しく、部屋に漂う小さな緊張を静かに解いていくようだった。


 カルメンはふっと息を吐き、《セカンドアース》の光に視線を向けた。その光は、まるで手の届かない幻のように、冷たい空気の中で揺らいでいた。壁際の時間表示が点灯する。


『2513年8月26日』


 夏、二年という時の流れ。

観測デッキから見える風景にもその気配が静かに現れていた。強化ガラスの向こう側で広がる濃紺の空は、蒸し暑さを感じさせるほど深く染まり、微かに揺れる木々の姿がその空の一部に溶け込んでいた。

遠く地上では、夏特有の熱気が木々の葉をそよがせ、風が枝々の間を抜けている様子がほのかに感じられる。


 彼女の視界の中で、それらの葉がゆったりと揺れる動きは、静かな波紋を描く湖面のような穏やかなリズムを刻んでいた。

風……それはどんな感触なのだろう。肌を撫でる空気、その匂い、その音……。いつか触れる日が来るのだろうか。それとも、そんな日が来なくなる時が待っているのだろうか。


 ふと、彼女の思考を遮るように声が聞こえた。


「せんぱ~い? 団長が呼んでまーす」


 振り返ると、後輩が立っていた。軽やかで実用的な装いが、彼女の機敏な印象を引き立てている。腰に携えた装備が、日々の生活の中で培われた確かな実践性を物語っている。


「シルビア……今行くよ」

「今日も、団体様ですよ。それも二件!」


 その言葉には皮肉めいた響きが含まれていたが、マリナは小さく頷いて歩き始めた。カルメンの車椅子に手を添え、いつの間にか寝息を立てている彼女に目を落とす。観測デッキの景色が徐々に背後へ遠ざかり、深い青の広がりが視界の端で溶けていく。

シルビアの後ろ姿を追いながら、彼女の言葉に潜む疲労感を感じた。


歩を進める先に待つものが何なのか、まだ知るすべはない。 

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