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Cliff

 竹林の間に立ち込める静寂を、風に揺れる葉音がかき消す。小山の林道が目の前に細く続き、雨上がりの地面は湿り気を帯びて、苔むした岩が滑りやすく光る。せせらぎの音が周囲を包み、森の奥から鳥たちの囀りがささやかれる中、一筋の足音がその穏やかな風景を裂く。木漏れ日を遮るような指示の声が響き、柔らかな自然の息遣いは、瞬く間に戦闘の緊張感へと変わる。足元の湿った土の匂いが漂いながらも、静かな景色は任務の影に飲み込まれていく。


「ラグか?」

『ジャッジ、通信は安定、信号も一致しています』

『了解』


 メリックは画面に視線を戻す。


「ヴァジュタス活動域が予測を越えて拡大。討伐主軸を南斜面へ変えろ。支援班はマリナ隊の動線確保を最優先だ」

「了解!」


 マリナは深い緑に包まれた小径こみちを進んでいた。

隣を歩くシルビアは、背中に背負った装備の重みで少し前かがみになりながらも、目の前に広がる戦跡を見渡している。倒れたヴァジュタスの黒い外殻は苔に染まり、静かな霧の中で異形の残骸が大地に還ろうとしていた。


「終わりましたね……」


 シルビアは肩越しにマリナをちらりと見て、息を吐いた。


「次は南端の高台へ。合流地点を確保するわ」


 マリナは湿った土を蹴りながら答える。足元の小川が近くを流れ、かすかなせせらぎが歩みを引き立てた。


「少しは休ませてくださいよ〜」


 シルビアは軽口を叩きながらも、屈み込んで足首を伸ばす仕草を見せた。

マリナは小径の先に続く、倒木のトンネル状の道を指さす。


「見晴らしのいい場所に出る。そこで少し休憩しよう」


 二人は壊れかけた橋を渡り、小さな急斜面を登り始めた。そのたびに木の根が靴に絡みつき、マリナは振り返って支えるようにシルビアの背中に手をかけた。周囲の枝葉がそよぎ、湿った空気が胸に跳ね返る。


「見て」


 マリナがふと立ち止まり、木立の切れ間から遠くの崖が視界に入るのを示す。


「もうすぐよ」


 湿った土の匂いが鼻をくすぐり、足元には苔むした岩と細かい根が絡み合う。登りながら、ふと枝葉の切れ間から差し込む光が目に留まる。木々の間から遠くそびえる崖が見え、岩肌には微かな霧が漂い、朝の陽射しがその輪郭を優しく照らす。せせらぎの音がかすかに響き、風が吹き抜けるたびに葉が揺れて、光と影が踊るように映る。


 シルビアは足を止め、その壮麗な光景を目の当たりにして息を呑んだ。


「こんな静かな場所がまだあるんだ」と思わず胸の内でつぶやく。


 崖に釘付けになり、彼女の口元には微かな緊張感が漂っている。


 だが、視線を戻した瞬間──

胸にざわめきが走る。眼下の地形がわずかに歪んだ気がした。


「──っ!」


 警告の声も届かないまま、足下の土が音もなく崩れ落ちる。目の前の木の根が宙を舞う。


「シルビア!」


 咄嗟に両腕を広げてシルビアの腰を抱き寄せる。背後では岩と土塊が連鎖的に崩れ、谷底に重い衝撃が波紋のように広がっていった。


 メリックが端末に向かって叫ぶ。


「E.A.、二人の信号追跡を!」


『ジャッジ。現在座標を補正中、救援ユニットE.S.を派遣します』


 無数の指示が飛ぶ一方、シルビアの目は崖下の闇に引き寄せられる。


 崖下の森の静寂を切り裂いて、木の枝が揺れた。

 黒いシルエットが獣の唸りとともに飛び込む。ヴァジュタスだ。角のような蔓を震わせ、威嚇音が森に響く。


 ずり上がりながら銃を構えるマリナ。足がもつれ、視界がぐらつく。

濡れた根のざらつきを頼りに、マリナとシルビアは必死に崖をよじ登った。


「シルビア、左の根に手を伸ばして!」

「は、はい!」


 シルビアが震える指先で細い根をつかむと、マリナは片膝を突いてそっと彼女を支え、腕を貸す。


「もっと上、踏み込んで!」


 泥で滑りやすくなった斜面を二人が互いに支え合いながら、少しずつ体勢を上げる。背後では、谷底の闇からヴァジュタスの低い唸り声がこだまする。


「聞こえる……来てますよ!」


 シルビアが恐怖に声を震わせる。だが、マリナは鋭い眼差しで振り返りもしない。


「あれ、何が……?」


 黒い獣影が唸りながら二人を囲むようにその場を狭めていく。マリナは歯を食いしばり、根を強く握り直して身を低く構えた。緊張の瞬間が静寂と共に漂う。

鋭い動きで肩をかすめ、唸り声と共に跳躍し、二人の間に割り込む形で迫ってきた。


「このままじゃ!」


 鋭い叫び声が響き、マリナは素早く身体を引き寄せながら足を踏み込み、その根をしっかり踏みしめた。だが次の瞬間、足元の地面が不意に崩れる。


「っ……!」


 マリナとシルビアは同時に声を上げ、崖下へと滑り落ちた。泥と土が勢いよく飛び散り、苔むした岩が激しい音を立てて転がる。

激しくぶつかるように地面へ到達すると、マリナは息を整えながら起き上がった。周囲を見渡すと、霧が立ち込めた薄暗い森の中だった。


「シルビア、大丈夫?」

「はい……」


 シルビアが返事をするものの、その声は微かに震えていた。マリナが視線を向けると、シルビアが足を押さえてうずくまっているのが見えた。

マリナが駆け寄り、急いで様子を確認する。

シルビアは苦しげに顔をゆがめた。


「岩にぶつけたみたいで……たぶん、捻っただけだと思います。でも……動かすと痛くて……」


 シルビアが小さくうなずく間もなく、低い唸り声が木立の間から響くそれに続いて黒い影が現れ、二人を囲むようにじりじりと歩を進めてきた。


「囲まれた……」


 黒い獣影が跳躍した瞬間、マリナは素早くシルビアを押し倒し、自ら盾となるように立ちはだかった。


ドサッ──


土塊が砕け散り、二人を覆う冷たい鮮血が飛び散る。そのとき、暗闇の中から低く響く足音が聞こえた。


「誰かいる……?」


 鋭い光を持つ瞳がマリナを見下ろす。獣たちが唸り声を荒げて襲いかかるが、男は一瞬の間に身を翻し、獣影を確実に閃光の一太刀で薙ぎ倒した。


「……あれは?」


 マリナの視線は彼の目に釘付けになる。記憶の片隅に焼き付けられたような既視感が胸を締め付ける。


「待って!」


 呼びかけた瞬間、マリナの端末がまた鳴る。


『二人の、位置補足完了。下降します』


 声に気を取られて振り返ったとき、覆面の男は、霧と木漏れ日の中に消えていた。


「いない……」


 森に戻ったのは、風だけだった。


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